#06月しずく錦
【あらすじ】
静かな夜の喫茶店〇。
嵐が過ぎ去った後も、
そこには不思議な穏やかな時間が流れていた。
そんな中、
リーリアが選んだ一杯の飲み物。
そこに添えられたのは、
特別な果実だった。
月の名を持つ、不思議な果実。
その名前を聞いた瞬間、
ジョージの中で眠っていた何かが揺れ始める。
忘れていた記憶。
消えたはずの過去。
そして、静かに近づく変化。
喫茶店〇で流れる時間が、
少しずつ秘密へとつながっていく。
第六話
夜の喫茶店〇には、静かで穏やかな時間が流れていた。
嵐は過ぎ去り、外では雨が残した水滴が、窓をゆっくりと伝っていた。
世界の境界にあるような、不思議な静けさがそこにはあった。
ジョージは、全体を見渡せる端の席で、コーヒーを飲みながら店内の様子を眺めていた。
やぶかみが客席へ近づいてくる。
「 何か気になるものは、ありますか? 」
声をかけた相手は、リーリアだった。
リーリアはメニューを静かに見つめる。
しばらくして、一つのグラスの絵を指先で示した。
「 レモネード? 」
ジョージが尋ねる。
リーリアは、こくん、と小さくうなずいた。
「 レモネードが、飲みたいの? 」
リーリアは、今度は、深くゆっくりとうなずいた。
その様子を見て、ジョージはやぶかみに声をかけた。
「 レモネード、ありますか? 」
「 ありますよ。 」
やぶかみは、微笑んだ。
「 じゃあ、それを一つ。 」
ジョージは、続ける。
「 あと、コーヒーのおかわり。ブラックで。 」
「 かしこまりました。 」
厨房の奥から、小さな声が聞こえた。
「 あの人、まだコーヒー飲むの? 」
「 そんなに飲んで大丈夫なのかな? 」
ジョージは、笑いながら答えた。
「 聞こえてるぞー(笑) 」
店長は、優しく微笑んだ。
厨房では、準備が始まる。
「 レモンは、あります? 」
「 あります! 」
「 はちみつも、あります? 」
「あります!」
「 炭酸も、あります? 」
「 あります! 」
少し間が空いた。
「 普通のチェリーが、ありません.... 」
ジョージは、顔を上げた。
( 普通のチェリーではないチェリーならあるのか?(笑) )
そう思った。
「 ブラックチェリーならあります! 」
店員は、なぜか少し自信満々だった。
ジョージは、首を傾げる。
( いや、それは違うだろ。(笑) )
ブラックチェリーも、普通のチェリーだ。
確かに、レモネードに入れるものでは、ないかもしれない。
けれど、ブラックチェリーはスーパーでも手に入る、最も一般的なチェリーだ。
( …スーパー? )
スーパーってなんだ?
ジョージは、少しだけ考えた。
記憶の中にあるはずなのに、どこか輪郭がぼやけている。
「 それも一応、普通のチェリーじゃないか? 」
思わず口に出ていた。
店員は、首をかしげる。
「 そうですかー? 」
「 ブラックチェリーは、コーヒー漬けにすると美味しいんですよ。 」
トカゲが、得意そうに言う。
ジョージは、少し眉を寄せた。
( コーヒー漬け? )
( …それを言うなら、シロップ漬けの間違いじゃないのか? )
そう思った。
すると、横からリリスが口を挟む。
「 人間とトカゲは味覚が違うのよ、博士さん? 」
妙に納得することをいうなとジョージは思った。
tonicが一瞬だけ反応する。
「 それは、まだ…. 」
リリスがいった。
「 いいじゃない。本当のことなんだから。 」
「 …. 」tonicは、黙り込む。
「 なんで、隠してるのよ。 」
tonicは、少しだけ視線を逸らした。
「 今、必要な情報ではありません。 」
( 記憶混濁により、混乱するからです。リリスさん、察してください…. )
「 ふーん。めんどくさいわね(笑) 」いじわるそうな顔をして言った。
「 そういうところよね、助手さん。 」リリスは、高らかに笑った。
「 …訂正してください。 」珍しく、少し反抗的なtonic。
「 いいじゃない。助手なんだから。 」とリリス。
「 それは、倫理に反します。 」とtonicも引かない。
「 なんで隠してるのよ。本当のことなんだから。 」リリスは、強気。
( やっぱり悪魔だ… ) トカゲたちは、口を押さえた。
「 口を押えたって、心の声なんだから、ちゃーんと聞こえてるわよ。 」
リリスは、カウンターの中のトカゲたちに言い放つ。
「 …!? 」トカゲたちは、カエルといっしょにカウンターの下に隠れた。
ジョージは少し黙る。
確かに、この世界では、常識そのものが少し違うのかもしれない。
静かな思考の中で、ジョージは考えた。
