第十二話 減らない借金と、春の約束
ある日の昼下がり。
やわらかい春の光が、窓から静かに差し込んでいた。
空気は少しだけ緩んで、冬の名残がやっと抜けたような温度。
外の通りから、人の声がゆっくりと流れ込んでくる。
いつもと同じはずの時間なのに、どこか落ち着かない。
前からこの日を、楽しみにしていた。
そのために休みも、もらった。
時間は、まだ少し余裕がある。
でも――
「行ってくるね!」
突然そう言って、立ち上がる。
「おう」
短く返す。
「楽しんでこい」
それだけ。
リゼは、その一言に少しだけ頬を緩めて――
そのまま、外へ飛び出した。
「リゼ!」
人混みの向こうで、ふと視線が合った。
「ノア!」
その瞬間。
ノアの目が大きく見開かれる。
驚いたように息を止め、それから――柔らかく笑った。
懐かしい笑い方だった。
気づけば、リゼは駆け出している。
人波を縫うように走り、距離を一気に縮める。
呼んだ声が、自分でも驚くくらい弾んでいた。
次の瞬間。
リゼは人混みを抜け、そのまま勢いよくノアへ抱きつく。
「きゃっ……!」
不意を突かれたノアが、少しだけよろける。
慌ててリゼが腰を支えた。
「ご、ごめん!」
「ふふっ、勢いすごい……」
ノアは困ったように笑いながら、それでもリゼの背中へそっと腕を回した。
柔らかな声も、懐かしい笑い方も、何も変わっていない。
「……久しぶり、リゼ」
「ほんとに来た〜!」
思わず抱きしめる力が強くなる。
ノアは目を細め、小さく笑った。
「約束したでしょ」
少し笑って、リゼはもう一度ノアへ抱きついた。
懐かしい香りに、胸の奥がじんわり熱くなる。
それからゆっくり離れて、改めて顔を見る。
――変わってない。
柔らかく笑うところも、優しい声も、昔のままだ。
でも。
どこか少しだけ、大人びて見えた。
「元気そうね」
ノアが穏やかに笑う。
「ノアも!」
自然と二人で並んで歩き出す。
それだけで、不思議なくらい距離なんて消えていた。
会話は、すぐに途切れなくなる。
昔の話。
今の話。
離れていた時間を埋めるみたいに、次から次へと言葉が零れていった。
「あの頃さ、よく泣いてたよね」
ノアがくすっと笑う。
「リゼが守ってくれたから、今の私があるんだよ」
「私はいじめっ子が許せなかっただけ」
「リゼらしいよね」
楽しそうに目を細める。
「なんか、喧嘩っ早かったよね。なんでも怒ってた」
「も〜!忘れて!」
顔を見合わせた瞬間、同時に吹き出した。
懐かしくて。
嬉しくて。
笑顔が止まらない。
そのまま近くの店へ入る。
席についても、会話はまるで止まらなかった。
料理が運ばれてきても、話の途中で二人とも手を止めてしまう。
また思い出して笑って。
また次の話を始める。
離れていた時間なんて、最初からなかったみただった。
「変わってないわね」
ノアが、どこか安心したみたいに笑う。
リゼは少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「ノアもね」
それだけで十分だった。
言葉にしなくても、ちゃんと通じる。
離れていた時間なんて感じないまま、会話は次々と続いていく。
気づけば、窓の外の光は少しだけ傾き始めていた。
「ねえ、私……今度結婚するかも」
ノアが照れたように笑う。
「すごい! おめでとう!!」
リゼがぱっと顔を明るくした。
「ありがとう。すごく優しい人なんだ」
少し恥ずかしそうに視線を落とす。
「今度会ってね」
「もちろん! あのノアが結婚かぁ……」
しみじみ呟くと、ノアがくすっと笑った。
「リゼは? いい人……いないの?」
その言葉に、リゼの手がぴたりと止まる。
「え?」
「恋愛」
ノアはさらっと言った。
「い、いないよ!」
一瞬遅れて、少し強めに返す。
ノアがじっとこちらを見る。
「……ほんとに?」
「ほんと!」
答えながら、なぜか頭に浮かぶ顔があった。
鋭い目。
低い声。
呆れたみたいに息を吐く顔。
――逃げるなよ。
不意に思い出して、リゼはぶんぶんと頭を振る。
「いや、違うから!」
「まだ何も言ってないんだけど?」
ノアが吹き出した。
「うぅ……」
ノアがじっとこちらを見る。
「今、誰か浮かんだでしょ」
「浮かんでないよ!」
反射みたいに返す。
けれど、視線は思いきり逸れていた。
分かりやすい。
ノアの口元が、じわりと緩む。
「どんな人?」
「そ、そんなんじゃないってば!」
慌てて否定する。
