第三話 減らない借金と、揺れる夜
リゼ戦闘編
ある日の昼下り。
店の中は、妙に静かだった。
紙の擦れる音もない。
帳簿も閉じたまま。
窓の隙間から入る風が、かすかに布を揺らすだけ。
「みゃあ」
低く、喉の奥で鳴く音。
リゼは視線を落とす。
膝の上。
丸くなった猫の体が、ゆっくり上下している。
ごろ、ごろ、と一定の振動。
「あったかい……」
指先で背中を撫でる。
毛並みが指に絡む。
「いいなあ、そこ」
猫は動かない。
ただ、満足そうに目を細めるだけ。
「……いつも膝の上だね、気持ちよさそうだな〜」
ぽつり。
そのまま、少しだけ空を見上げる。
「……一人だと、静かすぎるな」
その瞬間。
ドン、ドン、と乱暴な音。
木の扉が震える。
猫が、びくっと跳ねた。
「みゃっ!」
爪が布に引っかかる音。
そのまま棚の上へ飛び上がる。
「ちょっ……」
扉が勢いよく開く。
軋む音。
「いるか!?」
息の荒い男。
「魔物が出た!街の外れだ!ヴァルクを――」
「いないよ」
リゼはもう立ち上がっていた。
椅子が軽く鳴る。
「私が行く」
剣を抜く。
鞘と刃が擦れる、乾いた音。
腰のベルトを締める。
革が軋む。
深く息を吸う。
「……よし」
勢いよく、外へ飛び出す。
馬は近くの商人に頼んで貸してもらった。
蹄が勢いよく石を蹴る。
足で馬の腹を蹴って急がせた。
目の前からは荒い呼吸、たてがみが風を切ってなびく。
「急いで!」
街中を一気に抜けた。
風を馬の足元にも纏わせて、一気に加速する。
目を開けるのも辛い。
土埃が、リゼの後ろに棚引いていた。
――四半刻程走っていく。
茶色い背中には滴る汗が飛び、よだれを垂らしながら走ってくれた。
「あれだ!」
少し離れた所で馬から飛び降り、背中を撫でてやる。
傍には小さな川が流れていたため、そこに放してやった。
馬には待ってるように声かけして、素早く離れる。
街道の先には転がった馬車、散乱した荷物。
そして、いくつか人らしき塊が、横たわっているのがその周りに見えた。
少し先に、叫び声と怒鳴り声が周りの混乱を招いていた。
たぶん、馬車の乗員とその護衛だろう影。
その向こうには牛のような見た目に額から大きく曲がった角が2本生えている。
体は牛よりももっと巨大で、グランブルという魔物だ。
蹄を蹴り上げながら暴れている。
重い地鳴りをするような音が少し離れていても響いてくる。
土がえぐれて、周りはひび割れていた。
そして――
「うおおおお!!」
低く、腹に響く咆哮。
巨大な影が、地面を揺らす。
背中が盛り上がり、太い尻尾が人を周りに近寄らせない。
牛の何倍もするような筋肉の塊。
「止まらねえ!」
「ロープをかけろ!」
「助けを呼べ!!」
金属が固い石にぶつかるような音が聞こえる。
数人の護衛達が、必死に剣を叩きつけている。
動きはバラバラで、負傷者も出ている。
皮膚が硬くて、攻撃が通らず数人が吹き飛ばされていった。
「……まずいな」
リゼが呟く。
剣を抜く。
空気が一瞬、張り詰める。
腕に水を絡ませ、圧縮させる。
流れが形を変える。
細く、長く、しなる。
――鞭。
振る。
ぱんっ、と乾いた破裂音。
水が空気を裂く。
魔物の気を引くために、顔面に硬い音をさせて叩きつける。
頭がグラリと揺れる。
目は赤く充血し、よだれを垂らしている。
更に興奮したようにこちらを向いた。
「よし!」
その瞬間、空気が変わる。
リゼが前に出る。
「そこ!!左右に分かれて!前に出るな!」
「けが人は下がれ!立て直すぞ!」
鋭い声が通る。
「私が前に行く!――横から削って!!」
護衛達の一瞬の迷い――。
でも、素早く指示に従った。
「……分かった!」
護衛達が左右に別れて、体勢を整える。
土を蹴る音が増える。
配置が変わる。
リゼは、正面に立ってグランブルの気を引く。
巨大な影が迫る。
突撃してくる。
風圧で、砂が舞う。
水流を展開し、目の前に分厚い膜が、瞬時に広がる。
衝突。
ドン、と鈍い音。
衝撃が腕を通して全身に抜ける。
「っ……!」
足が滑る。
地面が削れる。
完全には止めきれない。
風圧に飛ばされた石が頬をかすめる。
鋭い痛み。
温かい血が、頬を伝う。
それでも。
リゼは動かない。
「足だ!足、狙って!」
左右から剣が走る。
肉に届く音。
ぐち、と鈍い手応え。
魔物が雄叫びを上げて足を踏み鳴らす。
攻撃した者たちが、吹き飛ばされる。
リゼがその隙に踏み込んで、足元に風を纏う。
滑るように加速。
剣に水を集中させ、圧縮する。
音が消えた。自分の荒い息だけが聞こえる。
「――そこ!」
空気が裂ける。
まだ、浅い。
「ぐっ……!」
