第23話『晴天のパノラマと、不穏な雲』
学校の広大な駐車場には、遠足用の貸切バスが六台、低いエンジン音を響かせながらずらりと並んでいた。
車内は、これから始まる非日常への期待でいっぱいだ。あちこちから弾むような話し声や笑い声が聞こえ、いつもの学校とはまるで違う空気に包まれていた。
「あやちゃーん!こっちこっち、二号車だよ!」
「お待たせ!いやあ、今日の遠足、楽しみだねー!」
あやちゃんが駆け寄ってくると、私は手を振って迎えた。
「私、富山に住んでるけど、実は『雪の大谷』を生で見るのは初めてなんだよね」
「私は小さい頃にお父さんに担がれて行ったことがあるみたいなんだけど、当時の記憶なんてほとんどないからなあ。実質、あやちゃんと一緒みたいなものだね!」
「じゃあ、今日は二人とも初めてみたいなものだね!」
そんな会話で盛り上がっているうちに、バスはゆっくりと学校を出発した。
市街地を抜け、立山へと向かう道を進んでいく。やがてバスは有料道路のゲートを通過し、山道をぐんぐんと登り始めた。
窓の外では、景色が少しずつ変わっていく。
緑豊かな山肌。遠くに連なる険しい峰々。そして、ところどころに姿を現す深い谷。
標高が上がるにつれて、私たちの期待もどんどん膨らんでいった。
「ねえ、みんな見て!称名滝が見えるよ!」
誰かの声に反応して、車内のあちこちから歓声が上がる。
窓の向こう、切り立った山肌を流れ落ちる白い水の筋が見えた。遠目にも分かるその高さと迫力に、自然の雄大さを感じずにはいられない。
「すごいね……!あんな高いところから水が落ちてるんだ……!」
途中、美女平でトイレ休憩を挟み、私たちは再びバスに揺られた。
冷たく澄んだ山の空気を想像しながら、窓の外を眺めていると――。
「まもなく室堂です」
車内アナウンスが流れた。
いよいよ、標高二千四百五十メートルの室堂平に到着だ。
バスが停車し、扉が開く。
外へと足を踏み出した瞬間、私は思わず肩をすくめた。
「うわっ、結構寒いね……!」
平地とはまるで違う冷たい空気が、頬を撫でていく。思わず両腕を抱えると、あやちゃんが空を見上げて声を弾ませた。
「でも、見て!雲一つない快晴だよ!最高に気持ちいいね!」
つられて顔を上げる。
そこには、吸い込まれそうなほど青く澄み切った空が広がっていた。遮るもののない大空と、間近に迫る雄大な山々。普段の生活ではなかなか味わえない景色に、思わず息を呑む。
「はい、みんな集合!」
そんな私たちを、美空先生の声が呼び戻した。
二組の担任である先生は、しおりを片手に、てきぱきと説明を始める。
「まずは自由行動にします。ただし、事前に申請していたメンバーは『一の越』まで登山する予定だから、十一時には必ずこの場所に集合すること!時間厳守よ!」
「はーい!」
返事をしながら、私はあやちゃんと顔を見合わせた。
「ねえ、せっかく来たんだし、ライチョウとか見られないかな?」
「いいね!雪の大谷を見たら、絶対探しに行こうよ!見つけて写真を撮って申請すると、記念のライチョウシールがもらえるらしいし!」
せっかくの立山だ。できることなら、ここでしか出会えない動物にも会ってみたい。
私たちは逸る気持ちを抑えながら、まずは目の前の名所へと向かった。
――雪の大谷。
高さ十五メートルにも迫る、巨大な雪の壁だ。
間近に立つと、その迫力は想像以上だった。
どこまでも続く白い壁。その向こうに広がる青空。太陽の光を受けた雪面は眩しいほどに輝き、まるで白い巨城の中に迷い込んだような気分になる。
「テレビや写真で何度も見たけど、実際に目の前にすると迫力が全然違うね……!」
私は思わず見上げた。
「うん!なんだか、雪の壁にすっぽり包まれてるみたい!」
「ねえ、記念写真撮ろうよ!先生、すみません!写真をお願いしてもいいですか?」
