洪水の後に
洪水が収まっても、その後の後始末は簡単ではない。水車小屋は流失し、水浸しになった町や村には泥が積もり、畑は表土が流され石が散乱している。皆が片付けに奔走していた。
真ん中が落ちてしまった橋には臨時の木橋がかけられ、人々は泥に塗れた家屋から鍬を手に瓦礫を運び、子どもたちは流木を拾い集める。
修道士たちが中心になって広場の井戸を清掃し、女たちは汚れた服を洗い、領主の倉から配給された穀物や豆で炊き出しをする。互いに声をかけあい励まし合う。
人々は疲れた様子ではあっても、暗い顔をしてはいなかった。未曾有の大洪水だったにもかかわらず、人的被害はほとんどなかったためだ。それは、教会の弔い鐘が鳴りつづけなかったことからもわかる。
領主であるステファーノは、領地内の被災状況の報告を受け、対策の指示に大忙しだった。
いち早く洪水の予測と避難指示をしておいたことが効を奏し、大きな被害としては、橋がいくつか流失したり半壊していること、港の堰堤や桟橋が壊れたこと、城壁の損壊といったところだ。
今回はアトス山脈の万年雪や凍土が崩壊して流れ込んだことが、洪水を大きくした。アトス山脈からレーミア川に注ぐブラン川の沿岸周辺はトレアンダ侯爵領である。
ブラン川は普段から流れが早く今回も被害は大きいと予想されていたが、トレアンダ領主の奥方の指示で避難命令が出される前から避難と対策をさせていたため、思ったよりも被害は少なかったという報告が上がってきた。
「ザイフォス、其方の奥方のおかげでトレアンダは大丈夫そうだ。鉱山の方も無事らしい」
「鍛治工房と鉱山はトレアンダの命綱ですから、アンヌマリーも最優先で対処したのでしょう」
騎士団長のザイフォスは、家臣団の指揮統率で領地に戻ることができなかった。息子のジルヴェルトとアルフィオスもロシュタット城にいる。
「アンヌマリーがいれば、其方がいなくてもトレアンダは安泰かも知れぬな」
「まあ、領地経営は私よりも上手くやってくれていると思いますよ。ローザリンデ様ほどではございませんが」
「軽口をたたいている暇があったら、さっさと処理してください」
そう言ったのは家令のヴィヴィリオだ。ステファーノは笑い出す。
「まったく、その言い方は其方の妹にそっくりだな」
スカルティオ侯爵であるヴィヴィリオはローザリンデの兄である。ステファーノの冗談めいた反応にムッとした顔になる。
「冗談ではなく、其方、今は正念場だということを真剣に考えろ。それでなくても新米領主なんぞ、領地を奪われがちなのだから、この災害を好機だと考える他領や他国は多いのだぞ」
ステファーノは領主に就任してまだ三年目だ。復興に手間取っていればつけ入る隙が大きくなると、ヴィヴィリオは言うのだ。
「わかっている。警戒は怠っていないはずだ」
「家臣団もいつでも動かせるぞ。今回の災害は他所からは壊滅的にみえるだろうが、兵力は復興に割く分を考えても問題ない」
得意げなザイフォスに苦笑しつつ、ヴィヴィリオは何か言いたげにチラリとステファーノを見た。
「確かに、幸いな事に予測が上手くいきましたからね?」
***
避難命令の解除を出したその日の夜、ロシュタットの領主一族は城の一室で話し合いをした。
ステファーノ、ローザリンデ、セルペンテス、コーディリア、それとプレディオス。名目上は今後の復興対策、王と教皇庁への報告、その相談だ。
プレディオスが口を開く。
「兄上、此度は災害の規模に比して被害が大きくない。むしろ少ないくらいです。見事な采配でございました」
その言葉にステファーノは嫌そうな顔をする。
「采配など、私の手柄ではない。適切な対策がとれたのは父上や其方を始め、皆が動いてくれたからで、何よりアデルリーナのおかげだ」
プレディオスは苦笑する。本当にこの兄は変わらない。実直で不器用だ。だからこそ、だれからも信頼される。
