第17話『春の南風と、水面に光る星空』
「お父さん!もうそろそろホタルイカの時期だけど、今年は取りに行かないの?」
さわが父に問いかけた。
「そうだな、もうそんな時期か……」
父は少し考えると、自室へ戻っていった。
しばらくして戻ってきた父の手には、長靴、サーチライト、網、そしてクーラーボックスが抱えられていた。さらにスマホを取り出し、天気予報と潮汐表を真剣な表情で確認し始める。
……なんだか、ずいぶん本格的だ。
「ちょっと、さわ。ホタルイカって何?」
ミナカが不思議そうに尋ねてきた。
「富山湾の名物よ。この時期になると、産卵のために岸近くまでやってきて、浜辺で捕れることがあるの。条件がよければ、素人でも捕まえられるのよ」
私は少し得意げに説明した。
「その青く輝く姿は『富山湾の宝石』とも呼ばれていて、観光船から幻想的な光景を見られることもあるんだから。そして何より――美味しいの!」
「……なるほど」
ミナカの瞳が、すっと輝いた。
「それはぜひ、研究しなければならないわね。もちろん、実際に味わってみないことには始まらないわ!」
いや、もう食べる気満々じゃない。
「お父さん、今から取りに行きましょう!」
「ははは。ミナカ、ホタルイカは夜にならないと捕れないんだよ。ちょうど明後日あたり、条件が合いそうだからな。父さんが捕ってくるよ」
父はスマホの画面を確認しながら答えた。
「楽しみだわ……!」
ミナカは、早くもホタルイカの味を想像しているようだった。
――そして、待ちに待った夜がやってきた。
「じゃあ、行ってくるね。明日の朝を楽しみにしていてくれよ」
父は道具一式を車に積み込み、玄関を出ていった。
「私も行きたかったのに……」
ミナカは、いかにも残念そうに肩を落とした。
しかし、父からは「夜の海は危ないから、ミナカちゃんはお留守番だぞ」と念を押されている。
「……おやすみなさい」
ミナカは素直に返事をすると、自室へ引き上げていった。
ところが。
家の中が静まり返り、みんなが寝静まった頃――。
「やっぱり、この目で確かめたいわね」
ベッドから起き上がったミナカは、指輪を掲げた。
「【フルツアンテ】」
次の瞬間、彼女の身体がふわりと浮かび上がる。
そのまま窓から夜空へと飛び出していった。
「指輪、お父さんの居場所は?」
『現在地、ここから北へ約七キロメートル。滑川の海岸付近です』
「よし。案内してちょうだい」
新月の暗い夜。
南風の生暖かい空気が、ミナカの頬を優しくなでていく。
「気持ちいいわね……でも、月は見えないのは残念ね」
地上の明かりを眼下に眺めながら、ミナカは夜空を滑るように飛んでいった。
やがて、暗闇の向こうに海が見えてきた。
そして――。
「――っ!」
ミナカは思わず息を呑んだ。
海面のあちこちに、青白い光が瞬いている。
波が寄せては返すたび、無数の光が揺れ、瞬き、暗い海を幻想的に彩っていた。
まるで、夜空に散らばった星々が、そのまま海へ降りてきたかのようだった。
「なんて綺麗なの……!」
ミナカは眼下に広がる光景に目を奪われた。
「空にも星が輝いているのに、海の中にも星があるなんて……。これが、ホタルイカの身投げ……!」
地底の村では、人工の太陽が昼を作り、整えられた照明が夜を彩っていた。
けれど、目の前にある光景は違う。
自然が生み出した、誰にも制御できない光の競演。
ミナカはしばらくの間、ただ黙ってその美しさを眺めていた。
やがて、はっと我に返る。
「そうだわ!これは今月の課題にぴったりじゃない!」
「【ヘチラール】」
指輪の圧縮収納から、お気に入りの一眼カメラを取り出した。
「今月の課題に、これ以上ない被写体だわ……!」
ミナカは夢中でシャッターを切り始めた。
海面すれすれに漂う光の帯。波の動きに合わせて散っていく青白い輝き。そして、空から見下ろすことで初めて捉えられる、光の広がりと海岸線のコントラスト。
