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予兆

 その大洪水はアデルリーナが7歳の洗礼式前に起きた。


 洗礼式は季節毎に行われ、7歳になった子どもたちがセレスト信者となり、市民として登録される儀式だ。市民でない洗礼式前の子は人としての権利はない。


春告(はるつげ)の日』の数日前、アデルリーナは恐ろしい音を聞いた。耳の奥に響いてくるような唸るような低い音。いつも春が訪れる時は軽やかな歌声のようなのに、これは違う。


 悪いことをして叱られているような、不安な気持ちが押し寄せてきて泣きたくなる。何か悪いことが起きるのではないだろうか。それもすごく恐ろしいことが。でも洗礼式前の自分がこんなことを言っても、取り合ってはもらえないだろう。


 父母ならば話はきいてくれる。でも、困らせるだけになるかもしれない。誰か、音の正体を教えてくれそうな大人は、と考えて叔父のプレディオスが思い浮かんだ


 当時ロシュタット教区の司祭であったプレディオスは、実家である領主の城でステファーノと三日後に行われる『春告の日』の打ち合わせを行なっていた。


 プレディオスはこの春から司教に昇進することが決まっていて、『春告の日』の儀式を彼が執り行わせてもらうことになったと言っていた。


 これには領主の弟であるプレディオスが行うことで、領主からの寄進を増やしたいという思惑もありそうだが、ステファーノも心得たものだ。


 儀式の段取りを確認し、兄弟の雑談を終えるとプレディオスは立ち上がる。


「では、かわいい姪の顔を見ていこうかな」

「ああ、この時間ならば東棟の晴れ(スードゥム)の間」にいるはずだ」


 晴れ(スードゥム)の間は窓にガラスがはめ込まれた小広間だ。まだ透明な板ガラスは作られていないので不透明なガラスだが、明るく光が取り込めることから『晴れ(スードゥム)の間』と呼ばれている。


 冬の間は子ども部屋として、城にいる子どもたちの勉強や遊び場になっている。


 クラウディオは騎士見習いとして他領に預けられている。ジュリアーノはまだ赤子で、晴れの間にいるのはアデルリーナだけだ。


 プレディオスが部屋に入ると、アデルリーナがプレディオスを認めて、ぱっと顔を明るくして駆け寄る。


「叔父様! いらっしゃいませ!」

「おやおや、淑女らしからぬ歓迎だね。おちびさん」

「わたくしはおちびさんではございません!」


 アデルリーナが少し膨れる。


「私から見ればまだまだおちびさんだよ。ほら」


 そういってアデルリーナを抱き上げてみせる。きゃっと歓声をあげてプレディオスにしがみつくアデルリーナ。

 そこへローザリンデが入ってきた。


「まあ、これで淑女などとはとても言えませんね。もう一度教え直さなくてはいけないのかしら」


 ため息まじりにアデルリーナを睨むと、プレディオスが苦笑しながら下ろす。


「義姉上、私が少しふざけすぎたようです。アデルリーナをお叱りにならないでください」


 困ったようなプレディオスにローザリンデは微笑む。


「わかっておりますわ。この子はプレディオス様が本当に好きなのですもの」


 そう言って娘を見る。


「だからといって、はしたない振る舞いをしてはなりません。貴女は領主の娘として、皆の手本になるべきなのですよ」

「はあい」

「はい、とおっしゃいなさい」

「はい!」


 アデルリーナがプレディオスを見ながらローザリンデに尋ねる。


「お母様、わたくし、叔父様にお尋ねしたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」


 すぐにプレディオスが頷く。


「いいよ。なんだい?」


 するとアデルリーナは少し口ごもる。


「あの、お山の方から怖い音が聞こえてくるのは、神様が怒っていらっしゃるのでしょうか?」


 怖い音? プレディオスとローザリンデは顔を見合わせる。プレディオスは優しい声で尋ねる。


「怖い音が聞こえるんだね? いつからなのかな?」

「気がついたのは三日ほど前です。最初は気のせいかと思っておりましたが、だんだん大きくなってきて……。叔父様ならご存じかと思ったのです」


 プレディオスは少し眉をひそめる。


「いつもはそんな音は聞こえないのかい?」

「毎年この頃になると、歌うような軽やかな音は聞こえますよね? でも今年はいつもと違って、唸るような音で怖いのです」


 プレディオスとローザリンデは再び顔を見合わせる。歌うような軽やかな音? 毎年?


