大洪水の日
実際に洪水が飽きたのは『春告の日』から五日後のことだった。
その前日、アデルリーナは山からの音が消えたのを感じた。それと同時に雨が降る前の音を聞いた。
「お母様、怖い音が消えました」
朝食の席でアデルリーナがそう告げると、ローザリンデは領主執務室へアデルリーナを伴った。
「ステファーノ様、アデルリーナに聞こえる音が変わったようです。アデルリーナ、お父様に貴女が聞こえていた音、今、聞こえる音について教えて差し上げなさい」
ステファーノはアデルリーナの前に膝をついて、アデルリーナと目を合わせる。柔らかな優しい目だ。
「アデルリーナ、教えてくれるかい?」
「はい、お父様。お山の方から聞こえていた怖い声は聞こえなくなりました。今はとても静かです」
「他に聞こえてきた音はあるかい?」
「雨が降る前に聞こえる音が、水が弾けるような音が大きくなっていますけれど……。お父様やお母様には聞こえないのですか?」
ステファーノは穏やかに頷く。
「残念だけど、聞こえないんだ。その音はアデルリーナにしか聞こえていないんだよ」
アデルリーナはローザリンデを見る。ローザリンデも静かに頷く。やはり、と思った。この話をした時の叔父と母の反応がそんな風だったから。でも……。
「わたくしだけ? どうして?」
そう聞かずにはいられない。けれどステファーノは首を振る。
「そのことについては、後でゆっくり話してあげよう。だけどね、その音は決して悪いものではないんだよ。むしろありがたいことなのだ。だから心配しなくても良い」
「そうなのですよ。貴女には祝福が与えられているのです。誇らしく思いなさい」
父も母も真剣な顔だ。誤魔化そうとしてはいない。
「今、教えていただくことはできないのですか?」
「そうしてあげたいが、災害が迫っていることがわかったから、その対策を最優先にしたいのだ。領主一族として、すべきことはアデルリーナもわかるであろう?」
災害が迫っている、そういうことだったのか。だから城の空気も張り詰めていたのだ。騎士団長が自ら動いているということは、家臣団総出で対策に当たっているのだろう。ここで我儘を言ってはいけない。
「はい。必ずお話してくださいますね?」
「ああ、約束しよう。それで、雨の音はどちらから聞こえる?」
「え? これまではずっと遠くの海の方から微かに聞こえていましたけれど、今は山の、アトス山脈の方に……」
「いつ降るかはわかるのか?」
「多分、もうすぐ。もしかしたら降り始めているかもしれません」
ステファーノはガバッと立ち上がる。アデルリーナは驚いて後ずさり、ローザリンデに支えられた。
「警報を鳴らせ! 避難命令を出すのだ!」
慌ただしく家令が飛びこんできて、続いて騎士たちが入ってくる、ステファーノは彼らの指示を出し終えると、呆然としているアデルリーナの方を向いた。
「驚かせて悪かった。だが、其方のおかげで被害が少なくてすむかもしれぬ。とはいえ、油断はできぬし、災害が起きた後のことは予想もつかぬ」
アデルリーナには何と言っていいか分からなかった。父が自分の話から何をどう判断したのか。その結果、どうしろと言うのか。
けれどローザリンデが代わって答える。
「わたくしたちも領主一族として、領地を守るのです。災害そのものは人には如何ともし難いことでございます。ですが幸いにして備えることを得て、民たちを守ることができるのでしたら、骨身を惜しむことがございましょうか。これは災害という名の戦いでございますゆえ」
そうか、貴族は戦う者だ。そして父や男たちが前線で戦うなら、女たちは背後を固めると教えられている。
