第1話
水族館。
そこは水中や水辺に住む生物を展示する施設であり、絶滅危惧種の保護繁殖を研究したり、人類による環境破壊を学び自戒する場だ。学術的にとても価値のある場所なのだが、人間は勉強以外の用途として使うこともある。
もう一つの用途とは娯楽、カップルのデート先だ。
「ふああ……」
剛村烈は大きく欠伸をし、目の端に溜まった涙を指で拭う。
烈が今いるのは、県内のとある水族館。館内に設置されたベンチに座っている。六月初旬である今は観光シーズン外であり、来場者はそこそこといった数。今日が休日の土曜日であるからか、カップルや家族連れが多い。
館内を歩き回る来場者達は、とある一点に目を向けていた。視線を集めているのは可愛らしい魚でも、神秘的なクラゲでも、珍しい深海生物でもない。
とある一人の少女だ。
少女が着用しているノースリーブの純白のワンピースは少しスカート裾が短めで、清楚さと可憐さが同居。頭には縁が広く白い帽子を被っており、少女の綺麗な黒髪がよく映える。横を通り過ぎる来場者達は少女に目を奪われており、男達のパートナーは嫉妬する。中には見惚れる彼氏を女性が引っ叩き、喧嘩に発展するカップルもいた。頬を抑えながら自分の彼女を追いかける男性を見て、烈はなんとも言えない気分になる。
「烈くーん」
そこにいるだけで多くの人間の心情を掻き回す罪な美少女、明日見明里は眺めていた水槽から顔を上げ、烈に駆け寄ってきた。
「座っていないで、君も楽しんだらどうだい? せっかくのボクとのデートなんだよ」
明里は烈の顔を覗き込むように、前屈みになる。彼女のワンピースは胸元が大きく開いており、屈んだ時に胸の谷間と下着の一部が見えてしまう。烈は照れていることを悟らせないようにしながら、「俺はいいよ」と顔を少し横に傾ける。
明里は不服そうに唇を尖らせる。
「つれないなあ。ほら、お魚が綺麗だよ。烈くんも見たらどうだい?」
「別に興味ないよ」
「なんだい、ボクとの水族館デートがつまらないのかい?」
「いや」
つまらないというわけではない。水族館に来たのなんて小学校の修学旅行以来であり、懐かしさを覚える。だが、はしゃぐほどではない。展示されている生物を見ても純粋な楽しさよりも、世話にするのに金や手間がかかりそうだと、コスト面を最初に考えてしまう。きっと烈が大人になったからだ。成長して大人になると、色々と余計なことを考えるようになる。水槽に張り付く子供達を見て、彼らの無邪気さが羨ましい。
「お前の方はどうなんだよ?」
「ボクかい? ボクは……」
それまでニコニコしていた明里だが、すっと真顔になる。
「退屈だな」
その回答を聞き、烈は自身の額に青筋を浮かべる。
「退屈って、それが俺を無理やり連れ出した上での感想かよ!」
今週は高校の中間試験があり、昨日の金曜日で全ての試験が終わった。ようやくテスト勉強から解放された烈は積み上げていたゲームを消化しようと、昨日は日付が変わるまでひたすらゲームに明け暮れていた。そして、今日も丸一日ゲームに充てる予定だったのだが、その予定を狂わせたのが、明里である。
彼女は早朝にいきなり烈の部屋に乗り込んできて、烈の布団を剥ぎ取った。寝起きと睡眠不足で頭が回らない烈に対して、「今日、ボクとデートに行くぞ」と有無を言わせぬ一言。
そして、寝ぼけている烈に朝食を摂らせ、外出の支度をさせ、電車とバスを乗り継ぎ数時間かけてこの水族館に来たのである。今思えば、明里を止めない烈の母親もどうかしていると思う烈であった。
烈を叩き起こしここまで連れ出したのは明里なのに、その明里が退屈と宣ったのだから、烈が怒るのも当然である。
「……そもそもなんで急にデートに行きたいなんて、言い出したんだ? 何か目的があるのか?」
「目的も何もデートそのものが目的だよ。実は昨日ね、大森さんと電話したんだ。覚えているだろ? 中学時代のボク達の同級生で、君が告白して見事に玉砕した」
