4
──嫌な夢を見たわ、と。
オリヴィアはまだ動悸のする胸に手を当てた。遅刻してしまいますよ、との侍女の声にはっとし、急いで制服に着替える。
現実感のないまま、一階の食堂に向かう。侍女が食堂の扉のノブを握る。オリヴィアは、どきりとした。食堂の扉の向こうから、楽しそうな笑い声が漏れ聞こえてきたからだ。
侍女が扉を開ける。そこにはあの悪夢が現実だったときにはありえない、デイルとグレースの笑顔があった。
「おはよう、オリヴィア」
「おはようございます、お義姉様!」
顔が引き攣りそうになりながらも、オリヴィアは二人に、なんとか、おはよう、と笑顔で返した。
いつもの席、デイルの正面にある椅子が侍女によって引かれ、オリヴィアが腰を下ろす。隣には、グレースが座っている。
「でね、デイル様。あたし、今度のお休みはお洋服を買いに行きたくて」
「いいね」
二人の会話に、どんどん現実に引き戻されていくような感覚に陥るオリヴィア。
そう、そうだった。この二人は、いつもこんな感じだったわと。
(……ああ、また三人ででかけるのね。最後に二人でデートに行けたのは、いつだったかしら)
ふと思い、デイルを見た。デイルはグレースだけを見ていて、オリヴィアの視線にはまったく気付いていない。そもそも、見ようとする気があるのかすら怪しい。
(……悪夢、か)
デイルがグレースを好きになるわけがない。頭で必死に言い聞かせようとしても、心のどこかで否定する自分がいる。
──そんなわけないじゃない、と。
これまでも、そうだった。悪夢を見たから、はじめてそう思ったわけではない。
あれは、いつだったか。
グレースが王都にきてから数ヶ月が経ったころのこと。
♢♢♢
たまには二人きりになりたい。思い切ってグレースのいないところでそう伝えたオリヴィアに、デイルは冷たく、こう吐き捨てたことがある。
──冷たい姉だね、と。
オリヴィアを黙らせるには、充分な言葉だった。それ以来、家族と同じように、デイルに対しても、オリヴィアはやりたいことなどが、口にできなくなっていった。休日の予定も、グレースが希望するところに行くのがもはや当たり前になっていき、それを不満に思っても、嫌われるのが怖くて、なにも言えなかった。
たまに希望を聞かれることはあっても、それはデイルではなく、グレースにだった。お義姉様は、どこか行きたいところはありますかと。しかしそれは、たまたまグレースが行きたいところを思いつかなかったときだけだ。
ペルソン伯爵の別邸にいても、王立学園にいても、街にでても、会話をするのは、ほとんどデイルとグレースで。
まるでマケラ子爵邸にいたころのような疎外感。
邪魔者はだれ?
デイルの婚約者はだれなの?
(……駄目よ。考えたら駄目。気付いてしまったら、もう戻れなくなる……っ)
デイルをちらと見る、デイルの熱い視線は、グレースに注がれている。それはもう、婚約者の妹に向けるものではない。
わかっている。違うと必死に言い聞かせてきただけで。
しかし、いくらなんでも夢のようなことは起こらないだろう──とは、オリヴィアには言い切れなかった。
あり得ると、思ってしまった。
これから起こる、言わば正夢ではないか。そんな考えが、どんどん頭から離れなくなっていく。
デイルにとって大切なのは、オリヴィアよりグレースで。たとえオリヴィアが命を落とそうと、心配するのはグレースの心。
いくらなんでも、そこまで。
(本当にそう……?)
