第八話 減らない借金と、熱と雪の日 後編
猫ちゃんいい仕事してます。
ある冬の寒い一日。
数日降り続いた雪が、街をすっかり覆っていた。
石畳は見えず、屋根も道も白く沈んでいる。
外を歩く人影はまばらで、
厚着をした者が、ざく、ざくと雪を踏み分けて進んでいた。
音が、少ない。
雪がすべてを吸い込んでいるみたいに、街は静かだった。
店の中。
暖炉の火が、ぱち、と小さく弾ける。
その音だけが、ゆっくりと空気に溶けていく。
やわらかい熱が、部屋を満たしていた。
机の上には、うず高く積まれた帳簿。
紙とインクの匂い。
仕事は、ほとんど動いていない。
それでも――
二人は机に向かっていた。
「……っくしゅ」
小さなくしゃみ。
ペン先が、紙の上で止まる。
指先が、少しだけ冷たい。
暖炉の火があるのに、芯が温まらない。
昨日の雪の中。
濡れたまま歩いた帰り道が、ふとよぎる。
子猫を抱えて、必死に探した時間。
風に当たり続けた感覚が、まだ体に残っていた。
(……平気、だよね)
軽く首を振る。
リゼが、少しだけ眉を寄せた。
「……大丈夫?」
自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
そのまま、もう一度書き始める。
「……そこ、違うぞ」
横から、低い声。
「え?」
紙を見る。
同じ数字が、二度書かれていた。
「あれ……?」
消して、書き直す。
少しだけ手元が、ふらつく。
「……集中してないな」
ヴァルクが言う。
顔は上げないまま。
「してるよ」
即答。
でも、少し遅い。
また、くしゃみ。
今度は、少し大きい。
「……」
ヴァルクが、ペンを置いた。
立ち上がる。
隣に立つ。
手を伸ばす。
額に、触れる。
「……熱あるな」
短く言う。
「ないって」
リゼはすぐに手を払おうとする。
でも、動きが鈍い。
「顔も赤い。目も潤んでる」
「暖炉のせいでしょ」
「違うな」
間。
「……寝ろ」
「やだ」
即答。
「仕事あるし」
「今のお前にやらせる仕事はない」
「あるよ」
「ない」
一歩、距離を詰める。
「立て」
「やだって――」
広い肩幅が、リゼの視界を覆った。
強くはない。
でも、逃げられない。
そのまま、立たされた。
「ちょ、ちょっと……」
「歩け」
「自分で歩けるし!」
「なら歩け」
仕事場の続き部屋には、ヴァルクの私室がある。
大きな体の為、ベッドは少し広い。
肩に手をかけ押されながら、ベッドの前まで連れて来られた。
リゼがふらつきながら、一瞬止まる。
「……やっぱソファでいい」
「なんでだ」
「なんか……落ち着かない」
ヴァルクが一瞬だけ黙る。
それから、少しだけ息を吐く。
「……俺の匂いがするからか」
「っ!?」
反応が早い。
リゼの肩が、跳ねた。
「違うし! 全然ちが――」
「そうか」
淡々。
「なら問題ない」
暖炉に魔法で火をつけながら、ベッドを一撫でする。
そのまま、押し倒すように寝かせる。
どうやら、魔法で温めたらしい。
(温かい。器用だな……)
意識は少しボーとするし、頭はガンガンと痛かった。
ヴァルクが、毛布を丁寧に掛けてくれる。
諦めて、横になり力を抜く。
「ごめんね、、、」
「黙って寝てろ」
そして部屋を出ていったと思ったら、お盆にコップと、薬が載っていた。お盆の下にはなにやら本も持っている。
傍の机にカタッとお盆を置いて本は椅子の上にそっと乗せる。
「ほら、薬だ」
「苦い?」
「苦いな」
「……やだな。苦いの嫌い」
無言。
少しだけ間があって――
「……子供か」
「違うし!」
しばらく見つめられる。
逃げ場がない。
「……分かったよ」
渋々、薬を飲む。
(……苦っ)
ヴァルクはベッドの横に座って、静かに本を読み出した。
それをちらりと、横目で見る。
以前も一度、戦闘で暴走した時にここで寝かせてもらっことがあった。
あの時とは―――何か違う気がした。
理由は分からない。
ただ――
暖かい、ような。
安心する、ような。
ぼんやりとした感覚だけが、残っている。