「ええ、それでも領主の決断次第では、もっと悲惨な状況になっていたでしょう。だからこそお聞きします。兄上、アデルリーナをどうなさるおつもりですか?」
領地の復興は粛々と行えばよい。時間がかかっても何とかなるだろう。だがプレディオスは姪のこれからが気がかりでならない。
「あの娘には普通に過ごさせたい」
ローザリンデも頷く。夫妻の気持ちは同じのようだ。もちろん自分もそう願っている。
「そうできれば良いと私も思います。ですがアデルリーナの力は常人とは異なります。それをどうなさいますか?」
「どうする、とは?」
プレディオスは皆の顔を見渡して言う。
「司教である私が言うのもおかしな話ですが、今の教会にとって人ならぬ力を持つ存在は敵なのです」
「敵?」
コーディリアが首を傾げる。
「ええ、母上。教会が認めていないのに神に近い力を持つこと、そんな存在がいたら都合が悪いのです」
「認めてもらうことはできないのですか?」
「聖女として、都合のいい傀儡になるのであれば、出来るかも知れません」
セルペンテスが首を振る。
「それは籠の鳥と同じ。いい声で鳴かなければ排除されるだけだ」
「教会にとっていい声……」
「コーディリア、そういうことだ。そうでなければ、それは異端の神と通じた悪魔の力、とされかねない」
「そんな……」
ローザリンデも唇を震わせるが声が出ない。
「もちろん、そんなことはない。だが、自分たちの聞こえない声をアデルリーナが聞く。その声が自分たちにとって都合が悪いことだったら、あの娘を悪魔の使いに仕立てることは造作もないだろう」
セルペンテスが言った排除という言葉の意味に、ローザリンデは気付いて、ますます蒼白になる。魔女狩りだ。
「でも、アデルリーナは、少しだけ、そうほんの少しだけ、人とは違う音が聞こえる、耳がいいだけの普通の娘です」
「義姉上、お気持ちはわかりますが、それほど単純なものではありません。今回もそうです。予言として扱うこともできる内容でした」
アデルリーナから聞いたのが、プレディオスとローザリンデであったから良かった。そしてアデルリーナがまだ幼くて、空想話として片付けてしまえるうちは問題になることはないだろう。
「今のままでは、アデルリーナが知らずに不用意な発言をすることもあるでしょう。それは危険すぎます」
ロシュタットにおける『響きの糸』は、ある種の救いの女神のような存在として伝説めいたものが伝わっている。
けれど、伝説の存在が現実の存在となった時に、人は受け入れることができるだろうか。自分たちと異なる存在は、畏怖と嫌悪の対象になるものだ。
「アデルリーナの力は隠さねばならない」
そこにいる誰もがそう思ったことをセルペンテスが口にする。するとコーディリアが頷きながらプレディオスを見る。
「わたくしもそう思います。ですが、プレディオス、其方は教会の人間です。アデルリーナの力を隠すということは、神の教えに背く事にはなりませんか?」
「だったらどうだと言うのです? セレスト教の教えは主の元では平等で、互いに愛し合うことです。今の教会は、自分たちの権威が絶対であることの方が、本来の教えよりも重要だと思い違いをしているのです」
これは明らかな教会批判だ。それこそ異端とされてしまいかねない。コーディリアとローザリンデの顔色が変わる。
「母上も義姉上もそんなお顔をなさらないでください。私は教義を否定しているわけではございません。私はアデルリーナの力は祝福であると信じております。だからこそ、アデルリーナを守ることが御心に適うはずだと思うのです」
「母上、プレディオスが教会に入ったのはロシュタットを守るためです」
「教会は情報と権力が集まる場所だ。そこに味方がいることで戦いに備えることができる。其方たちにもわかるであろう?」
