10:00 もう一難か、或いは。
《どうにか意志疎通できたけど、あれだね。なんか人違いで助けてもらったみたい》
その人違いは、白骨さんからいただいた上着のおかげなのだろう。これまでの身振り手振りでのやり取りから、そう判断する。
一息吐いて、そう報告すれば、直ぐに反応が返ってくる。東野。平日の日中だというのに反応の早いやつだ。
《追剥が功を奏したとは……》
そのとき浮かんだ感情は、苦笑というには苦すぎた。東野のことばは半ば事実であっただろうが、副産物ももたらしていた。
『……ケルーア。イナ、ルマト』
背後からの声。振り返るまでもなく、抜き放たれたままの短剣の刀身が、ふたつの太陽に照らされて煌いているはずだった。
恨み言を口にするつもりはない。外套のフードを深く被り、口元を覆っているとはいえ、落ち着いてみれば女性の声だと判る。
こちらは丸腰だとはいえ、言葉も通じない怪しい男を相手に武器を収めたなら、むしろ警戒心のなさを心配しただろう。
《いま脅されてるから、最終的に正解になるかはまだわからんね》
そう、東野に応じておく。或いは、この上着がなくとも、助けてもらえたかもしれない。単に面倒を増やしただけかもしれない。その可能性は、まったく否定できない。
溜息を吐く。異世界で見知らぬ異性に助けられた――といえば、ライトノベルなら、ロマンスのはじまりだろう。でも、現実はそんなにベタ甘じゃあない。刃物を突き付けられて、持ち物を剥いだ白骨死体のところまで案内を命じられるありさまだった。
「あの、ちょっといい?」
『……イナ、ルマト』
肩越しに振り向いただけで、刃物を構え直された。恐ろしいにも程がある。ただ、問答無用で刺されるようなことはないだろう。彼女が自分を殺すなら、とうにやっているはずだ。
「色々と訊きたいんだけど……」
『イナ、クート』
それ以上の答えを返してはもらえなかった。そもそも、言葉が通じていないのだから当然だろうか。
ふたつの太陽に炙られながら、とぼとぼと草原を歩いていく。スライムから追われて駆けた道を、逆に戻って。
どうしたものだろうか。どうしようもない。それに、少なくともひとりではないという安堵はある。
どうやら勘違いらしいとはいえ、彼女は、自分を助けてくれたのだ。言葉が通じなくとも、問答無用で襲ってくる蛮族ではないし、人間を食べるような風習も持たないようだ。いまは、それだけで充分だった。
『イヨ、ルマト!』
暫く歩いたあと、警告じみた響きに足を止める。なんだというのだろうか。
「え、なに……どしたの?」
返答を待つ必要はなかった。あの鳴き声が、また響いていた。だから、どこから音を出してるんだ、あれは。現実逃避気味に嘆息するうちに、彼女の雰囲気が一変した。短剣を鞘に収めると、弓を握って、矢を携える。ぴりぴりとした気配を放っていた。
『……イコ、チッコ。イナ、クイ、クォト』
言葉は判らないが、言っていることは判る。自分を守ろうとしてくれているのであろうことも。であれば、それに従うのが賢い選択肢だ。息を殺して、彼女の傍にそろそろと寄る。
どうするのかと問いたい気分はあったが、問いかけても彼女の集中を削ぐだけだ。だから、黙っているほかなかった。喉がひりつくように渇く。危険の気配は、いまや、間近に迫ってきていた。
そこから先は、一瞬だった。草むらから飛び掛ってきた影を、雷光を帯びた矢が貫いた。弾け飛ぶスライム。場合が許すならば、お見事と喝采したいところだった。でも、影はひとつではなかった。次の矢は、どう考えたって間に合わない。
「……っぶ、ない!!」
反射的に、足を踏み出していた。腕を伸ばして、思いっ切り彼女を突き飛ばす。意外そうな光が、その瞳に浮かんでいた。そりゃあそうだ。自分でも、意外ではあったのだから。
――また、一閃。尻餅をつきながらも、彼女が放った紫電を帯びた矢は、スライムを見事に仕留めた。もっとも、スライムが弾ける際の飛沫までは、どうにもならなかった。
「ん、ぎっ……!?」
咄嗟に顔を守った腕や、そのほかあちこちが、焼け付くような痛みを訴える。いや、実際に焼けたかのように、薄っすらと煙が上がっている。痛いにも程があるというか、泣きたいほどには痛い。
ただ、自分にも多少のプライドというものはある。奇妙な表情を浮かべている相手に、どうにか笑顔を作って向けてやる。
「あー……えっと、怪我してない? 大丈夫? あーゆーおーけー?」
返事はなかった。その代わり、さっと立ち上がった彼女は、こちらには意図のわからない仕草をした。右腕を地面と水平にして胸につけ、それを縦に畳んだ左腕で抑えている。キリスト教の存在しない世界で十字架でもないだろう。強いて喩えるなら――……会社で毎日十五時にやらされるストレッチに、こんな姿勢があるけれど。
「……えと、うん? こっちも大丈夫だから……他にもいるかもだし、急ごう、ね?」
自分の腕を指して、心配ないというようににへらと笑ってみせて。スライムの残骸を指差し、そのあとで、周囲を見回すようにしてから、その場で駆けるように両足を忙しなく動かしてみる。
きょとんとしてこちらを眺めていた相手が、ふっと、失笑するように口元を抑えた。あるいは、苦笑だったかもしれない。ただ、意図が伝わったということだけは、なんとなくわかった。
少しだけ、雰囲気が和らいだというのも、確かだった。歩みを再開したとき、彼女が短剣を抜くことはもうなかった。幾許かの火傷の引き換えとしては、悪くないように思えた。