わたしの命なんて、デイルにとって、とても軽い。
(……駄目だってばっ)
考えては駄目。考えては駄目。
何度も、何度も唱える。
「──お義姉様? どうかされたのですか?」
グレースの声に、オリヴィアは現実に引き戻された。顔を上げれば、こちらを見るデイルとグレースの二人の姿があり、ぎくりとした。
「……な、んでもないわ。少し、夢見が悪かっただけで」
「そうなのですか。どんな夢を見たのですか? ほら、誰かに話すことで、心が軽くなるって言いますし」
「ありがとう。でも、あまり覚えていないの。ただ、嫌な夢を見たなって感覚だけが残っていて」
「わかります! あたしもそういうこと、ありますから」
「そうなの?」
意識して、笑みをつくる。悪意がないのはわかる。しかしオリヴィアは、あなたになにがわかるのと、心で毒づくのが止められなかった。
「そういえば、顔色が少し悪いね。大丈夫?」
デイルに、ええ、と笑う。心配なんてしていないくせに。ほとんど同時に、そう思ってしまった。心配されたことが、ちっとも嬉しくなくて。むしろ、グレースの言葉に乗っかっただけでしょう。わたしの顔色なんて、なにも興味がないくせにと、自分でも信じられないほど、止まらなかった。
(……ああ、もう無理かもしれない)
おさえていたものが、溢れ出す。思ってはいけないと必死におさえてつけていた思いが。
あと一年と数ヶ月我慢すれば、マケラ子爵家から離れられる。あの両親からも、義妹からも。未来に希望があるから、オリヴィアは耐えられた。
なのに。
でも。
──あれが正夢だったら、そんな未来なんてこないんだ。
そもそも、デイルがグレースを愛しているのなら、たとえ結婚できたとしても、デイルは父親と同じことをするのではないだろうか。オリヴィアもオリヴィアとのあいだにできた子どもも愛さず、グレースの子だけを愛するのではないか。
自分の考えに、オリヴィアは全身の毛が逆立った。
(……そうだ。デイルの想いに気付かないふりをして、結婚したとしても、幸せになれるとは限らないんだ)
どうしてこんな簡単な考えに思い至らなかったのか。不思議で仕方がなかった。
(わたしにはデイルしかいないと思い込んでいたから……?)
実際、そうかもしれない。しかし縋ったところで、本当にデイルがグレースを愛しているのなら、未来は──
オリヴィアはそのとき、とある決意をした。
♢♢♢
その夜。
オリヴィアは一人、デイルの自室に向かった。扉をノックし、話したいことがあると、部屋に入れてもらった。
「どうしたの? ぼく、そろそろ寝るところだったんだけど」
不機嫌を隠そうとしないデイルに、オリヴィアは少しだけ怯みそうになった。でも、あの悪夢の日はもうすぐそこまで迫っていて。
迷っている時間が惜しく、また、決意が揺らぐ前にどうしても決着をつけておきたかったので、なんとか心を奮い立たせた。
「ごめんなさい、どうしても二人だけで話したいことがあって」
とたんにデイルが、はあとあからさまなため息をついた。
「またそれ? グレースを邪魔者扱いするのはやめようよ。可哀想だ」
それは決して珍しい台詞ではなかったのに、オリヴィアの片眉がぴくりと動いた。そして自然と、口が動いていた。
「そうよね。あなたはわたしの気持ちより、グレースの気持ちの方が大事だものね」
そんな言い方をしたのははじめてだったので、デイルは驚いたように目を丸くしていた。
「い、いや。そんなつもりはないよ。ただ、きみも知っているだろ? グレースは元平民だからという理由で、友だちもつくれずにいるんだ。ぼくたちが支えてあげないと」
この言い訳を聞くのはもはや何度目だろう。オリヴィアの中に、止められない怒りが、どんどん湧き上がっていく。
「──そのグレースについて、あなたに聞きたいことがあって来たの。それにさえ答えてくれたら、すぐに出て行くから安心して」
人が変わってしまったかのような強い口調のオリヴィアに、デイルは若干焦ったようだった。
「違うよ。きみが来てくれて、ぼくも本当は嬉しかったんだ。でも少し疲れていて……きつい言い方に聞こえていたら、ごめん。そうだよね。最近、二人での会話も減っていたから、寂しかったよね。ゆっくり話そう」
少し強気に出ただけで、この態度。その変化に、これまでどれだけ舐められていたのだろうと、オリヴィアは妙な達観視ができてしまっていた。
だからだろうか。デイルに対して、はじめて苛ついた。これまではただ、哀しかっただけなのに。
「いらないわ。ただ、あなたがわたしとグレース、どちらのことを愛しているのか聞きたいだけよ」
言い切ったオリヴィアのこぶしは震えていた。言った。ちゃんと聞けた。あとはもう、答えを待つだけ。
はじめて自分を、褒めてあげたい気分になった。
心臓の鼓動は、デイルの部屋を訪れる前から早鐘を打ち続けている。
しかしオリヴィアは、デイルにどう答えてほしいのか、自分でもよくわかっていなかった。
もしすべてが勘違いで、デイルがグレースを特別視しているのは、愛情ではなく、言葉通り、元平民のグレースに同情しているからだとしたら。
(だとしても、わたしよりグレースを優先しているのは事実)
デイルはどう答えるのだろう。真っ直ぐにデイルを見据える。
デイルがゆっくり、小さく口を開いた。