指輪の飛行能力を生かし、地上からでは決して撮れない角度を次々と探っていく。
「ここね……!」
シャッター音が、静かな夜の空気に小さく響いた。
一枚、また一枚。
ミナカは光の配置を見極めながら、夢中で撮影を続けた。
やがて、満足げにカメラを下ろす。
「ふぅ……。たくさん撮れたわ。あとは、お父さんがホタルイカをたくさん捕ってきてくれるのを待つだけね」
写真も撮れた。夜空の散歩も堪能できた。
「満足、満足!」
ミナカは誰にも気づかれることなく帰宅し、何事もなかったかのように自室のベッドへ戻ったのだった。
*
翌日の夕食時。
テーブルの上には、茹で上がったばかりのホタルイカが並んでいた。
鮮やかな赤紫色の小さな身体。その横には、たっぷりの酢味噌が添えられている。
「これが、夜にあんなふうに光るの?不思議ねぇ……」
ミナカは一匹をじっと観察したあと、首を傾げた。
「でも、お父さん。もっと大きいホタルイカはないの?みんな赤ちゃんイカみたいだけど」
「ミナカちゃん!ホタルイカはそもそも、このくらいの大きさなんだよ!」
「ミナカのボケはいつも冴えてるな!」
父とさわが、ほぼ同時にツッコミを入れた。
「あら、そうだったかしら?ちょっとしたギャグよ」
絶対に今、初めて知った顔だった。
ミナカは分かりやすくとぼけながら、箸で一匹をつまみ、口へ運んだ。
「――っ!」
ぷちっ。
口の中で、心地よい弾力が弾けた。
その瞬間、豊かな潮の香りがふわりと広がる。
噛みしめるほどに、イカならではの濃厚な旨みと甘みが押し寄せてきた。
そこへ、甘酸っぱい酢味噌が絡む。
ホタルイカのコクを引き立てながら、後味をさっぱりとまとめてくれる。添えられたヌタのシャキシャキとした食感も、いいアクセントになっていた。
「なにこれ、美味しい……!」
ミナカは思わず目を見開いた。
「この小さな身体に、これほどの旨みが詰まっているなんて……!酢味噌との相性も完璧だわ。口の中で、海の恵みが一つにまとまっていく……!」
「ははは、気に入ってくれたみたいだな」
父は嬉しそうに笑った。
「今年はたくさん捕れたから、まだまだあるぞ。冷凍もしてあるし、明日以降は刺身や昆布締めにしてもいいかもしれないな」
「刺身に、昆布締め……!」
ミナカの表情がぱっと明るくなった。
「同じ食材でも、調理法によって味わいが変化するのね。これは、明日からの研究も楽しみだわ……!」
「研究って、結局は食べることじゃない」
「何を言っているの、さわ。味覚による分析も立派な研究よ!」
「はいはい」
こうして、ミナカのホタルイカ研究は、翌日以降も続くことになったのだった。
*
数日後。
高岡芸術大学、写真学科。
ミナカが提出したホタルイカの写真は、講評会で圧倒的な高評価を獲得していた。
海面を埋め尽くす青白い光。闇に浮かび上がる海岸線。そして、自然の光が作り出す繊細なグラデーション。
その美しさもさることながら、構図の大胆さと光の捉え方が、教授陣の目を引いた。
「素晴らしいな……。この光の広がりを、こんな構図で捉えるとは」
「しかし、撮影位置はどうなっているんだ?この高度から撮影したのか?」
「最新のドローンでも使ったのか?いや、それにしては画角が……。まさか合成ということはないだろうな?」
教授たちは写真を前に、ああでもない、こうでもないと議論を始めた。
当然ながら、ミナカが指輪の力で空中を自由に飛び回りながら撮影したなどとは、誰も想像していない。
一方、当の本人はというと。
「ふふん。地上の写真技術も、なかなか侮れないものね」
自分の写真が高く評価されたことに満足しつつ、次は何を撮影しようかと考えていた。
教授陣が研究室で頭を抱えることになるなど、この時のミナカは知る由もなかったのだった。




