第8話『学食の券売機と、はじめての友だち』
高岡芸術大学、芸術学部写真学科。
その講義室の最後列で、私はひとり腕を組んでいた。
――正直に言おう。この大学の講義とやらは、私にとって退屈の極みだった。
教授と名乗る初老の男が、古びたレンズの構造や光の屈折について、何やらありがたそうに語っている。
しかし、そんなものは私の頭脳と右手の指輪に蓄積されたデータベースに比べれば、幼稚園児の落書きにも等しい基礎知識にすぎない。
……まあいい。
古代種の文化や地上人の生態を観察するフィールドワークだと思えば、この退屈な時間も研究のネタにはなるだろう。
もちろん、前回の反省を生かし、学生証はあらかじめ指輪に作成させてある。
これで、もう門前払いを食らう心配もない。完璧ね。
適当に講義を聞き流しているうちに、時計の針は正午を指した。
すると、講義室にいた学生たちが一斉にざわめき始める。
「さて、お昼ね」
周囲の人間を観察していると、みんな口々に「腹減った」「今日の学食、何だろ」などと言いながら、教室の外へぞろぞろと出ていった。
なるほど。この時間になると、彼らは一斉にエネルギー補給の場へ移動するらしい。
私もその流れに乗り遅れないよう、さりげなく後をついていくことにした。
たどり着いたのは、フロア全体に美味しそうな匂いが立ち込める、広々とした建物だった。
――「学生食堂」という名前らしい。
フロアの中央には、何やら奇妙な箱型の機械が何台も並んでいる。
学生たちはその前に順番に立ち、お金のようなものを入れたり、ボタンをバチバチと押したりしていた。すると、機械の下からペラペラの紙切れが出てくる。
「……なんだ、あれは?承認書のようなもの?それとも、何かを召喚するための護符かしら……?」
私が小首を傾げながら機械をじっと観察していると、すぐ後ろに並んでいた女子学生が、くすくすと楽しそうに笑い声を上げた。
「あはは、何その真剣な顔!もしかして、学食は初めて?それとも、何を食べるか悩んでるの?」
「……?」
振り返ると、そこには明るく快活な笑顔を浮かべた女子学生が立っていた。
「ここでお金を入れて、食べたいもののボタンを押すと、食券が出てくるの。それを持っていけば、ご飯と交換してもらえるんだよ。私は今日、日替わり定食にしようと思ってさ。ねえ、一人なら、せっかくだから一緒に食べない?」
なるほど。食事を得るための交換券を発行する装置だったのね。
「……持田さん。ありがとう。一緒に食べるのも悪くないわね」
「えっ、私の名前知ってるの?どこかで会ったかしら?」
「同じ学科の同級生よ。さっきの講義でも斜め前に座っていたじゃない」
――まあ、正確には指輪のデータベースが教えてくれたのだけれど。
「私は田中ミナカよ」
「そっか、よろしくね、ミナカちゃん!」
「よろしく、持田小春……。もちこちゃん、と呼んでもいいかしら?」
「うふふ、それなんか可愛いね。いいよ!」
初対面だというのに、もちこはまったく人見知りする様子もなく、私の隣にすっと並んだ。
「で、ミナカちゃんは何にするの?今日の日替わりは『サバの味噌煮定食』だよ。これがまた、おばちゃんの腕利きで、めちゃくちゃ美味しいらしいの!」
「サバの味噌煮……?それは、どのような組成の物質なの?」
「えっ、サバだよ、お魚!甘辛い味噌のタレが、もうご飯に最高に合うんだから。よし、私も日替わりにするし、ミナカちゃんも同じものにしない?」
「ふむ……。未知の食文化を調査するには、ちょうどよさそうね。では、それにしましょう」
もちこは慣れた手つきで券売機のボタンを押し、ペラペラの食券をひょいと取り出した。
私もそれに倣い、同じものを注文する。
私たちはそのまま受け渡しカウンターへ進み、食券をおばちゃんに渡した。
すると、ものの数秒で、私の目の前に料理が差し出された。
茶色く照り輝く魚の切り身が乗った皿に、白いご飯、そして汁物。
