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09:30 一難去って。

「――へっ?」


 間抜けた声が、口から漏れる。電光、一閃。なにか光が奔って。

 そして、背後で苦悶の声が響いた。それが、スライムの発したものだということに、疑いはなかった。


 咄嗟、顔を上げれば、片方の太陽で逆光になった先。

 丘というには少しばかり貧相な、それでもなだらかに隆起したあたりに、何かを叫んで腕を振る人影があった。

 おそらく生存本能とか呼ばれるものが、その声に反応した。生きられると思えば、現金なもので、身体も限界を超えて動いた。

 

「う、ぇっ、ええぁっ!?」

 

 声にならない悲鳴とは、こういうことを言うんだろう。

 ともかく何らかの音を喉から発しながら、突っ伏した身体を無理やりに起こし、前へと押し出した。

 

 そして、おそらくそれは正解だった。

 今度は、その一端なりとを目にすることが出来た。紫電を纏って、風を裂く矢の飛来。

 

「の、わっ!?」

 

 ――嫌な音が、背後で弾けた。何が起きたかは明白だった。スライムが倒された音だろう。

 矢に魔法を纏わせたのか、それとも、鏃に魔法が籠められていたのか、それはどうでもいい。


「……助かった……のかね?」


 少なくとも、スライムに溶かされる心配だけはなくなった。だが、助かったかどうかは、それとは別の問題だった。


『――イコ、チッコ!!』


 視線の先で、弓を携えた人影がこちらを手招いている。その声に、甘さはない。むしろ、険しささえ感じられるのは気のせいか。

 だけれど、いずれにせよ、声に従うしかない。魔弓の射手を相手に、逃げるという選択肢は最初からあるはずがなかった。

 

「あの、どうも……この度は、助けていただいて」


 文字通りの命の恩人に向かって、へりくだった表情を浮かべた。

 彼我の関係に応じた表情を即座に作れるのは、社会人の特技だと思う。

 全面服従というほど卑屈ではなく、敵意のなさと感謝を明白に、へらっとした笑みを浮かべる。


『レダ? マサッキ、レッダ!!』

 

 なにをいってるんだか、わからない。途方に暮れて、言葉の通じる世界へメッセージを書き込む。

 

《助かったけど。助けてくれた人がなに言ってんだかわかんない件》


 さて、どこの言葉だろうか。既知の言語でない可能性は、極めて高い。

 もっとも、地球上に存在する言語だったとしても、英語でさえ怪しい自分が理解出来るかは判らなかった。


《あかんかったか……》


 そんな反応があった。メッセージの主は、やはり東野だ。

 深刻さを判っているのだか、いないのだか。確かに、あかんかったよ。嘆息して、返事をする。


《ちょっとしばらく第一異世界人さんと意志疎通を試みたいと思う》


 下手をすれば、言葉が通じないからと殺されることだってないとはいえない。

 けれども、ようやく出会った人間――だと思う――だ。

 情報収集、あるいは水や食料という即物的な物資調達という意味でも、ここで逃げるわけにはいかない。

 絵での意思疎通という案が、また別の友人からあった。

 それは傾聴すべき意見だろう。自分の画力を考慮しなければ、だが。第一、筆記具がどこにもない。


《やっぱ何故か異世界で日本語が通じるご都合主義はラノベのなかだけやったんや……》


 少しばかり泣きたくなりながら、そう、メッセージを付け加えた。どう考えたって、そうなのだ。これが現実だ。

 

「その……ですね? ありがとうございます……?」


 まずは、謝意を伝えたい。後方、スライムの死骸を指差して、頭を下げる。

 けれど、なんの効果もなかった。そういえば、日本以外ではお辞儀の習慣はあまりないという。この世界もそうなのだろうか。


「えっと」


 ならば、土下座すべきか。キリスト教、イスラム教、仏教。地球における三大宗教のいずれでも、神に跪く挙止はある。

 収斂進化という現象がある。異なる種でも、似たような環境では似たような姿に進化するというものだ。イルカとサメ、或いは有袋類などがいい例だろうか。

 それと同様、同じ二足歩行の知的生命体ならば、宗教における祈りもまた、似たような挙止に行き着くのではないだろうか?


「このとおり、なんとお礼を言っていいか――」


 最後まで、言い切れなかった。片膝をついたところで、それ以上、動けなくなった。抜き放たれた短剣の鋭い輝きが、鼻先に突きつけられていた。


『……レソ、コッド?』


 凍った激情とでもいうのだろうか。白骨さんからの贈り物である上着を指差して、なにか問い詰めるような声色を向けてくる。


「えっと……?」


 だが、自分はそれに即座に答えられない。何を問われているのか、言葉が理解出来ないからだ。

 いや、この上着についてのことであるだろうことは、仕草から明らかだ。では、なんだというのか。

 人類みな兄弟、言葉がなくても通じ合える――なんてのは、頭がお花畑な連中の幻想だ。凶器を突きつけられて通じ合えるなら、やってみろ。


『……イナ、スナハ? レソ、スローコ、イヨ?』


 立てられた刃が、頬を撫でる。腕のいい床屋で剃刀をあてられるような、ぞりっという感触。

 これは脅しではない。答えを間違えれば――いや、このまま答えられなくても、殺られる。本能的に、そう悟る。

 なんだ、この上着がなんなのだ。民族衣装じみた模様の入った、拵えの良い上着。それ以外になんの意味が――、


「……あ」


 そこで、気付いた。命の恩人で、いま自分を殺しかけている人物もまた、外套の下に同じような上着を身に着けていることに。

 どこかでそんな話を聞いたことがある。北の海で生きる漁師の妻は、それぞれ模様の違うセーターを編み、もしものときにはその模様で良人を見分けたという。


「……もしかして、これ、あんたの……?」


 この推測が正しいとすれば、どう考えても、明るい未来は訪れそうになかった。

 家族や友人が纏っているはずの衣服を着た相手に対してならば、この冷たい怒りも頷けるというものだった。

 そういった意味を持つものだとするならば、そんなものを、簡単に他人に譲るわけがない。

 となれば、目の前の人物がどういった想像を巡らせているかは想像に難くない。盗むか奪うか、どちらかだと。


「いや、違うんですよ。これは――、えっと」


 残念ながら、なにも違わない。持ち主が死んでいたということを除けば、追い剥ぎとなんら変わらない。

 いやな汗が、じわりと脇の下を濡らす。自分が手にかけたわけじゃないと、そう信じてもらうしかない。

 ひどく重く感じるようになった上着を指差してから、突き付けられた短剣をつつき、ぶんぶんと首を振る。自分じゃない、と。

 鋭い視線を崩さない相手に、ゆっくりとした動作で腕を動かし、自分が来たほうを指して。地面に手を伸ばし、拾うような仕草を何度もしてみせる。

 短剣をまた指差し、自分を指差し、首を振る。自分がやったわけじゃない。

 それを何度も繰り返すうち、鋭かった眼光が、どこか根負けしたような色に変わって。冷たい刃が、肌から遠ざかった。


『イナ、クート……ジーマ?』


 何事か、考えるように呟く言葉は、やはり、わからなかった。そして、こちらに向き直って、かけられた言葉もまた。


『……ミキ、ルク、コッド?』


 ――やはり、当然、わからなかった。困ったような笑顔を貼り付けて、首を傾げてみる。小さな溜息が、聞こえた気がした。

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