「……ねぇ」
小さく、声が漏れた。
「……ん?」
「……私、ここにいてよかったのかな」
「何が?」
「……器用だから、なんでも出来そう……料理も……仕事も……」
「……」
暖炉の音。
静かな部屋。
雪の気配。
リゼの手が、ゆっくり動く。
毛布の端を、指先でつまむ。
ぎゅっと引き寄せ、鼻の上まで被る。
小さく息を吸う。
「……いい匂い」
無意識だった……
そのまま、丸くなっている。
体の力が、少しずつ抜けていく。
しばらくすると、少しまぶたが重くなる。
ヴァルクが、それを見る。
小さく笑う。
(……分かりやすいな)
「……その匂い、好きか」
聞き心地のよい低い声が、耳に届く。
リゼが、ゆっくり顔を出す。
「……ん―……」
声が弱い。
「……違う」
「……でも……嫌いじゃないよ」
沈黙。
暖炉の火が、ぱち、と弾ける。
「……なんだ」
ヴァルクがぼそっと言う。
「意識してるのかと思った」
「どうかな…………わかんない……」
反射で返す。
でも、力がない。
「そうか」
少しだけ、つまらなさそうに。
リゼの手が、無意識に動く。
毛布の中から、手が伸びる。
細い指。
でも、剣を握り続けてきた硬さが、指先に残っていた。
ヴァルクの袖をつまむ。
そのまま――
触れる。
大きくて、分厚い手。
無骨で、節の目立つ指。
包み込むように重なる。
「……ちょっとだけ」
小さく呟く。
リゼは眠そうな目で、その手を撫でる。
「……やっぱり硬いね」
指先をなぞる。
「でも……大きい」
少しだけ、力が入る。
「……こんな手だったら、もっと皆を守れたかな……」
そっと、指が絡む。
ヴァルクは一瞬だけ見る。
外さない。
「……離すか?」
「……やだ」
即答。
でも、目は閉じたまま。
間。
「……そうか」
低く言う。
――そのまま、じっと手元を見ていた。
触れられているだけなのに、
自分の方だけが、妙に意識している気がする。
(……なんだこれは)
小さく息を吐く。
それから、わずかに片眉を上げる。
「……」
視線を、リゼへ。
眠そうな顔。
無防備なまま、ただ手を握っているだけ。
(……動かねえな)
ほんの少しだけ、口元が歪む。
「……なら」
ぼそっと、低く落とす。
少しだけ、顔を近づける。
止まる。
「……聞こえてるか」
小さく確認する。
リゼが、うっすら目を開ける。
ぼんやりした視線。
「……なに」
「キスしてやろうか」
少し、考える。
ゆっくり。
「……いいよ」
小さく。
ヴァルクが、一瞬だけ止まる。
それから――
触れる。
前より、少しだけ長く。
でも、優しく。
離れる。
リゼはそのまま、眠りに落ちた。
ヴァルクが、少しだけ手を見る。
指先に残る感触。
(……)
何も言わない。
そのまま、椅子に座る。
暖炉の火だけが、パチパチと静かに揺れていた。
翌朝。
「……ん」
リゼが目を開ける。
天井。
いつもの部屋。
体は軽い。
熱は、もうない。
「……あれ」
少し考える。
「……なんか」
ぼんやり。
「変な夢、見た気がする」
あたたかい感覚。
近い距離。
安心する匂い。
「……気のせいかな」
そのとき。
「……っくしゅ」
横で、ヴァルクがくしゃみをした。
「……え?」
振り向く。
「ちょっと、大丈夫!?」
「……問題ない」
鼻を押さえながら言う。
「それ、絶対うつってるでしょ」
「知らん」
「ずっと近くにいたじゃん」
「看てただけだ」
「それが原因でしょ!」
「……お前が弱いんだろ」
リゼがじっと見る。
「……昨日、何かあった?」
一瞬の間。
「……色々あったな」
「なにそれ!?」
「覚えてないならいい」
リゼが固まる。
「え、ちょっと待って!?なにそれ怖いんだけど!?」
ヴァルクは答えない。
代わりに、近くにいた猫を掴んで――
顔を埋めた。
「んにゃ~」
「……あったかいな」
「ちょっと!それずるい!!」
騒がしい声が、部屋に戻る。
借金は、減らない。
むしろ増えている。
それでも――
悪くない一日だった。