「ほら、空いてる席、あそこだ!行こ、ミナカちゃん!」
もちこに案内されるまま、私たちは窓際の明るい席に腰を下ろした。
「じゃあ、さっそくいただきます!」
もちこは手を合わせると、箸でサバの味噌煮をつまみ上げ、口に運んだ。
私もそれに倣い、おそるおそる箸でサバの身をほぐしてみる。
ふわりと立ち上る湯気とともに、甘く香ばしい味噌の香りが鼻をくすぐった。
地底の栄養キューブや、先日食べたインスタント食品とはまるで違う。目の前で調理された料理ならではの、食欲をそそる香りだ。
私は一口分を口に運んでみた。
「――っ……!」
舌の上で、魚の身がほろりと柔らかく崩れる。
そこに染み込んだ濃厚な味噌のコク。甘辛いタレの奥から、生姜の爽やかな風味がふわりと広がった。
「どう? 美味しいでしょ、学食のサバ味噌!」
もちこが期待に満ちた目でこちらを見つめてくる。
「……驚いたわ」
私は思わず、もう一口サバの身を口に運んだ。
「骨や皮の処理こそ少し面倒だけれど、この複雑な旨味と、加熱された魚の脂が織りなすハーモニー……。私の味覚データベースを、心地よく刺激してくれるわね」
そして、私は素直に感想を口にした。
「……美味い」
「でしょ、でしょ!ここに来たら、とりあえず日替わりを頼んでおけば間違いないんだから!」
もちこは満面の笑みを浮かべ、今度は白いご飯をぱくぱくとかき込んでいる。
その気取らない、けれど底抜けに明るい食べっぷりを見ていると、なんだか私まで胸の奥が温かくなるような、不思議な気持ちになった。
地上人というのは、食事をするとき、こんなにも楽しそうな顔をするものなのね。
「ねえ、ミナカちゃんってさ、なんかこう……雰囲気が独特というか、お嬢様っぽいよね」
もちこはご飯を飲み込むと、ふと思い出したように尋ねてきた。
「普段はどんな写真を撮るの?写真学科に入ったってことは、何かこだわりがあるんでしょ?」
「写真、ね……」
私は少し考え込んだ。
そもそも、私が写真学科に入ったのは、指輪に大学を調べさせ、暇つぶしになりそうな学科を選ばせた結果にすぎない。
だが、ここで正直に答えるのも、エリートとしての威厳に関わる。
私は少しだけすまし顔をつくり、重々しい口調で語り始めた。
「そうね……。私の研究テーマは、この地上という星における『光学的現象の極限追求、および有機的物質が放つ一瞬の輝きの定量的記録』よ」
「うわっ、なんかよく分からないけど、めっちゃ芸術家っぽい!」
もちこは目を輝かせた。
「私なんか、『友達にカッコいいポートレートを撮ってって言われたから』っていう、すっごく単純な理由なのに……!」
「ふっ、案ずるな、もちこ。これから私が、君に真の芸術の概念を――」
そこまで言いかけて、私はふと手元のサバの味噌煮に目を落とした。
茶色いタレをまとい、つやつやと輝くその姿。
この照り、この質感、この絶妙な光の反射……!
――そう。私の本当の目的は、この地上で出会った最高に美味い食べ物たちの美しい瞬間を完璧に撮影し、いつでも脳内のアーカイブで再生できるようにすること。
美味しいものは正義なのだ。
「……ミナカちゃん?」
もちこの声で、私は我に返った。
「なんか真剣な顔でサバの切り身を見つめてるけど……。もしかして、そんなに美味しかった?」
「な、なんでもないわ!」
私は咳払いを一つして、すまし顔を取り戻した。
「……写真とはすなわち、食欲……じゃなくて、真理の追求よ」
「ええっ!? 食欲って言いかけなかった!?」
若干、唖然としているもちこをよそに、私はサバの味噌煮を堪能した。
そして、その美しい照りと絶妙な盛り付けを、忘れないうちに指輪の記録機能へと保存しておいた。
こうして、私の思いがけない大学生活は、愉快な人間の友人と、美味なるサバの味噌煮との出会いによって、賑やかに幕を開けたのだった。




