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そのときだった。
「──デイル様!」
聞き覚えのある声に、デイルは目を瞠った。俯いていた顔を、ゆらりと上げる。目の前に立っていたのは、グレースだった。
ぞわっ。
デイルの全身の毛が、一気に逆立った。身体が、ガタガタと震えはじめる。
「……な、なんで」
ここにいるんだ、と。
腰が抜けるほどの驚愕で言葉を続けられなかったデイルを嘲笑うように、グレースは、にこっと綺麗に微笑んだ。
♢♢♢
父親に捨てられ、母親にも事実上見捨てられたグレースはきっと、あの事件を目撃したときから、おかしくなっていたのかもしれない。母親が父親を刺したこと以上に、母親に捨てられたことが、グレースには受け入れがたかった。
母親は、モリーは、あのとき、グレースを見ていなかった。娘を一人にしてしまうかもしれないという心配より、マケラ子爵への殺意を優先した。
だからこそ、絶対に自分を捨てない存在を欲した。それがグレースにとっては、デイルと、オリヴィアだった。というより、グレースにはもう、その二人しか残っていなかった──と、本人は思っていた。
実際は、デイルはグレースとの別れを決め、オリヴィアはとっくに、グレースを見限っていたのだが、グレースには、それがわからなかった。
だから、オリヴィアに突き放されたとき、お義姉様は変わってしまったのだと、なんでもいうことを聞いてくれていたのに、とても冷たい人間になってしまったと、グレースは衝撃を受けた。
その理由が、本気でわからないグレースは、オリヴィアを最低だと罵りながらも、怖ろしくなった。
──あたしにはもう、デイル様しかいないんだ。
そう、心が震えた。
だからデイルと住むようになってから、捨てられる恐怖に怯えたグレースは、仕事場に向かうデイルを見送るふりをして、いつも、デイルの跡をつけていた。どこかに行ってしまわないか、不安でたまらなかったから。
デイルが仕事場の建物に入ると、とりあえずは家に戻り、与えられた家事をこなす。それでも時間ができれば、デイルの仕事先に向かい、建物をじっと見つめる日々。
グレースは、聞き分けの良い彼女──あくまで自分にとっては、だったが──を演じながら、デイルの行動すべてを把握するための努力は惜しまなかった。
それはもう、グレースの日課になっていた。だから、デイルがグレースから逃げようとした今日、たまたまデイルの行動を見張っていたわけではない。
ただいつものように、仕事に向かうデイルを、少し離れた場所から見守っていただけだ。なのに、いつもと違う道を行くデイルに、グレースは戸惑いながらも、あとをつけた。
すると、デイルが辻馬車に乗り込んだ。そのまま、じっと座って動かないデイル。
グレースが、建物の角からそれをじっと見つめる。近くを通りかかった男性に「あの馬車はどこにいくんですか?」と訊ねると、男性は、隣街だよ、と教えてくれた。グレースは、そうですか、と瞬きせず、無表情で答えた。
なんで、と。グレースは思った。
(あたしが昨日、パニックになっちゃったから……? お母様がお父様を刺したみたいに、あたしも同じことをするかもしれないって、不安にさせてしまったのかな)
──しないのに、そんなこと。だってあたしは、デイル様を愛しているもの。
ちゃんと伝えなきゃ。あたしは、お母様とは違うって。
そうこうしているうちに、デイルを乗せた馬車は動き出してしまった。グレースは街の出入り口で、隣街に行く馬車を見つけるなり、お金を払うから乗せてほしいと頼んだ。
オリヴィアにもデイルにも黙っていたが、マケラ子爵から貰ったお金を、グレースは、まだいくらか隠し持っていたのだ。
そうして、隣街まで連れて来てくれた人にお金を渡し、丁重にお礼を述べると、グレースはデイルを探した。そうしてほどなくデイルを見つけたわけだが、グレースはその経緯を、ずっとデイルの行動すべてを把握していたことを、話すつもりはなかった。
「どこまでもついて行きますよ、デイル様。愛しています」
どこに逃げても、どこまでも追いかける。グレースの目がそう語っているように、デイルには見えた。
「……ひっ」
デイルが恐怖に怯えるが、グレースはなにも感じなかった。グレースの中で、デイルが自分を嫌うことなど、ありえないと思っていたから。
グレースは宣言通り、どこまでもついてきた。隙を見て逃げても、気付けば傍にいる。やがてデイルは、諦めた。諦めさせられた。心身共に、もう限界だったのだろう。
オリヴィアに助けを求めることも考えた。しかしデイルは、あまりに王都から離れたところに来てしまっていた。
(……オリヴィアの依存なんて、可愛いものだったんだな)
真昼。アパートの一室にある寝台で横になりながら、デイルはぼんやり思った。最近どうしてか、気付けばオリヴィアのことばかり考えるようになっていた。
グレースは、いまはいない。いま住んでいるアパートの一階にある花屋で働いているからだ。愛想がよく、顔もいいグレースは、いまや看板娘として、街の人気者になってしまった。
精神を病んでしまった恋人を支える、健気な彼女。そんな風に、街の人たちは噂している。
いや、実際、そうなのだろう。いまのグレースは、完璧とは言わないまでも、家事もそこそこできるようになっていたし、働いてもいる。
いまならデイルに依存する必要なんてないのに、グレースは常に、デイルを見張っている。部屋から出るのにも、グレースの許可がいる。というより、一階で働いているので、グレースに見つからずに逃げる自信が、デイルにはない。もし勝手に出掛けたことがバレたら、なにをされるかわからない。
近所の人はみんなグレースの味方で、デイルがなにか行動を起こせば、すぐにグレースの耳に入ってしまう状況になっていた。
もはや、街のみんなに、見張られている気分だった。
『──オリヴィアのこと、お願いね』
ふいに、ナタリアの声が頭の中に響いた。同時に、幼いころのオリヴィアの笑顔が浮かんできて、デイルの目から、ボロボロと涙が溢れはじめた。
違う。違うんだ、と。
(……ちゃんと、好きだったときもあったんだよ)
そう心の中で呟きながら、デイルはそっと瞼を閉じた。
♢♢♢
その後。
デイルは本格的に逃げることを諦め、働く意欲も失ってしまった。そんなデイルは、グレースに養ってもらっている状態だったので、次第にデイルも、グレースに依存するようになっていった。
精神的にも、経済的にも、優位になったグレース。捨てないでくれと嘆くデイルの姿に、グレースは安堵する。
「大丈夫ですよ、デイル様。ずっとずっと、傍にいますからね」
まわりからは、あんな男とは別れた方がいいと言われ続けたグレースだったが、グレースもまた、デイルに依存し続けていたので、二人が離れることは、ついになかった。