「お母様、わたくしにもできることをお教えくださいませ。お父様、民たちを、領地をお守りください」
「うむ、この父に任せておきなさい」
どんよりと重苦しい雲が広がる中に、鐘が鳴り響く。緊急避難命令が出され、しばらくすると雨が降り始めた。
高台にある城は要塞としての機能を持ち、戦争時には民衆の避難地となることも想定して造られている。
城は三重の城壁に囲まれ、外壁は川と堀に沿って築かれている。その内側には白で働く者たちが住む建物が並ぶ。上の本城に近く高いところほど身分の高い者になる。東西南北の城門には兵士が置かれ、夜は閉門され出入りできないようになっている。
二つ目の壁の中には、鍛冶や陶芸などの工房や厩舎、訓練場、井戸、菜園や薬草園。ここから先の門には騎士が常駐する。三つ目の壁の中が行政の執行機関、領主たちの居住空間である。
川を挟んだ向かい側の市街地や周辺の農村から橋を渡って城に向かって避難してくる者が続く。橋の両岸では騎士と兵士たちが民を誘導し、声を張り上げている。
「押すな!」
「子供と年寄りを先に渡すのだ」
「橋から落ちぬように気をつけろ」
雨足が早くなってきた時に、アトス山脈の方からドーンという大きな音が聞こえた。地響きが伝わってくる。
あっという間に大量の水が押し寄せてきた。茶褐色の濁った水が激しい渦を巻きながら流れ込む。
ゴーゴーと凄まじい音を立て、生き物のようにうねる奔流。逆巻く波が川岸を削り、草や木々を飲み込んでいく。
さらに上流から巨大な氷塊が押し寄せる。ガツンガツンとぶつかり合う音が重く響く。山の万年雪が溶け出したのだ。
レーミア川にかかる橋は、雪解け時期に上流からの流氷や水圧を逃すための氷櫓が設置されているが、これほど大きく大量の氷が流れ込んでくることはない。避けきれない塊が橋脚にぶつかって、大きく揺れる。
「うわあ!」
「きゃああ!」
「怖いよおー」
足を取られてまろび転げる者、滑って尻餅をつく者、叫び声と泣き声が混じり合う。
「あわてるな!」
「真ん中を歩くのだ!」
「子どもの手を離すなよ!」
押し寄せた大量の水は、川岸を乗り越え、城壁の外側の家屋をバリバリと音を立てて濁流に飲み込んでゆく。
市街地の壁の内側にまでに流れ込み、壁に沿ってぐるぐると渦巻き、建物の扉を押し倒し、家具や道具類が全て流されていく。
橋を渡りそびれた者たちは、大聖堂や丘に向かう。大聖堂の建物そのものは頑丈だが、地下には水が流れ込み、神官たちはせっせと水を汲み出していたが、やがて諦めて上階に避難する。
バキバキバキッと大きな音を立てて橋脚が2つ倒れた。大量の木と氷塊が堰き止められて氷櫓も流されてダムのようになり、重圧に耐えきれずに薙ぎ倒されたのだ。大きな悲鳴が上がる。
「川に近づくな!」
「斜面は崩れる危険があるぞ!」
「反対側の丘に向かえ!」
右往左往する民を叱咤激励して騎士と兵士たちが、あらかじめ想定していた避難地へ誘導する。
避難命令が出された後、アデルリーナは城の『晴れの間』にいた。集まった子供たちにローザリンデは洪水が起きる恐れがあること、民たちが避難してくること、洪水がいつ治まるかわからないこと、復旧にも時間がかかることを伝える。
不安そうにざわめく子供たちに厳しい声で言う。
「静まりなさい。貴方たちは貴族の子です。領地を守り戦うことが、貴族の使命であることを知っておりますね」
皆は頷く。
「よろしい。では狼狽えてはなりません。皆に任務を与えましょう。洗礼式を終えている男子は騎士たちのお手伝いを。女子は薬師の指示に従いなさい。洗礼式前の子供たちはここで作業をしてもらいます」
アデルリーナは少しでも状況がわかるところに行きたかった。『晴れの間』からは城の中庭しか見えないのだ。