でも、声が少し弱い。
勢いだけで押し切れていない。
ノアはそれを見逃さなかった。
「へえ」
くすっと笑う。
完全に面白がっている顔だ。
「会ってみたいな」
「だから、違うの!」
リゼが顔を赤くしながら言い返す。
「ただの……その、借金取りっていうか……!」
「借金取り?」
ノアがぱちぱちと瞬きをした。
「なにそれ、気になるんだけど」
「気にしなくていい!」
勢いよく返す。
その反応が余計に怪しい。
ノアは頬杖をついたまま、楽しそうに目を細めた。
「ふぅん」
その笑い方が、昔とまったく変わっていなくて。
リゼはますます居心地が悪くなる。
その否定はもう、ほとんど説得力を持っていなかった。
◇
翌日
「これ、着てみて〜」
連れてこられたブティック。
色とりどりの綺麗な女性らしい服が並んでいる。
そして、差し出された服にリゼが固まる。
「え、これ……?」
春らしい淡い紫のワンピースだった。
「無理無理、そんなの着たこと無いから」
即座に返す。
「似合うから」
何度か押し問答して、結局試着することになった。
着替えて、出てくる。
「……どう?」
スカートがス―ス―する。なんだか落ち着かない。
ファスナーもノアにあげてもらった。
手をどこに置けばいいのかも分からず、
少しだけ指が迷う。
ノアは迷わず頷いた。
「うん!キレイ!!こうして、髪を下ろせばいいわ」
プラチナブロンドの髪が、サラサラと背中に靡く。
リゼは鏡を見る。
そこにいるのは、自分だ。
でもなんだか自分じゃないみたいだった。
布が動くたびに、足元で軽く揺れる。
ほんの少し、姿勢を正す。
裾を整えて、もう一度全体を見る。
(……悪くないかも)
小さく息を吐く。
数着選んでもらい、会計をする。そのまま外へ出た。
通りに出た瞬間、空気が少し違って感じた。
人の視線が、ほんの少しだけ長く止まる。
気のせいかもしれない。
でも――
歩き出した足は、昨日より軽い。
「ほらね、やっぱりいいじゃない」
ノアが横で笑う。
何も言い返せないまま、リゼも少しだけ笑った。
◇
三日目の昼。
「ねぇリゼ、私その人に会ってみたい」
ノアがあっさりと言った。
「え?」
リゼが固まる。
「いいでしょ。気になるもの」
当然みたいな顔で続ける。
「いや、でも……」
思わず言葉に詰まる。
断る理由を探そうとして、うまく見つからなかった。
変な空気になったらどうしようとか。
ヴァルクが嫌そうな顔をしたらとか。
そんなことばかり頭をよぎる。
「……ちょっとだけだからね」
結局、押し切られる形で店へ向かった。
昼間の店内は比較的静かだった。
カウンターの奥。
ヴァルクはいつもの席で机に向かい、書類を片付けている。
ペンを走らせる音だけが、静かに響いていた。
リゼがそわそわしながら足を止める。
「この人が……」
少しだけ視線を泳がせながら言う。
「ノアです」
ノアが先に頭を下げた。
ヴァルクは手を止め、一瞬だけ視線を向ける。
鋭い目。
けれど、すぐにいつもの無表情へ戻った。
「……ヴァルクだ」
短い返事。
そのまま、また書類へ視線を落とす。
そっけない。
空気が少しだけ静まった。
けれどノアは気にした様子もなく、静かに二人を見比べる。
リゼを見る。
ヴァルクを見る。
そして、もう一度リゼを見る。
落ち着かない様子。
妙にぎこちない距離感。
なのに、互いを無意識に気にしている視線。
ノアは小さく目を細めた。
(……ああ)
なるほど。
思った以上に、分かりやすかった。
「これ……どう?」
リゼが落ち着かなさそうにスカートの裾をつまむ。
ノアと一緒に選んだ服だった。
昨日までとは違う、上下の分かれた淡いブルーの服。
柔らかな布地のスカートが、動くたびにふわりと揺れる。
慣れていないのは、一目で分かった。
歩き方も。
立ち方も。
どこかぎこちない。
ヴァルクは書類から顔を上げ、ちらりと視線を向ける。
数秒。
そのまま黙って見たあと、短く言った。
「似合ってる」
「ほんとに?」
すぐに聞き返す。
「嘘じゃないよね?」
不安そうに少し身を乗り出す。
ヴァルクは視線を逸らさない。
「嘘ついてどうする」
淡々と返す。
それから、ほんの少しだけ間を置いて。
「……ちゃんと似合ってる」
言い直した。
その一言だけで、リゼの顔がぱっと緩む。
分かりやすいくらい嬉しそうに笑った。
その様子を、ノアは静かに見ている。
(そんな顔、するんだ)
昔から、リゼは真っ直ぐだった。
