森の離宮
夏至祭を一週間後に控えた6月、アデルリーナは森にいた。
イチイのトンネルは広がる枝が屋根のように上空を覆い、木漏れ日が差し込んでゆらゆらと光が揺れる。時折吹き抜ける風にそよぐ葉擦れの音と鳥のさえずりが聞こえるだけの静寂な空間。
アデルリーナは耳を澄ませて葉擦れの音を聞く。それから足を止めて目を閉じる。胸の内にある糸に微かに触れるものがある。捉えようとしたけれどふわりと消えてしまった。
ふうっと息を吐いて目を開けると、エンハルトがのぞき込んでくる。
「アデルリーナ様、どうかなさいましたか?」
「あ、エンハルト兄様。大丈夫です。木漏れ日も強くなってきて、夏なのだな、と思っただけなのです」
何か聞こえそうな気がしたといえば、エンハルトがさらに気にするので、誤魔化す。
「本当ならば今頃、アデルリーナ様の洗礼式だったのですよね」
アデルリーナの洗礼式は森へ来る前に済ませている。エンハルトはそのことを知っているが、本来の時にできなかったことを残念に思っているようだ。
「わたくしはもう済ませておりますもの」
「ですが、多くの者にお祝いされるべきなのに、と思ってしまうのですよ」
エンハルトの気持ちはありがたいと思う。領主の、公爵家の娘として祝われることはその後の貴族社会での社交にも影響を及ぼすのだ。だが、それ以上に大事なことがあったからこそ、アデルリーナはここにいる。
「ありがとう存じます。エンハルト兄様。ですが、この夏至祭にわたくしの名前で振る舞いをしてくださるとお父様がおっしゃっておりました。だからそんなに悪くはならないと思うのですよ」
もっとも振る舞うものが陳腐では困るのだが、今回は自信を持って良い品を用意している。
「確かに、あれならば印象も強く残るでしょうね」
「ええ、そう思いますでしょう?」
アデルリーナとエンハルトは顔を見合わせて笑った。
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洪水の後、アデルリーナは病気療養のためとして森の離宮モンリッジョ城に行くように命じられた。
「其方の力は稀有なものであるが、ロシュタットにおいては歓迎されるものだ。それはこれまで祖先がその力に何度となく救われた歴史からも間違いない」
そう言いながらステファーノは続ける。
「だが、今の時代においては危険であることを、其方は知っておかねばならない。我らが信仰するセレスト教において、神に与えられた力というのは教会のために使われるべきものだからだ」
「教会のために使うことの何が悪いのでしょうか? 叔父様もいらっしゃいますし、民のためになるのではございませんか?」
アデルリーナにはわからない。教会は人々を教え導き救うためにあるのだと思っているから。
「人々のためだけに使われるのであれば良いが、神に仕えるのは人だ。人は時として自分のためにしか動かないこともある。ああ、其方にはまだ難しいかも知れぬがな」
「お父様は貴女自身が望まないのに、誰かや何かのために利用されることを恐れているのですよ」
父と母が言わんとすることがなんとなく分かる。
「利用されなければよろしいのでは?」
「思い通りにならないとき、それは邪魔になる。そうではないか?」
邪魔なものは排除される。その意味は、とても恐ろしい事だ。
「わたくしが森へ行けば、そこに幽閉すれば、力を隠しておくことができるとお考えなのですか? そのために?」
隠さなくてはならない力を持つ娘を遠ざけたいのか、と悲しくなる。
「そうではありません。貴女の力はロシュタットにとっては希望です。そのことはいつの時代においても変わらないでしょう。ですが、他にとってはそうではないこともあるのです」
「そして其方は、其方自身の力について知らねばならぬ。そのために『森』へ行くのだ」
「『森』に行けばわたくしの力について、何かわかるのでしょうか?」
ステファーノは頷かなかった。
「はっきりとは答えられぬ。だが、離宮には祖先が残した歴史書がある。それを紐解くことで理解できることが増えよう。それと、其方を導く師となる者が『森』にいる」
師となる者。
「お教えくださる方がいらっしゃるのですか? わたくしと同じ力をお持ちなのですか?」
思わず大きな声になる。
「同じ力というわけではない。だが其方を理解し、導けるのはその者より他にないであろう」
アデルリーナはローザリンデを見る。
「お母様もご存知の方なのですか?」
「いいえ。わたくしも存じ上げません。『森』に関することは禁忌で、限られた者しか知らされてこないのです」
領主夫人でさえも知らされないほどの秘密。アデルリーナはその中に入って行くのだ。
「アデルリーナに同行するのは、ベルナディッタとエンハルト、ルドヴィックの三人だ。それ以外の人選はモンリッジョ城伯に任せてある」
前トレアンダ侯爵夫人のベルナディッタは前モンリッジョ城伯の息女だった人だ。ジルヴェルトとアルフィオスの祖母にあたるので何度か面識はある。
エンハルトはスカルティオ侯爵の嫡男で、ローザリンデの甥である。アデルリーナにとっては従兄だ。昨年帯剣式を終えて従騎士になっている。
