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グレースが追試を無視して、領地に帰ったことは学園中の噂になっていたので、嫌でも耳にしていたオリヴィアだったが、デイルが一週間ものあいだ、学園を休んでいることはなにも知らずにいた、ある晴れた日の朝。
王立学園に登校するため、屋敷の玄関扉から出た瞬間、いつから待ち構えていたのか、門扉の向こうから大声でオリヴィアの名前を呼ぶ者がいた。
それは、オリヴィアにとって、二度と顔を見たくないと願っていた、お久しぶりのデイルだった。
(……うわ)
充実した毎日に、その存在すら忘れかけていた人物に内心で引きながらも、見なかった、聞こえなかったことにして馬車に乗り込もうとした。しかし、そうはさせまいと、デイルは聞いたことがないほどの大声を張り上げた。
「──オリヴィア! ぼくは、王都を出ようと思う!」
オリヴィアは思わず、ぴたっと動きを止めた。それにほっとしたデイルは、この機会を逃すまいとすぐに続けた。
「ぼくはもう、グレースにはついていけない。あんな馬鹿で、そのうえ、あそこまでわがままで自分勝手な本性を見抜けなかったぼくが愚かだった。だからぼくは、グレースと別れることにしたんだ!」
オリヴィアにしてみれば、グレースが追試とわかったときのデイルの様子から、それもあり得るかもしれないと考えていたので、ああそうですかという感想しか抱けなかった。
「王都を出て、ペルソン伯爵領に戻るよ。安心して。父上と母上の子どもに戻ろうとは、思ってないから。そんなことしたら、養女になったきみと結婚できないもんね」
オリヴィアは思わず「……あなたはなにを言っているの?」と、怪訝な顔で、問い返してしまった。
「戸籍上は、もう子どもじゃないけど。それでもぼくは、血が繋がった家族だから。ぼくが一人で立派に頑張っているところを見せれば、父上と母上は、ぼくを見直してくれると思う。そしたらきっと、きみとの結婚も、認めてくれるよ。だからさ、とりあえずは、平民として、自分の力だけで生きてみせるよ」
恍惚と語るデイルに、オリヴィアが「わたしはあなたと結婚するつもりなんてありませんが」と告げるが、怖いぐらい、デイルは聞く耳を持たない。
「ぼくなら大丈夫だよ。本当に困れば、父上と母上が助けてくれると思うからさ。それにこれは、きみを傷付けてしまった罰だから。とても大変な道のりだとは思うけど、ぼくは甘んじて受け入れるよ」
「受け入れなくていいですから、あなたは責任をもって、グレースと結婚してください。なに逃げようとしているのですか」
デイルが「またそんなことを言って……」と、やれやれといった風に肩をすくめる。駄目だ、どう言えばこの悦に浸っている馬鹿に伝わるのか、オリヴィアには見当もつかなかった。
「学園を卒業したら、女官になるんだよね? オリヴィアならきっとなれるよ。だからぼくは、卒業式の日、きみを学園まで迎えにくるよ。そしたらさ、一緒になろう。たとえ父上と母上が認めてくれなくても、そのころには二人とも自立しているから、関係ないよね。ぼくはもう、誰が一番大切か、知っているから。だから、怖れないで」
それじゃあ、また。
そう言って、満足したデイルは背中を向けて去って行った。オリヴィアは、ただ、呆気にとられていた。
「……いまのこと、おばさまたちに伝えておいた方がいいのかしら」
見送りのためにオリヴィアの後ろにいたマドリンに訊ねてみたが「……そうですね」と、マドリンもひどく困惑しているようだった。
会話にまったくならなかったが、要するにデイルは、早々に見切りをつけたグレースから逃げたということだ。あれだけ相思相愛だと言っていたのに、たった数ヶ月でこの有様とは。
しかし。
「……わたし、まだデイルに未練があるように見えた?」
不愉快そうに聞くと、マドリンはきっぱりと、いいえ、と否定した。マドリンがいなかったこれまでのマケラ子爵家のこと、デイルのことは、すべてマドリンに話していたので、マドリンもデイルのことは、きっちりと嫌っていた。
「そうよね……どうしてあんな気持ちの悪いことを言い捨てていったのかしら。どのみち話を聞くつもりがないのなら、黙って行けばいいのに」
「……まあ、とりあえずは馬車に乗ってください。遅刻してしまいますから」
マドリンに促され、オリヴィアは、そうね、と馬車に乗った。移動中、デイルの残した言葉があまりに気持ち悪くて、どう言えばあなたのことは嫌いですという思いを伝えられたのか考えたが、すぐに、なにをどう伝えようと無駄だったのだろうという結論に達してしまった。
♢♢♢
「おはようございます、オリヴィア嬢」
学園の廊下を歩いて教室を目指すオリヴィアに、あいさつをしてきたのは、フィルだった。フィルは伯爵家の三男で、将来は文官になることを目指している。女官になりたいオリヴィアと話が合い、なおかつ、前回の試験では、遅れていた分を取り戻すオリヴィアのため、試験勉強にも付き合ってくれた。
そのことで距離が縮まった二人は、最近、気軽に話せる間柄となっていた。
「フィル様。おはようございます」
ぺこりと頭を下げるオリヴィア。そこで、そういえばと、フィルがかつてデイルの学友だったことを思い出したオリヴィアは「あの、デイル……様のことなのですが」と、口火を切った。どうしても、今朝あった気味の悪いデイルのことを、誰かに話したくて仕方がなかった。
「? はい、なんでしょう」
「なにやら、今朝、わたしのところにきて、王都を出て、ペルソン伯爵領に行き、平民として暮らすと宣言して去っていったのですが……」
フィルは少し、変な顔をした。
「……しばらく学園を休んでいたかと思えば、王都を出る準備をしていたのですね」
「あ、学園に来ていなかったのですね。わたし、それすら知りませんでした」
「僕は同じクラスですから。嫌でも知ることになっていただけです。しかし、なぜペルソン伯爵領に……いまさら許してもらえるとでも思っているのでしょうか」
「血の繋がった家族だから、いざとなったら助けてはくれるだろうと考えて、ペルソン伯爵領を選んだのでしょうが……」
オリヴィアはそこで、言葉を切った。なんとなく、デイルがオリヴィアとの結婚を口にしたことを、フィルに知られたくないと思ったから。
「マケラ子爵令嬢は追試から逃亡したままですし、デイルもおそらく、マケラ子爵令嬢から逃げたのでしょう」
「ああ。グレースとは、別れると言っていました。あそこまで馬鹿でわがままだとは思っていなかったと」
「……あいつには、マケラ子爵令嬢が、これまでどんな風に見えていたのでしょうね。しかし、とことん勝手なやつでした。ペルソン伯爵に、報告はするのですか?」
「そのつもりです。あとはもう、お任せしようかと」
「それがいいです。あんなやつのことなんて、もう忘れましょう。ところで、今日の放課後の勉強会は、どうします?」
「フィル様がいいなら、お願いしたいです」
「わかりました。では、また図書館で。それとも、たまには別の場所にしますか?」
「いえ。わたし、図書館の空気が、大好きなので」
フィルが、僕もです、と笑う。穏やかなやり取りに、オリヴィアの心は、徐々に落ち着きを取り戻していった。