「お母様、わたくしも薬師様のお手伝いをさせてくださいませ」
「そうね、よろしいでしょう」
アルフィオスたち男子は7名。南北の物見の塔と各門、対策本部になっている中央棟の3階の小会議室の間を伝令として何度も駆け回ることになる。
女子たちはアデルリーナを含めて5人。ローザリンデが指示した侍女についていくと、城の前庭を抜けて正面の大扉を入ったところにある大広間に案内された。そこが救護院のようになっていた。
薬師は3名。助手兼弟子達が7名、侍女や下女たちが忙しそうに動き回っている。アデルリーナたちはすぐに薬材の調合を命じられる。
ヤロウ、カレンデュラ、カモミール、アルニカ、セイヨウヤナギ、カリンシード、泥炭、硫黄、アンバー、石灰、その他様々なものが揃っている。
扱い方によっては毒にもなるものもある。ちゃんとした知識がなくてはできないものであるが、アデルリーナたちはそれらの学習を終えている。
時代的に自分と仲間の身を守ることが最優先なのだ。なのでロシュタットでは女子であっても武術訓練を行い、剣と弓は必須だ。
もちろん、文法・修辞学・論理学の「三学」と、算術・幾何・天文・音楽の「四学」の自由七科、歴史学と語学も騎士見習いや侍女見習いになる前に、基本的なものは身につけておくことになっている。
男子も女子も十歳を過ぎると見習いとなる。見習いとはいえ一から教えられることはない。ひととおりのことが身についていなければ、仕事を任せてはもらえない。出来ない者として切り捨てられてしまうのだから、必死にもなる。
アデルリーナたちは薬師の助手の指示に従って薬草を仕分けし、刻んだり、混ぜたり、すり潰したり、煮出したりして、痛み止め、血止め、消炎、吐き下し、解熱など、用途に応じて合わせていく。
しばらくして突然ドーンという大きな音が聞こえたかと思うと、ゴーという凄まじい水音が聞こえてきた。
城下の音が俄かに騒がしくなり、怪我をしたり、具合が悪くなった人たちが連れてこられる。たちまち慌ただしくなる。
患者の間を看護師がわりの侍女たちが行き交い、薬師と助手たちが治療にあたる。
「おーい、ミスペル液はまだあるか? 持ってきてくれ!」
薬師のひとりが部屋の真ん中で大声で呼ぶ。
「はい、ただいまお持ちします!」
ミスペル液の壺を抱えていったのはオルタンシアで、アデルリーナの3つ年上の従姉だ。この夏からアデルリーナの祖母、コーディリアの侍女見習いになることが決まっている。
「これが最後の壺です」
「蒸留酒は?」
「ほとんどありません」
蒸留酒は消毒薬として、薬草液は消炎、鎮痛、湿布に使われる。
「薬草は乾燥させたやつがあるから保管庫から持ってこさせて。あと、厨房から酒も」
薬師の助手が下男を数名連れていき、袋や瓶を抱えて戻って来た。次から次へと作業が押し寄せ、息つく間もない。怪我人や具合が悪くなった者も絶え間なくやってくる。
「お兄様!?」
オルタンシアが入って来た騎士見習いを見て声を上げる。見るとエンハルトに支えられてきたのはジルヴェルトだ。びしょ濡れで額から血を流している。
「ジルヴェルト兄様! エンハルト兄様、どうなさったのですか?!」
驚いて駆け寄ろうとするアデルリーナを、ジルヴェルトは片手をあげて止める。そして少し微笑むと、騎士たちが手当を受けている方に向かう。エンハルトが振り返ってオルタンシアに大丈夫だと言うように手をヒラヒラと振る。
「アデルリーナ様、お兄様がついておりますし、ジルヴェルト様の足取りもしっかりなさっておりますわ。ご心配ないでしょう。まずはわたくしたちがすべきことをいたしましょう」
