117話
「!」
少年の目の前に、剣聖の影が落ちる。
気配も足音もなかった。
部屋の闇を切り裂くように、袈裟に断ち割るレオンハルト。
刹那、少年の足元で風がおこり、床の埃が一瞬激しく舞い、見えない何かが剣を弾く音が一瞬だけ響いた。
レオンハルトは冷静にそれを捉えた。
不自然な空気の流れ──風もないのに、壁際の埃がふっと浮いた。
すかさず床を蹴って横へ跳ぶ。
さっきまでレオンハルトが立っていた場所、そこの床周辺に何かがぶつかったような音が響いた。
レオンハルトは壁に片手をつき、反動を使って天井近くまで跳ぶ。
天井の梁を蹴り、斜めに滑るように降下しながらそこを目掛けて刃を振るった。
何かを断ち切った、手応えを感じた。
「……いる」
視界の中には何も敵は映り込まない。
だが、空気の“流れ”を読む。何かが動くたび、気配を感じた。
見えない敵の“軌跡”。
(少年のアバミネーション、アガザといったか……)
レオンハルトは床を蹴り、壁を駆け上がるようにして一気に距離を取る。
壁の上から斜めに滑り降り、通り道を断つように剣を上から振り下ろした。
その衝撃に、空気が震えた。透明な何かがわずかに後退する気配。
だがレオンハルトは床に手をつき、身体を回転させながら低い姿勢で更に追い討ちをかける。
「見えないなら、あらゆる所を斬ればいいな」
実にレオンハルトらしい言葉を発して、左肩に構えた剣を振り抜いた。
その勢いのまま今度は右から斜めに切り刻んでゆく。
あまりに早い剣の動きに、壁際に避難していたゾグートは全く目で追う事が出来なかった。
剣が空気を裂くたび、透明な触手の気配が薄くなっていく。
「へえ。さすが剣聖さん。アガザが細切れにされちゃいましたね」
少年が暗く落ち窪んだ瞳をまん丸にして驚いている。
「核を仕込んで何をするつもりなんだ」
レオンハルトが横凪に剣を振るいながら、少年に問いかけた。
すると──
「今、実験場では大変なことになってるかもしれませんね」
さも可笑しそうに笑った。
──実験場?
「ニセモノ王女だと、どうせバレるのも時間の問題でしたからね。――だから、彼女に一役買って頂きました」
「「!!」」
「失敗していなければ、の話ですけど」
少年の足元から不自然に影が伸びる。
「では。アガザ・セカンドいきましょうか」
「何?」
レオンハルトが言葉を発するのと同時に、地下室の床が粉々に砕けて宙へ舞い上がった。
スローモーションのように空中に浮遊する瓦礫の間──
その隙間から見えたもの、それは少年の足元から生えていた。
「気持ち悪ッ!」
ゾグートが思わず叫ぶ。
とてつもなく巨大なヘビがとぐろを巻きながら、こちらを伺っていた。
◇◇◇
一方その頃、王宮に向かっていた三人は、シグレインと会っていた。
そこで、件の王女が貧民街の近くで炊き出しをしている事を知る。
「炊き出しって、頻繁にやってるんですか?」
ふと疑問に思ってシグレインに尋ねると、相変わらず厳しい表情のまま首を横に振った。
「初めて……炊き出しをしたいと、王女自らがそう言ったんですね?」
「そう聞いている」
嫌な予感しかしなかった。
「奥様、貧民街近くの空き地であれば、場所は分かります」
マーニャが二階の窓から、方角を指し示した。
その時。
「何だ?あれは」
シオルが小さく呟いた。
貧民街とは逆、広場の更に奥の空に、真っ赤で不気味な魔方陣が浮かんでいた。
《千里眼》で確認すると、レオンハルトたちが追っていった方角と一致する。
「多分、例の少年だ」私の声に、シグレインが反応する。
「ゾグートが探している少年か?」
「え?ソグートさんは馬車に轢かれた少年を追ってるんですよね?」
私の疑問に、シグレインが頷いた。
もしかして……同一人物だとしたら。元凶はあの使徒なのではないか?