怒る時も。
泣く時も。
笑う時も。
でも今の笑い方は、少し違う。
安心してるみたいな顔だった。
ノアはほんの少しだけ目を細める。
「リゼ、ちょっと紅茶買ってきて? お願い」
自然な口調で言う。
「え、今?」
「そう。今飲みたいの」
即答。
「……分かった。すぐ戻るから」
リゼは少し迷ってから頷いた。
小さく手を振り、そのまま店を出ていく。
扉が閉まる。
鈴の音が、小さく揺れた。
その途端、部屋の空気が静かになる。
「――単刀直入に聞くわ」
ノアが静かに口を開く。
さっきまでの柔らかな空気が、ほんの少しだけ変わった。
「リゼのこと、どう思ってるの?」
ヴァルクは間を置かずに答える。
「……お前に関係ない」
迷いなく切り捨てる声音。
だが、ノアは引かなかった。
むしろ少しだけ笑う。
「そう」
軽く受け流す。
それから、ゆっくり視線を落とした。
「昔ね」
静かな声。
「リゼは、ずっと誰かを守ってた」
懐かしむみたいに目を細める。
「強かったし、私も守られてたうちの一人」
ヴァルクは何も言わない。
だが、手元の書類へ落ちていた視線は、もう動いていなかった。
「無茶して傷ついて……それでも、みんなの為に笑ってた」
ノアが小さく息を吐く。
「自分がどうなるかは、いつも後回し」
少しだけ間が落ちる。
店の外を通る人の声だけが、遠く聞こえた。
「今でも、そういうやつだ」
ヴァルクが低く返す。
ノアは小さく笑った。
「ええ。……会えば、すぐ分かる」
その言葉に、ヴァルクの指先がわずかに止まる。
ノアは静かにヴァルクを見る。
探るみたいに。
確かめるみたいに。
「だから――」
一度だけ言葉を区切る。
「今度は、守られる側でもいいと思うの」
押し付ける声じゃなかった。
ただ、願うみたいに静かだった。
「……」
ヴァルクは何も答えない。
視線も動かさない。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
「あなたなら、大丈夫そうね」
最後に、ノアは静かにそう言った。
ヴァルクは答えない。
否定もしない。
ただ、視線だけがわずかに動く。
ノアはその反応を見て、小さく息を吐いた。
十分だった。
あの不器用なリゼが、あんな顔で笑う理由。
きっと、この男なのだろう。
「ただいま〜! 紅茶、これでいい?」
ぱたぱたと軽い足音と一緒に、明るい声が戻ってくる。
さっきまでの静かな空気が、一瞬で崩れた。
「ありがとう。嬉しい」
ノアが自然に笑う。
リゼは紙袋を抱えたまま、不思議そうに二人を見比べた。
「何話してたの?」
「別に」
ヴァルクが即答する。
「絶対なんか言われたでしょ!」
「別に。何も」
「嘘!」
食い気味に返すリゼに、ノアが吹き出した。
変わってない。
こういうところ、本当に昔のままだ。
「リゼ、そろそろ行くわ」
ノアがゆっくり立ち上がる。
「えっ、もう?」
「楽しかったわ、ありがとう」
それから少しだけ照れたように笑った。
「――次は、私の結婚式来てね。また手紙書くわ」
「もちろん!」
リゼがぱっと顔を明るくする。
その笑顔を見て、ノアは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「宿まで送るよ。……ちょっと行ってくるね」
「ああ」
短い返事。
扉へ向かいながら、ノアは一度だけ振り返る。
ヴァルクは相変わらず無愛想な顔をしていた。
でも。
リゼを見る目だけは、ちゃんと優しい。
ノアは何も言わず、小さく笑った。
それで十分だった。
扉が閉まる。
静けさが戻った部屋に、しばらくしてまた騒がしい足音が響く。
「ねえ、ほんとに何話してたの?」
戻ってきた瞬間、リゼがソファ越しに身を乗り出した。
「別に」
「教えてよ!」
「嫌だ」
「なんで!?」
即答。
納得いかない顔のまま、リゼはその場へ座り込む。
すると猫が足元へ寄ってきた。
「みゃ」
「……なに」
抱き上げて、そのままふわふわの腹へ顔を埋める。
猫が迷惑そうに尻尾を揺らした。
「絶対なんか言われた……」
くぐもった声で呟く。
ヴァルクはそれを黙って見ていた。
猫に埋もれて拗ねている姿が、妙に子供っぽい。
いつもの戦ってる時とは、まるで別人だ。
その様子を眺めながら――
ヴァルクはほんの少しだけ口元を緩めた。
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