あやちゃんが、ちょうど近くを通りかかった美空先生にスマホを差し出した。
「はいはい、いいわよ。じゃあ、二人とも笑ってー!」
青空と眩しい雪の壁を背景に、シャッターが切られる。
「やった!最高の一枚だね!」
写真を確認しながら、私たちは顔を見合わせて笑った。
「よし、次はライチョウ探しだ!」
雪の大谷を後にした私たちは、みくりが池の周辺へと足を向けた。
青く澄んだ池は、風が穏やかなせいか、鏡のように周囲の山々を映し出している。雪の残る山肌と水面の青さが織りなす景色は、思わず見入ってしまうほど美しかった。
「ここって、あの有名なアニメの聖地だよね!」
「見た見た!主人公がオオカミになって走り抜けるシーンのモデルになったところだよね!」
二人の話を聞きながら、私は周囲の景色を見回した。
こんな場所を舞台にした物語なら、きっと素敵だろうな。
そんなことを考えていた、そのとき。
「あ、ちょっと待って……!」
私はぴたりと足を止めた。
「どうしたの、さわ?」
あやちゃんが不思議そうに振り返る。
「しっ……!あそこ、ハイマツの陰……!」
私がそっと指を差した先。
そこには、茶色い羽毛に包まれた小さな生き物がちょこんと佇んでいた。
ライチョウのひなだ。
「うそ……本物……っ!」
思わず声が出そうになり、慌てて口を押さえる。
「本当にいた……!かわいい……!」
あやちゃんも目を輝かせた。
私たちは驚かせないように距離を保ったまま、そっとスマホを構えた。小さなひなは、周囲を警戒するようにあたりを見回している。
「子どもがいるってことは、親も近くにいるのかな……?」
「かもしれないね。でも、近づきすぎないようにしよう」
夢中になりながらも、私たちは静かに写真を撮った。
そして、撮れた写真を確認した瞬間――。
「やったー!これでライチョウシール、もらえるね!」
思わず顔を見合わせて、小さく飛び跳ねた。
まさか本当に出会えるなんて!
大喜びしていた私たちだったけれど、ふと時計を確認して、二人そろって顔色を変えた。
「やばい!そろそろ集合時間だよ!」
「えっ、もうそんな時間!?急いで戻らなきゃ!」
私たちは慌てて集合場所へと引き返した。
――ダッシュで広場に戻ると、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。
「田中、松井!ギリギリセーフだぞ!」
美空先生が、少し呆れたような顔で私たちを迎える。
「先生、見てください!ライチョウのひなを見つけたんです!これ、証拠の写真です!」
息を切らしながらスマホを見せると、先生は画面を覗き込み、目を丸くした。
「あら、本当だ!よく見つけたわね。ライチョウは周囲の環境に溶け込んでいるから、見つけるのも簡単じゃないのよ」
「えへへ、運がよかったです!」
「しかも、こんなに天気がいい日に出会えるなんてね。素敵な思い出になったわね」
先生に褒められて、私たちはすっかりいい気分になった。
……が。
先生はふと表情を引き締め、遠くの山を見据えた。
「さて、それじゃあ、ここから一の越まで登る組は気を引き締めて行くわよ!」
先生が指さした先には、山の斜面を登ったはるか上方に、小さな山小屋が見えていた。
一の越山荘だ。
あそこまで、自分の足で登る。
そう考えた途端、さっきまでの高揚感が、じわじわと不安に変わっていった。
「……ねえ、あそこまで登るんだよね?」
「うん。そうだね……」
あやちゃんも、山小屋を見上げたまま固まっている。
どうしてあのとき、登山に参加するなんて言っちゃったんだろう。
私たちは早くも、自分たちの軽率な選択を少しだけ後悔し始めていた。
