第20話『家族の温かい夕食風景と、魔法の深緑』
「ミナカ、お父さんにこれ渡してくれる?」
夕食の支度も仕上げに差しかかった頃、台所からお母さんの声が飛んできた。
手渡されたのは、分厚い昆布にしっかりと包まれた、深緑色の塊だった。
言われるがままにリビングへ向かい、テレビを見ながらくつろいでいたお父さんにそれを渡す。すると、お父さんは包みを見るなり、ぱっと顔を輝かせた。
「おっ!昨日仕込んだやつ、もうできたのか?」
「ええ。ちょうど今、お母さんがどうぞって」
そういえば、昨日の晩のことだ。
お母さんはスーパーで買ってきた新鮮なお刺身の柵を見て、こう言っていた。
「せっかく美味しいお刺身だけど、全部は一度に食べきれないから、明日のために美味しく変身させましょうね」
そう言って取り出したのが、大きなシートのような昆布だった。
酒と塩を軽く振った昆布の間に、ピンク色のみずみずしい刺身を一枚ずつ丁寧に並べ、ラップでぴっちりと包んで冷蔵庫の奥へしまっていた。
その様子を、ミナカはしっかりと覚えていた。
お父さんは待ちきれないといった様子で包みを開き、外側の昆布をペリペリと慎重にはがしていく。
すると――。
「……っ!?」
現れたものを見て、ミナカは思わず息を呑み、一歩後ずさった。
そこに並んでいたのは、表面にねっとりとした粘り気をまとい、昨日よりも水分が抜けて、色も心なしか濃くなった刺身だった。
昨日までのみずみずしい姿は見る影もない。お世辞にも、見た目だけで美味しそうとは言いがたかった。
「お父さん!それはダメよ!完全に水分が抜けきっているわ……!いや、これは冷蔵庫の中で腐敗変異を起こしてしまったに違いないわ!」
ミナカは血相を変え、お父さんが持つ皿を取り上げようと身を乗り出した。
「ちょっ、ちょっと待って!ミナカちゃん、何やってるの!」
冷蔵庫から麦茶を取り出そうとしていた妹のさわが、慌てて飛び込んできた。ミナカの服の裾をぐいっと引っ張り、その動きを止める。
「これはね、『昆布締め』っていう富山の伝統的な調理法なの!一晩寝かせることで魚の余分な水分が抜けて、昆布の旨味も加わるんだから、これで大正解なの!」
「そうなの……?てっきり、低温保存で一晩放置されたせいで、魚が変異を起こしたのかと……」
「ミナカちゃん……お父さん、ごめんね。いつもの軽い勘違いだから……」
さわが呆れたように苦笑いしながらフォローすると、お父さんは声を上げて笑った。
「ははは!ミナカは相変わらず、着眼点が斜め上を行ってて面白いな!」
「でしょう?さすが私、危機管理能力の高さが証明されちゃったわね!」
得意げに胸を張るミナカに、さわは冷ややかな視線を向けた。
「はいはい、ポジティブで結構ですー」
それでも、ミナカはまだ納得がいかないようだった。
「それにしても……」
皿の上の、干からびたように見える刺身をじっと見つめる。
「せっかくの美味しい生のお刺身を、わざわざこんなふうに水分を抜いてしまうなんて……。もったいなくないのかしら?」
その疑問に、お父さんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「まあ、小難しい理屈はいいから、まずは一口食べてみろって。お姉ちゃんも、食べたらさっきの発言を後悔するからさ」
そこまで言われては、引き下がるわけにはいかない。
ミナカは恐る恐る箸を伸ばし、醤油をほんの少し垂らした。
そして、まるで処刑台に向かうかのような覚悟を決め、昆布締めを口へと運ぶ。
「――っ!?」
その瞬間、ミナカの全身に電撃が走った。
目が限界まで見開かれ、箸を持つ手がぴたりと止まる。
「これは……!昆布で挟んで余分な水分を抜くことで、魚本来の旨味がぎゅっと凝縮されている……!」
ミナカは噛みしめるように、もう一度その味を確かめた。
「生のときのプリプリとした弾力は少し落ち着いているけれど、代わりに生まれたこのねっとりとした食感……! そして、この奥深いコク……!昆布の旨味まで加わって、刺身とはまた違う次元の美味しさが完成しているわ……!」
「さっきまで腐敗変異とか言ってたのにね……」
さわが小さくつぶやく。
しかし、感動の境地に達したミナカの耳には、もはや届いていなかった。
「禁断の魔法の保存食ね……!」
大真面目に感動するミナカの隣で、さわは慣れた手つきで皿に手を伸ばした。
「ミナカちゃん、お刺身の感動だけに浸ってる場合じゃないよ。この旨味をたっぷり吸い込んだ昆布だって、もちろん主役なんだから!」
さわは刺身の下に敷かれていた昆布を取り出し、手際よく細かく裂いていく。
そして、生卵を落とした熱々のご飯の上に、昆布をどっさりと乗せた。
「なっ、なんですって……!そんな食べ方があるの!? 私もやるわ!」
ミナカも負けじと自分の茶碗にご飯をよそい、余った昆布と昆布締めを盛り付けた。
そして、勢いよく口へとかき込む。
「なっ……これまた……っ!?」
二度目の衝撃が、ミナカの脳天を直撃した。
「卵黄のまろやかなコクに、魚の濃厚な旨味、そして昆布の旨味が完璧に融合している……!ねばねばとした食感も、ご飯によく絡むわ!お互いの良さを引き立て合う、まさに奇跡の食材の協奏曲じゃない……!」
すっかり昆布締めの虜となり、目をキラキラと輝かせるミナカ。
その隣では、お父さんが余った昆布の切れ端を小さくちぎり、焼酎の入ったコップに入れていた。
そこへ熱々のお湯を注ぐと、ふわりと昆布の香りが立ち上る。
お父さんは、それをゆっくりとすすった。
「はぁ……うまい」
その顔には、至福の表情が浮かんでいた。
「……お父さん、それは何?」
ミナカが興味津々で尋ねる。
「昆布を入れた出汁割りだよ。こうすると、昆布の旨味が焼酎にも移るんだ」
「な、なんですって……!昆布の力は、お刺身にも、ご飯にも、さらにはお酒にまで及ぶというの……!?」
ミナカは驚愕の表情で、昆布の切れ端を見つめた。
「生のお刺身だけが魚の正義だと思い込んでいた、私の浅はかさを恥じるわ……。昆布、恐るべし……!」
すっかり富山の海の恵みと昆布の偉大さにひれ伏したミナカは、その日の夕食の席で、誰よりも熱く、そしてどこか誇らしげに「昆布の神秘」についての持論を語り続けるのだった。