「お父様、ルドヴィックは執事ではありませんか。わたくしに同行してもよろしいのですか?」
ロシュタットにおける家令は領地の経営、財務、人事の責任者でだが、執事は城(館)の家政全般政の総支配人だ。災害の後始末で城の中も混乱している時なのに、自分に同行させるのは申し訳ない。
「本人がそうしたいと望んだのだ、息子のハインリヒが後を継ぐから問題ない」
「わたくしもルドヴィックがついていてくれれば安心なのです。他に森に行く貴女を託せる方が見当たらなくて……」
ローザリンデにもそう言われて、自分に同行できる人物というのがかなり限られていることに気づく。
「エンハルト兄様もご一緒してくださるのですね?」
「あれはスカルティオの跡取りで、『森』についても知っておかねばならぬ。其方もエンハルトならば気心も知れておるからよいと思ったのだ」
アデルリーナが心細くなったときのことも考えてくれたようだ。
「お気遣いありがとう存じます」
「それから、其方の洗礼式だが『森』へ行く前に城の礼拝堂で行う。プレディオスが執り行ってくれることになっている。夏には其方の名で振る舞いをすることでお披露目とする」
その後、城内の礼拝堂で家族に見守られて洗礼式を行った後、アデルリーナは「森』へ出立したのだった。
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森の離宮と呼ばれるモンリッジョ城は、文字どおりロシュタットの森にある。ヴォルネ山脈から流れ出てレーミア川に注ぐラント川が弧を描いたように湾曲し、半島のようになっている小高い山の上に建つ。
円筒形の塔、白亜の壁に赤煉瓦の屋根が森の中にそびえ、森を見下ろすように建っている。半島の周りには城壁を巡らせ、内堀を設けて跳ね橋を渡す。城内には礼拝堂、図書館があり、大広間はアーチ型天井に星座が描かれている。
夏には大規模な狩猟大会が行われるなど、表向きは狩猟と避暑や保養のための城とされているが、本当の位置づけは要塞である。
ロシュタットの森は国境沿いに100キロ以上も続く広大なものだ。北側のアトス山脈を除くと際だった高山はないが、中程度の山が連なり、他国との国境の防壁になっている。
それぞれの山脈を源泉とするレーミア川の支流があり、ラント川もその一つで、モンリッジョ城は物流の拠点ともなっている。
森は建材や燃料となる木材の供給地であり、多くの鉱物の産地である。ロシュタットの森は金、銀、錫、珪石、石膏、鉄といった資源に恵まれた宝の山と言える。
モンリッジョ城伯はこうした豊富な資源を守るため、広大な森の中に点在する要塞の管理も担う森の管理人である。
辺境の地で国境を守るような存在であるから、アデルリーナは屈強の騎士を想像していたが、森の離宮に到着した時に出迎えてくれたモンリッジョ城伯は、柔らかな雰囲気を持つ学者風の男だった。
「アデルリーナ姫様、お待ちしておりました。私はこの城を預かるカルスタットと申します。長い旅程でお疲れでございましょうが、まずはこちらにどうぞ」
そう言って小広間に案内され、その間にベルナディッタはアデルリーナの部屋の確認に向かう。
「こちらがアデルリーナ姫様の侍女をさせていただきます、私の娘のロミエラです」
「初めてお目にかかります。モンリッジョ城伯が長女、ロミエラでございます」
「ベルナディッタはロミエラの伯母になるのかしら?」
「左様でございます。城でのことは何なりとお申し付けくださいませ」
「とても心強いわ」
そこへベルナディッタが戻ってきた。
「アデルリーナ姫様、お部屋の準備も整っております。まずはお着替えをなさって、少しお寛ぎください」
「ええ、そうさせていただきましょう。モンリッジョ城伯様、旅の埃を落とした後、改めてお話を伺わせてくださいませ」
「かしこまりました」
アデルリーナは部屋に入ると、窓に駆け寄る。眼下に広がるのは森、森、森。遠く森が途切れたあたりにレーミア川の川面が光る。川の流れを目で追ってもロシュタットの都は見えない。
騎乗で三日かけてここまできた。あぶみに足が届かないアデルリーナはルドヴィックの馬に同乗してきたわけだが、道の険しさに驚きを隠せなかった。
「アデルリーナ姫様、この先も狭く険しいので、動かないようにお願いしますね」
少しでも足をずらせば転がり落ちそうな道が続く。アデルリーナは体を小さく固くして手綱を握りしめる。
「途中の町や村も洪水後の後始末に追われておりましたが、民の顔が思ったよりも明るかったとお思いになりませんでしたか?」
ルドヴィックが手綱を操りながら尋ねてくる。
「そうなのかしら? 一生懸命働いているとは思ったけれど?」
「そうですよ。これほど大きな災害なのに、ご領主様のおかげで被害が少なくて済んだので、皆も頑張れているのです」
「お父様のおかげ?」
「はい、いち早く災害を予測して対策を取られました。アデルリーナ姫様はそのことをよくご存知でしょう?」
ルドヴィックはアデルリーナの力のことを知っているようだ。
「……ルドヴィックは、わたくしのことを、ご存知なの?」