「大丈夫よ。無理をせず、自分のペースで登ればいいからね。ただし、標高が高いから、平地と同じ感覚では歩けないわ。息が苦しくなったり、気分が悪くなったりしたら、すぐに伝えること。それから、雪が残っている場所もあるから、足元には十分気をつけてね」
先生はそう言って、私たちの顔を見回した。
「はい!」
返事はしたものの、目の前の山道を見れば見るほど、本当に登り切れるのか不安になってくる。
それでも、ここまで来たからには頑張るしかない。
私たちは先生の後に続き、登山道へと足を踏み出した。
「途中、日陰にはまだ雪が残っているところがあるからね。雪渓を横切るときは、滑らないように慎重に歩くこと!」
「はーい!」
最初のうちは、まだ余裕があった。
周囲の景色を楽しみながら、クラスメイトたちと話す余裕もある。
けれど、登り続けるうちに、少しずつ息が上がってきた。
「はあ……はあ……。思ってたより、ずっときついね……」
「うん……。平地の坂道とは全然違う……」
標高が高いせいか、いつもより息が切れるのも早い気がする。
それでも、先生の注意を聞きながら、一歩ずつ慎重に進んでいく。
やがて、日陰に残った雪渓が見えてきた。
「ここは滑りやすいから、慌てないでね。足元をよく見て、一人ずつ進みましょう」
先生の指示に従い、私たちは慎重に雪の上を横切った。
冷たい風が頬を撫で、足元の雪がぎゅっと音を立てる。
無事に渡り終えたときには、ほっと胸を撫で下ろした。
その後も、急な斜面を一歩ずつ登っていく。
ふくらはぎも太ももも、そろそろ限界だと訴えている気がした。
「はあ……しんど……」
ようやく最初の小休憩に入ると、私はその場で大きく息を吐いた。
「先生、お疲れ様です!よかったらチョコレート、どうぞ!」
リュックからおやつを取り出し、クラスメイトたちと分け合う。
甘いチョコレートが口の中で溶けると、少しだけ疲れが和らいだ気がした。
すると、美空先生がにっこりと笑いながら、ポケットから何かを取り出した。
「ありがとう。じゃあ、先生からも差し入れね。甘いものを食べたあとは、しょっぱいものも欲しくなるでしょう?」
手渡されたのは、富山県民にはおなじみのおやつ――スティック状のかまぼこ、『棒S』だった。
「わっ、これ大好きです!」
私は思わず声を弾ませた。
パッケージを開け、さっそく一口。
かまぼこのしっかりとした旨味に、チーズの濃厚なコクが重なって、口いっぱいに広がる。
「んーっ、美味しい!」
ほどよい塩気が、先ほど食べたチョコレートの甘さとは違う満足感を与えてくれる。
「疲れたときに食べると、いつも以上に美味しく感じるね!」
「ふふ、それはよかったわ」
先生は嬉しそうに頷いた。
「これがあれば、山頂まで一気に行けそうなくらい元気が出ました!」
「まだ山頂じゃなくて、一の越までだからね?」
あやちゃんが、すかさず突っ込む。
「そ、そうだった……!」
思わず苦笑いを浮かべた、そのときだった。
「……あら。みんな、ガスが出てきたみたいね」
先生の声に、私たちははっとして空を見上げた。
さっきまで、どこまでも青く澄み切っていた空。
その向こうから、いつの間にか白いガスが山肌を這い上がるように流れてきていた。
「あ、本当だ……!さっきまであんなに晴れてたのに……」
白い霧は、少しずつ周囲の景色を覆い始めている。
「これが山の天気ってやつなんですね……。ちょっとペースを上げたほうがいいですか?」
私が尋ねると、先生は周囲の様子を確認してから答えた。
「山の天気は変わりやすいからね。ここからは、全員の様子を見ながら進みましょう。焦って転んだら危ないから、無理に急ぐ必要はないわよ」
「「はーい!」」
私たちは気合を入れ直し、荷物を背負い直した。
棒Sで少し元気を取り戻したとはいえ、目指す山小屋はまだ遠い。
白いガスが立ち込め始めた山道を、私たちは先生の後に続き、一歩ずつ登っていった。