ステファーノとセルペンテスがプレディオスを庇う。
「ええ、ですから私は出世するつもりですよ。ロシュタットのためだけでなく、本来の教会の在り方のためにも」
コーディリアが呆れたような声を出す。
「まったく其方ときたら。けれど、利用されるのではなく、利用する側でいることは大切です。勝算はあるのでしょうね」
「もちろんですとも。そしてアデルリーナの力は正しく使われるべきものであって、権力の都合で歪められてはなりません」
プレディオスはそう言い切るとステファーノを見る。
「兄上にはお考えがあるのではございませんか?」
「うむ。アデルリーナは自分の力を正しく知ることが必要だと思っている。だから『森』に預けるつもりだ」
「『森』か、それが良いかも知れぬ。アデルリーナはまだ洗礼式前だ。領主の娘としての披露目が終わっていないから、今ならばアデルリーナを知る者も多くない」
セルペンティスが頷くとローザリンデが異を唱える。
「お待ちください! それはアデルリーナをどこかに隔離するということですか? 幼いあの子を?!」
「洗礼式をしない子供は社会の一員として認められない。ステファーノ、其方はアデルリーナをそんな存在にするつもりですか?」
コーディリアも非難の声をあげる。
「落ち着いてください、御二方とも。兄上がそんなことをするとお思いですか? 大丈夫です。『森』はロシュタットの宝ですからね」
ロシュタットの広大な森は豊富な資源で、領地の経済を支えていることは知っている。木材、獣肉、薬草、鉱物などあらゆるものを与えてくれる。だが、プレディオスのいう宝はそれだけではないらしい。
「母上、ローザリンデ、森の民はロシュタットの影の傭兵団であり、隠密なのです」
ステファーノが言うには普段は杣人や炭焼きとして暮らし、森を出るときは商人や吟遊詩人に扮して、秘密裏に情報収集を行っている。彼らは異教徒で、遠い昔に戦で逃げてきた異民族を当時の領主が森に匿ったことで、ロシュタットの領主一族に忠誠を誓うようになったという。
「ですが、それがどうして、アデルリーナを託す事になるのですか?」
ローザリンデには納得がいかない。
「義姉上、『森』には魔女が住んでいるのですよ。それも本物の、ね」
「プレディオス、迂闊なことを言うものではない。だが、不思議の力を持つことは間違いない。あの者ならばアデルリーナを教え導くことができるだろう」
プレディオスとセルペンテスの言葉にステファーノも頷く。
「父上の言うとおり、私はアデルリーナをその者に託そうと思う。我々ではアデルリーナの力を理解することも教えることできない」
「その者は、信頼できる者なのですか? それに、アデルリーナはずっと森に囲われてしまうのですか?」
「信頼という点では何も問題はない。それに、永遠にアデルリーナを森にとじこめるわけではない。だが、今の時点ではいつまでとも言えぬ。アデルリーナ次第だ」
コーディリアが小さくため息を吐く。
「嫁いできてロシュタットの一員となったつもりでしたが、こんな秘密があったとは存じませんでした。『響きの糸』が伝説ではなく、実存していたことも驚きですが」
「何事もなければ、領主一族と一部の家門の直系の男子にのみ伝えられることなのだ。異教徒や異民族にかかることは危険が伴う。知らずにいたほうが良いこともある」
セルペンテスの言葉にコーディリアは気づく。他所者だから知らされないのではなく、知らないということで、命が助かることもあるのだ。
「つまらぬ愚痴を申し上げました。秘事をお教えいただきましたこと、わたくしも心して守り抜きましょう。それで、アデルリーナは今後どのように?」
ステファーノはプレディオスを見る。
「教会では今後の儀式をどう考えている?」
「春の洗礼式と帯結いの式は先延ばしになるでしょう。何より民たちに祝えるだけの気持ちと準備ができていなければ、式だけを行なっても意味がありません。夏に行うことになるかと」