「そうですね。私も傍系とはいえロシュタット領主一族の家門なので、ある程度のことは存じ上げております」
だからこそ、同行させていただくようにしたのだとルドヴィックは言った。
「ですが、『森』の本当の姿と言いますか、何があるのかは存じあげません。おそらく代々の語り継がれた者たちの中にも、そのことに触れる機会を得た者はいなかったでしょう。私はその機会を得られて幸運なのです」
そして、アデルリーナに同行したのは自分の好奇心から、ということにしてくれて良いと笑う。
でもアデルリーナは気づいている。その誰も知らないという、父や母も付いてこれない場所に放り出されるアデルリーナを心配し、守ろうとしてくれていることを。
「わたくし、ルドヴィックは教育係でもあると聞いています。色々教えてくださるのでしょう?」
「ははは、そうですね。モンリッジョ城伯と相談して行うことになりますが、私は厳しくしますからね」
「望むところですわ」
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扉が叩かれて、ベルナディッタが入室の許可を出すとロミエラが入ってきた。
「果実水をお持ちしました。それからアデルリーナ姫様、モンリッジョ城伯より、城内のご案内をしたいとのことですが、いかがいたしましょう」
「まあ、カルスタットときたら、せっかちですこと。姫様には休息の時間も与えないおつもりかしら。相変わらず気が利かないったら」
ベルナディッタは弟に不満を述べる。姉弟の気安さがのぞく。
「ふふ、ベルナディッタ、大丈夫よ。でも果実水はいただきたいので、少しお待ちくださるようにお伝えしてくださる?」
「かしこまりました。先ほどの小広間にてお待ちするようお伝えします」
ロミエラが出ていくと、アデルリーナは果実水を口にする。杏と柑橘系の果物のようだ。ほのかな甘みと爽やかな酸味が喉に心地よい。
「美味しい」
思わずそう口にすると、ベルナディッタがにっこりと笑う。
「よろしゅうございました。旅の間、緊張なさっていらっしゃいましたでしょう? お食事もあまり味がわからないご様子でしたので、安堵いたしました」
確かにそうだったかもしれない。自分ではいつもどおりのつもりでも、やはり気を張っていたのだろう。
「心配かけてごめんなさい」
「いいえ、大人でも長い移動は疲れるもの、ましてや姫様は初めての長旅ですから、当たり前のことですわ」
そして、無理をしてもっと酷いことになるよりも、駄目な時は早めに言って欲しいと念を押す。
「アデルリーナ姫様を支えるためにわたくしたちがいるのです。どうぞ、わたくしたちを役立たずになさらないでくださいませ」
アデルリーナは頷いた。これからの生活は城にいた時とは違い、父も母もいない。ここでの主はアデルリーナだ。
主としての振る舞い方も学ばなくてはいけない。ベルナディッタとルドヴィックはそのことを教えるための人材でもあるのだろう。
小広間に行くと、ルドヴィックとエンハルトも待機していた。
「お待たせしました。モンリッジョ城伯様」
「どうぞ、カルスタットとお呼びください」
「では、カルスタット様、お城の案内をお願いいたします」
「承知いたしました。どうぞこちらへ」
先頭をカルスタット、その後をアデルリーナ、その後ろをエンハルトとルドヴィックが並び、さらにその後ろをベルナディッタとロミエラが続く。
大広間、礼拝堂、図書室、食堂、会議室、執務室などを見て回り、地下に入っていく。
「訓練城や馬場、各種工房は別の建物になりますが、それはまた後日とさせていただきます。地下は薬草や薬剤、食料の保管庫と書庫になります」
そして書庫に案内し、第一、第二書庫を通り、第三書庫の前で足を止める。
「書庫のうち第二書庫は私、城伯の許可が必要です。そして第三書庫は領主の許可がなければ入れません。ここにいる方で入れるのは私とアデルリーナ姫様、ルドヴィック様とエンハルト様のみになります」
ベルナディッタとロミエラは承知していたようで、黙って頷く。
二人を残し、書庫の扉を開けて入れば思ったよりも明るい。高いところに明かりとりの窓があり、そこから光が差して込み、本というよりも石板や陶板が立ち並んでいるのがわかる。
「ロシュタットの原初の歴史書です。このうちの一部は羊皮紙に写本されておりますが、まだ解読されていないものも多くあります」
「これらは読ませていただけるのですか?」
アデルリーナの問いにカルスタットは頷く。
「ご領主様からもそのように仰せつかっております。但し、一人では入れません。必ずエンハルト様かルドヴィック様を同席させてください。鍵は私が管理しております」
「一人では駄目なのですか?」
本を読む間、ずっと待たせておくのは申し訳ない。
「実は、この部屋には、隠し通路の入り口があるのです。外から来た者が入ってこないとも限りません。もっともその可能性は限りなく低いですが、万一ということもあります」
「隠し通路?」
「はい、森への。明日お連れいたしますが、このことは他言無用でお願いいたします」
森への隠し通路。次回は森の中です。