「……余計な情報が付随していた気がするが、その大森がどうしたんだよ?」
「彼女は最近彼氏ができたらしい」
「……ふーん」
烈は興味なさげに相槌を打つが、内心は少しショックを受けていた。とっくに吹っ切れたと自分で思っていたが、心の隅にはまだ未練が残っていたようだ。
「大森さんにとっては初めての彼氏みたいでね、それはすごい舞い上がりで、すっかり浮かれポンチになっていたよ。中学や高校の同級生に電話をかけまくって、何人からは冷たくあしらわれているそうだ」
当時のことを思い出したのか、明里の顔はうんざりとしたものに。よほどの惚気だったのだろう。明里の様子がおかしく、烈は「あはは」とつい笑ってしまう。
「それで大森に彼氏ができたことと、今回のデートに何の繋がりがあるんだ?」
「彼女との会話の中で、彼氏とのデートが話題として出てね。その時に明日見さんも一度誰かとデートしてみたらと言われたんだ。悪意はなかったんだろう。だが、交際歴なしのボクを馬鹿にしているのかと、彼女の言葉についイラッとしてね。それでボクも負けじとデートしてやろうと思ってさ」
「……おい、まさか、お前の負けず嫌いのために俺を?」
「どうせ、ゲームしかやることなくて、暇だったんだろう? だったら、この可愛い幼馴染に時間を使ってくれてもいいじゃないか」
明里は相手の煽りや挑発に簡単に乗るような単細胞ではない。だが、昔から変に負けず嫌いなところがある。大森の言葉が相当嫌だったのだろう。
「で、俺とのデートのご感想が退屈だったと」
「君とのデートは決して悪くはない。君と一緒に遊べて楽しいと思っている。ただ、物足りないんだ」
「物足りない?」
「ただ魚を眺めることの何が楽しいんだ? 確か綺麗だが、それだけ。どうせなら様々な生物と融合した魚や、人間に寄生するイソギンチャクなどが見たい。もっと刺激がほしい」
「何を無茶なことを……」
もし、そのようなものが水族館に展示されていたら、烈は入場を断固拒否するだろう。
「デートに刺激を求めるなよ」
「じゃあ、デートには何を求めるべきなんだい? 烈くんの考えるデートとは何なんだい?」
烈も彼女がいたどころか、デートの経験もなし。だが、明里に対してデート論を諭そうとした手前、黙ることなどできない。
テレビや雑誌など見聞きした情報を脳内でかき集め、それに自分なりの考えを加える。
「何かを求めるとかじゃないんだ。ただ、二人で一緒に過ごして、思い出を作ることが重要なんだよ。ベンチで並んでいるだけでもいい。何もしないで一緒にいられれば」
なんとか紡いだ烈の言葉に対し、明里はニヤニヤと笑う。
「ほう、君は随分なロマンチストのようだな。長年一緒にいたが、君の理想のデート像は知らなかったよ。覚えておこう」
「うるせーな! お前が聞いてきたんだろ!」
烈は照れ臭さを誤魔化すように、買っておいた缶コーヒーの封を開け一気に煽る。
「まあ、烈くんの言うことも一理あるが、それでもボクは物事に刺激を求めたい。それはデートも例外じゃない。烈くん、ちょっとそこに立ってくれないか?」
「はあ、なんで?」
「事件に巻き込まれる君の体質だ。立っているだけで、事件の方から来てくれるはずだ」
「事件って、ここは水族館だぞ……」
「君の体質なら、場所関係なく事件が起こるはずだ。ボクは君を信頼している」
嫌な信頼だ。
烈としては色々と文句を言ってやりたいが、明里が満足するまで家には帰れないだろう。このデートをとっとと終わらせるため、仕方なく彼女に従うことに。
ここは事件とは無縁な水族館だし、何も起きないだろう。
烈はベンチから腰を上げ、通路に立つ。客達の楽しそうな声が聞こえるだけで、血生臭い事件が起きる気配はなし。
「ほら、何も起きないだろ。そろそろ……」
烈が帰ろうぜと言いかけた時、女性の「きゃー!」という甲高い悲鳴が聞こえてきた。
顔を引き攣らせる烈に向けて、明里はほらみろと意地の悪い笑顔を向ける。