角が振り抜かれる。
「危ない!」
横にいた一人が弾かれた。
リゼが後ろに割り込んで、衝撃を受け止める。
鈍い音が響く。体が悲鳴をあげる。
呼吸が吸えない――肺が潰れるような感覚。
「……っ……!」
膝をつく寸前で、なんとか踏みとどまる。
そのとき。
リゼの呼吸の音が、止まった。
ぴたり、と。
表情が消える。
瞳の焦点が、わずかに変わる。
周囲の音が遠のいていく。
―――何も聞こえない……
ただ、動きだけが見える。
感覚が研ぎ澄まされる。
周りの動きが、ゆっくりに見える。
―――遅い
「……」
グランブルに踏み込む。
暴れる方向が分かる、人がゆっくり飛んでいく。
水を刃に圧縮する。
しならせる。
前足……目……そして首……
切る。
グランブルの首からゆっくりと血が噴き出す様をどこか遠くで感じていた。
グランブルの首が時間差で落ちていく。
グラリとその巨体が動きを止め、横にどこかゆっくりと倒れていった。
ド―――ン、と地響きが起こり地面が揺れる。
「やっ……やった……!」
「終わった……!倒したぞ――」
歓声が、あちこちで音が広がるように上がっていた。
そこで動ける人達が喜びを分かち合っている時、動かない一人の影があった。
リゼはその場でじっと立っていた。
呼吸が浅い。
周囲の空気が、陽炎のように歪む。
水が、揺れている。
徐々に周囲の熱が上がっているのが分かった。
「……おい?大丈夫か?」
二人が近づく。
「これ……やば――」
その瞬間、突風が二人の間に割り込んだ。
一瞬で空間を切り取る。
透明な壁。強引な力。
「……何やってる、お前」
低い声。
ヴァルクだ。
迷いなく熱の中に踏み込む。
立ち尽くしている、リゼを引き寄せる。
「離れろ!!」
「爆発するぞ!」
叫び、悲鳴、何かがぶつかる音―――
次の瞬間……
水と熱がぶつかる。
蒸気が弾ける。
轟音。
だが。
風が押さえ込む。
すべてを包み込む。
衝撃が、外に漏れないように。
静かに、消える。
気づけば――リゼは、抱き上げられていた。
指先が震え、呼吸がヒューヒューと鳴っている。
「……終わった?」
「……ああ、もう大丈夫だ。」
「良かった……」
短い返事。
ヴァルクが近くに止めていた馬に乗せる。
「あそこにいるあの子も返さなきゃ……」
少し先を指差す。
ヴァルクは口笛を吹いて呼び寄せる。
そして自分の馬に二人で乗りながら、もう一頭の手綱を引く。
その様子を見に来た護衛達に言った。
「後で回収に来る」
「金、用意しとけ」
それだけ。
蹄の音がゆっくりと遠ざかっていった。
部屋に戻って来ると、抱き上げていたリゼをゆっくりとベッドに降ろす。
「無茶しやがって」
低い声。
リゼが、少しだけ目を開ける。
「……ごめん……待てなかった」
「……だろうな」
「反対……されると思って」
「するな」
即答。
リゼが苦笑する。
「やっぱり……」
起き上がろうとする。
「ここ、ヴァルクのベッドでしょ」
「いい」
肩を押す。
「寝てろ」
「でも――」
「いいから」
動きを止める。
そのまま、ヴァルクは立ち上がる。
扉へ向かう。
「……ありがと」
足が止まる――でも振り返らない。
「ねぇ」
「……なんだ」
「ちょっとだけ」
小さな声。
「一人だと……寂しい」
静かに、落ちる。
「……今日だけ」
「そばにいてくれない?」
沈黙。
短く息を吐く。
「……今日だけな」
椅子を引く。
ベッドの横に置いて、ゆっくりと座る。
そのとき。
「みゃあ」
ドアの隙間から猫が入り込んできた。
布団の上にトンと飛び上がってくる。
リゼの腹の上で、少し体勢を整えながら丸くなる。
ごろごろと、喉を鳴らす。
リゼが少しだけ笑う。
「……あったかい」
毛布から手を伸ばす。
ヴァルクが、無言でそれを握った。
「……なんか」
目を閉じながら。
「子供の頃みたい」
「……そうか」
「お父さんが、こうしてくれた」
「病気のとき」
「……あったかいよ」
それきり。
呼吸が、ゆっくりになる。
眠った。
静かな時間。
猫が、小さく身じろぎする。
ヴァルクは動かない。
しばらくして。
「……父親、か」
ぽつり。
「まぁ……母親よりはマシだな」
前髪を、指で払う。
眠る顔。
いつもより、幼い。
力の抜けた表情。
静かで、無防備。
猫が目を開くとスリっと、腕に絡みついてくる。
その喉を、撫でる。
少しだけ。
胸の奥が、ざわつく。
(……面倒な予感がする……)
答えは出ない。
ただ。
ゆっくりと、身を寄せる。
ほんの一瞬。――唇が触れる。
軽く。
それだけ。
リゼは、起きない。
猫だけが、見ていた。
夜は、まだ長い。