「………三重円に四方向へ伸びる“精神波形導線”……中心核の紋……」
シオルが横で魔方陣を解析している。
「ナギ、あの魔方陣は“送信機”だ」
「送信機?」
「広域魔法にあたる。“受信機”がないと意味がないのだが……」
「まって。王女が今炊き出しをしてるよ。貧民街で」
私の言葉に、三人が一斉にこちらを見た。
「考えたくないけど、核を仕込んでるんじゃ?食べ物の中に」
「「!!」」
私の言葉が終わる頃には、シグレインは軍部に向かって走っていった。
「シオル、転移で飛べる?」
「大丈夫だ。近くまで一気に行こう」
「おそらくその炊き出しを口にしてしまった人たちに、何かが起こってる!」
私たちは急いで現場の近くに転移した。
そこで見たものは──
「きゃあああああッ!」
「ひッ、助けて!!」
「うぎゃああ!!」
──地獄絵図だった。
最初異変に気付いたのは、一口食べた男性だった。
美味しい。だが、何かがおかしい。
その違和感が浮かんだ瞬間、意識が途切れた。
その影響は静かに、しかし確実に広がり始めた。
最初に変わったのは、人々の目だった。
次々と増えていく異様な赤い目。
王女の炊き出しを食べた大勢の人々が……あきらかに変容していた。
焦点が合わず、瞳は何かを探すように左右へせわしなく動いている。
皮膚の色もあきらかにおかしくなっていた。爛れたような赤と、浅黒い部分がまだらに浮かび上がる。
彼らはゆっくりと動き出す。
足取りはぎこちなく、まるで、自分の身体の重さを忘れたかのような動き。
今、まさに食べようと列に並んでいた人々は、変貌した者たちに目を見開き固まっていた。
その列に、赤い目が一斉に向かう。
まるで“合図を受けた”かのように。
次の瞬間、空気がひやりと沈んだ。
「何だ?あいつらおかしくないか?……」
食べていなかった者が後ずさる。
異常な執着。
手を伸ばされた男性は、その冷たさに思わず相手を振り払った。
「おい、やめろよ。冗談は……」
「………」
赤い目が相手を見定めたように、男を捉えた。
そして──
襲い始めた。──人間が人間を。
空き地には人々の叫び声と泣き声が響き渡る。
王女アリアはその様子を黙って見ていた。
自分の周りにいるメイドたちは、恐怖に凍り付いている。
(核を砕いて入れてみたけど……これは失敗かもしれない)
あの男の子は、魔方陣で指令を出すと言っていた。
細かい内容は知らないけれど、王城に向かって彼らは進むはずだったのだ。
人間からの変質は成功したけれど、意識を捉えられていない──
(きっとまた怒られる……)
その恐怖に小刻みに震えていると、周囲の貴族の令息たちから、
「王女さま、城に戻りましょう!危険です!」
手を引かれた。
ふと見上げると、ネッドを含めた護衛の騎士たちが皆戦っている。
相手は明らかに人間だったのに、ためらいなく斬り捨てている。
「この女のメシを口にするな!!」
そう叫ぶ男の声が聞こえた。
「食人鬼にされるぞ!!」
──食人鬼。
その食人鬼が、こちらに向かって来ていた。
アリアの隣にいたメイドを掴むと、勢いよく引きずり倒す。
「きゃあ!!」
そして、そのまま首筋に牙を立てられた。
「あああああああ!!!」
その光景に、貴族令息たちは息を呑んだ。
人々が……炊き出しに集まっていた多くの人々が──
方や食人鬼となり、もう片方は贄となってしまっていた。
「地獄だ」
リュートは、その光景から目を逸らさずに呟いた。