オルタンシアにそう言われて、アデルリーナは恥ずかしくなる。私情に囚われることなく、常に冷静でいろと教えられてきた。有事の時ほどそうあるべきで、上に立つ者は取り乱してはならない。
「はい、オルタンシア姉様。お姉様は流石ですね。足取りまで確認するなんて思いもよりませんでした」
「ふふ、伊達に年上というだけではありません。洗礼式を過ぎると実践的な学習になります。人の観察もさせられるのですよ」
人の観察。なるほど、あらゆる面で大事なことだ。学ぶべきことは尽きない。けれど、今は目の前のことに集中しよう、とアデルリーナは薬材に向き合う。
こうしている間にも多くの民を救うために父たちは奮闘している。自分に聞こえてきた音はこの災害の予兆だったのだろう。叔父は解決してあげると言った。それは災害から一人でも多くの民を救うことだったのだ。
自分の話から意味を読み取って、判断し実行に移すことができるのは、それだけの知識と経験があるからだ。自分には足りないものばかり。ふと他領にいる兄を思う。次期領主として育てられている兄は、さらに多くのことを教えられ鍛えられている。
(お兄様はご無事でしょうか……)
今、兄が見習いとして預けられているシエナンテ公爵領はレーミア川の上流にある。この災害で怪我などしていないだろうか。アデルリーナはジルヴェルトの姿を思い出し、慌てて首を振って大丈夫だと言い聞かせる。
しばらくして、エンハルトから聞いてきたと言ってオルタンシアが教えてくれた。ジルヴェルトは橋の氷櫓が壊れた時に、足を滑らせて川に落ちた子どもを助けるために川に飛び込んだらしい。すぐに助けられたけれど、流れてきた氷塊にぶつかって肩を打撲し、額を切ったという。
「お兄様が止める間もなかったそうです。慌てて命綱を投げて引き上げたそうですけれど、ジルヴェルト様も無茶をなさることがおありなのですね」
普段は冷静沈着を絵に描いたような方なのに、と驚いている。けれどアデルリーナにはその言葉が耳に入ってこない。あの恐ろしい川に飛び込むなんて、無事だからよかったけれど、そうでなかったら……。考えるだけでも震えがくる。
今度ジルヴェルト兄様に会ったら、無茶をしたことを叱ってあげよう、心配させた罰だわ。アデルリーナはそう心に決めた。
どれほどの時間がたった頃だろうか。
レーミア川の激しい音を立てていた流れが少しずつ勢いが緩くなり、あふれ出ていた水は川に戻っていき始めた。
とはいえ、その川の流れはいつもの穏やかさはなく、うねりを伴って岸を削りながら下流へと駆け下りていく巨大の竜のようだった。
水が少しでも引くと、気になるのは自分たちの家だ。民たちが自分の家に戻ろうと動き始めた時、騎士たちが押しとどめる。
「まだ上流の山の様子がわからぬ。再び洪水が襲い来るとも限らない。状況が確認できるまでこのままここで待つように」
不満を感じても相手は貴族である騎士だ。大人しく従わざるを得ない。
しばらくして第二波の洪水が押し寄せてきた。最初の洪水よりも規模は小さかったが、人や物を押し流すには十分な勢いがあった。民たちは震え上がり、騎士たちに感謝する。
「いや、私たちはご領主様から避難解除が出るまでは皆を留めておくように、と言われているだけだ」
民たちは領主の采配に感じ入る。その後も何度か洪水が繰り返し押し寄せてきたが、最初のものほど大きなものはなく、その間、民たちも静かに指示に従い、大きな混乱は起こらなかった。
三日目の昼過ぎに避難解除を知らせる鐘が鳴った。こうしてロシュタットでは最小限の被害で洪水を乗り越えたのだった。
アデルリーナが自分の力に気づくことになった大洪水でした。
これからどうなっていくのか、次は家族の話し合いです