「まずは復興優先、教会も民に寄り添うということだな。ならば、アデルリーナは離宮での病気療養に入る。夏に行う予定の洗礼式は内輪で行うこととする」
ローザリンデが悲鳴のような声をあげる。
「ステファーノ様!? それは後々領主の娘としてアデルリーナが侮られる事になります。おやめくださいませ!」
貴族の子弟の洗礼式は、自宅で司教を招いて行い、関係者を招待してお披露目をする。領主の娘であれば領地内の主だった貴族が招かれて大々的に行われて然るべきなのだ。それをしないということは、その子は親から大切にされていないということになる。
「いや、それでよい。その代わり、アデルリーナの名で『振る舞い』を出すのだ。貴族にも何か贈ればいいだろう。災害に見舞われ、復興のために領地が一丸となって取り組んでいる中だ。派手なお披露目ではなく、幸を分け与える。名分としては悪くなかろう」
「なるほど、本人は療養中であるから、表に出ることは難しい。けれど存在感はしっかりと残しておくわけですね」
「ああ、そのとおりだ。しばらくの間、アデルリーナがいないことへの言い訳にもなる」
そうしてアデルリーナが『森』へ行くことが決まった。
***
ステファーノはヴィヴィリオの視線を受け止めると、ザイフォスとヴィヴィリオを残して人払いを命じた。三人だけになるとステファーノが口を開く。
「実は、『響きの糸』が現れた」
「アデルリーナ様か?」
すかさずヴィヴィリオが尋ねる。
「やはり気づいておったか」
「確信はなかったが、プレディオス様と妹の様子、それに非難命令を出した直前にアデルリーナ様と話していたからな」
「そうだ。雪解けで地盤が弛んでいることも雨が降ると教えたのもアデルリーナだ」
ザイフォスは驚いて二人の顔を交互に見る。
「待て待て待て! アデルリーナ様が? 『響きの糸』?」
「素っ頓狂な声を出すな。騎士団長が見苦しい」
ばっさりとヴィヴィリオが切り捨てる。
「いや、待ってくれ! 本当に『糸』なのか?」
「どうやら、そのようだ。其方もトレアンダ領主だ。『響きの糸』については聞いておるだろう」
ステファーノの淡々とした答えに、ザイフォスは本当だと悟る。
「時代が悪いな」
ボソリと呟いたのはヴィヴィリオだ。
「プレディオスと同じことを言うのだな。だから『森』に預けることにした」
「『森』ってあの『森』か?!」
またもやザイフォスが驚くが、それには構わず二人は話を続ける。
「そうか。奥方様、ローザリンデは承知したのか?」
「納得はしていないかも知れぬが、了解している」
「『森』へは?」
「連絡を入れた」
「離宮は?」
「大丈夫そうだ」
「同行者は?」
「そのことで、ザイフォス、其方に頼みがある。其方の母君、ベルナディッタにアデルリーナの侍女になって欲しいのだ」
二人のやりとりを聞いていたザイフォスはいきなり話を降られて驚く。
「母上に?」
「なるほど。ベルナディッタ様は前モンリッジョ城伯のご息女だったな。教育係としても適任だ」
モンリッジョ城伯はアデルリーナが行こうとしている離宮の城代である。代々『森』の管理人としてその責を担っている。現在のモンリッジョ城伯はベルナディッタの弟に当たる。
「おそらく母上は否とは言わぬと思うが、アンヌマリーにはどこまで話をしても良いか聞いておきたい」
「今のところはアデルリーナが体調を崩し、離宮で静養させることになったので、離宮をよく知るベルナディッタに付き添ってほしい、ということにしておいてくれ」
「うむ、承知した」
それから今後のことについて話し合いを続ける。
その日の夜、アデルリーナは父によばれ、『森』に行くことを告げられた。
今回はアデルリーナは登場しませんでした。次回は『森』の話になります。