では、この店でいう普通ではないチェリーとは何なのか。
ジョージの頭の中に、いくつもの名前が浮かぶ。
佐藤錦。
紅秀峰。
ナポレオン。
どれも有名なさくらんぼだ。
けれど、それではない。
もっと特別な。
月の名前がついていたような――。
「 月なんとか錦… 」
月川…違う。
月海…それじゃない。
月光…それも違う。
「 tonic 」
ジョージは小さく呼んだ。
「 月なんとか錦。さくらんぼの品種を調べてくれ。 」
tonicはすぐに検索を始める。
「 …月山錦ですか? 」
その瞬間。
「 あ、それだ! 」
ジョージは、思わずつぶやいた。
けれど、その名前を聞いた時、何かが引っかかった。
月山錦。
なぜか、その名前にも聞いた覚えがある気がした。
しかし、まだ思い出せない。
やぶかみが、ふと思い出したように顔を上げた。
「 あ、そういえば、あれがありました! 」
やぶかみはスキップをしながら奥へ向かっていく。
小さく鼻歌を歌いながら。
その旋律は、どこか軽やかで、街の中を歩くような温かさがあった。
モーツァルト、ディヴェルティメント K.334。
しばらくすると、やぶかみは同じ旋律を今度は口ずさみながら戻ってきた。
ジョージは少し驚いた。
( 意外と歌がうまいんだな。 )
( ピアノでもやっていたのだろうか。 )
( もしかしたら、音楽に精通している人なのかもしれない。 )
「 とっておきを持ってきました!! 」
やぶかみの手には、小さな桐の箱があった。
箱の中には、絹に丁寧に包まれた一粒の果実が入っていた。
「 月しずく錦。 」
淡く光を放つ、不思議な果実。
その名前を聞いた瞬間、ジョージの中で何かが引っかかった。
「 月しずく錦…. 」
なぜか、その名前にも聞いた覚えがある気がした。
ジョージは少しだけ頭を押さえる。
記憶の奥に触れたような、不思議な感覚だった。
店員が驚いた声を上げる。
「 店長、それ……いいんですか? 」
やぶかみは静かに答えた。
「 今日は、特別だから。 」
「 それに、ふさわしいお客様だからね。 」
そう言って、リーリアの前へレモネードを置いた。
一粒の月しずく錦が、レモネードの中へ溶け込んでいく。
淡く不思議で、まるでダイヤモンドのようなまたたきを放つ幻想的な光。
その輝きが、グラスの中でゆっくりと広がっていった。
小さな泡が、シュワシュワと静かに揺れる。
リーリアは、その揺らぎを静かに見つめていた。
「 気に入った? 」
ジョージが、尋ねる。
リーリアは、小さくうなずいた。
「 よかった。 」
ジョージは、やさしく微笑んだ。
トカゲたちがなぜか全く違う『 月餅 』と聞き間違えている。
「 月餅だろ?ぼくも、小さい時に食べたことあるもん! 」
「 いや、お前食いしん坊かよ(笑)」
ジョージは思った。
( なんか、いつもずれてるな(笑) )
( それ、月と丸いところしかあってない。 )
( そもそも、果物と菓子の差があるぞー(笑))
ジョージは、心の中でツッコミながら、届いたばかりの熱いコーヒーへ手を伸ばした。
一口。
二口。
三口目に口をつけた。
静かな時間。
けれど、突然。
視界が揺れた。
「 あれ….? 」
指先から、力が抜ける。
カップがテーブルに触れる。
コトリ。
小さな音。
「 ジョージ? 」
近くで、誰かの声が聞こえた気がした。
視界が、ゆっくりと遠のいていく。
リーリアが、こちらを見る。
口が動いているように見えた。
でも、声にはならない。
その姿を見た瞬間、ジョージはなんだかとても懐かしい気がした。
その時、店内のどこかで小さな声がささやいた。
「 あの人…やっぱり、ちゃんと人間だったんだね。 」
「 おかしいと思ったんだよ。あんなに飲んで何ともないから。 」
その声は、ジョージには届かなかった。
そして、ジョージの意識は静かに沈んでいった。
♬モーツァルトのディヴェルティメント ニ長調 K.334からインスパイア予定
【あとがき】
第六話では、月しずく錦という特別な果実を通して、
ジョージの記憶に少し変化が訪れる回になりました。
喫茶店〇では、
何気ない注文や会話の中にも、
不思議な意味が隠れています。
天使。
悪魔。
不思議な生き物たち。
そして、過去を失ったジョージ。
少しずつ集まっていくものが、
どこへつながっていくのか。
ベノムワールドでは、
大きな謎だけではなく、
日常の小さな出来事から物語が動き出していきます。
今回の一杯のレモネードが、
次の出来事へどのようにつながるのか。
楽しんでいただけたら嬉しいです。