「毎年聞こえている音は軽やかなんだね? それが今年は怖い音に変わってしまっている、そういうことかな?」

「はい。いつもは楽しくなるような気持ちになるのですけどれど、今年の音は怖くて……。だから、何か神様が怒っていらっしゃるのかと思って……、叔父様なら神様にお仕えしているから、きっとお教えくださるかと」


 プレディオスは首を振る。


「ごめんね。その音のことは私にもわからない。けれど、それは神様が怒っていらっしゃるのではないから安心しなさい」

「本当に?」

「うん、私が嘘をつくと思うかい?」


 アデルリーナは首を振る。


「だったら安心しなさい。このことは他の誰かに話したのかい?」

「いいえ。神様のお怒りかと思うと怖くて、まだ誰にも」


 プレディオスが周囲を見回す。この部屋には教育を受けるために城に滞在している貴族の子弟たちがいる。将来は領主一族の側近や領内で重要なポストを担うようになるであろう子たちだ。だが、この話は聞かせたくない。


 どうやら子どもたちはそれぞれ自分たちの遊びや勉強に集中していて、だれもこちらの話には注意を向けていない。


 護衛騎士たちも話の内容までは聞き取れない距離に位置している。プレディオスは習慣として唇の動きも見えないようにしているから、話の内容は気づかれていないようだ。


「そうか。他の人には言わないでくれるかい? みんなを怖がらせることはしない方が良いからね」

「でも、音がどんどん大きくなってくるのです」


 プレディオスは幼い姪を安心させるように優しく頭を撫でる。


「アデルリーナ、心配しなくて良いよ。その音は神様が怒っているのではなくて、きっと何かを知らせてくださるものなんだ。だから叔父様がお父様と一緒に解決してあげるからね。アデルリーナはいつもと違う音が聞こえたら、すぐにお母様かお父様に教えてくれるかい?」


 アデルリーナは少しほっとしたように頷く。プレディオスは立ち上がるとローザリンデに言った。


「兄上の執務室に行きます。義姉上はここでアデルリーナを見ていてあげてください」


 それから近くにいた従者に指示する。


「父上、前ロシュタット公に至急領主執務室にきていただくように」


 領主執務室。


「プレディオス、急に私を呼び出すなど、何の要件だ」

「父上、今ご説明申し上げます。その前に兄上、人払いをお願いいたします」


 家令や従者たちが出ていって三人だけになると、プレディオスはアデルリーナから聞いたことを伝える。


「兄上、アデルリーナは『(フィーロ)』です。あの子には自然の音や声が聞こえている」

「あの、ロシュタットに伝わる『響きの糸(フィーロ・リゾナンテ)』か?」


 ステファーノではなくセルペンテスが驚くほど早く反応する。


「はい父上、あの子は、いつもは軽やかな音なのに今年は怖い音が聞こえると言っています。おそらく山の雪解けの音を聞いているのでしょう」

「雪解けの音なんぞ聞こえるはずはない。遠く離れているのだぞ」


 セルペンテスが懐疑的な顔をする


「それこそが『(フィーロ)』であることの証明でしょう」

「どういう意味だ?」

「兄上はお気づきではありませんか?」


 プレディオスはステファーノに話を向ける。


「……ここ数年は春が早い気がしていた。特に今年は雪解けが早いようだ。川の水嵩が増している」

「ええ。そのとおりです。我々教会が観測している記録でも、ここ数年暖かくなるのが早い。今年はさらに早そうだと見込んでいました」


 少し考えるようにしてからステファーノは地図を広げて、山脈の方を指差す。

 

「もしかしたら、この数年の暖かさで万年雪が溶け始めているということか? 確かに山の方では、いくつか小さな雪崩が起きているというが」

「それは森の民からですか?」


 ステファーノは首肯(うなず)いた。森の民は山の変化に敏感だ。ロシュタットの広大な森を知り尽くしている。


 セルペンテスがうめくような声で言う。


「ううむ、つまり、其方たちはアデルリーナがその音、山や地面の中の音を聞いたというのか?」

「はい、父上。本当の音そのものかどうかはわかりませんが、おそらくは、我らには聞こえない音や声が聞こえるのでしょう。私はアデルリーナが空想や嘘で言っているとは思えませんでした」


 セルペンテスは少し考え込む。そこへローザリンデが入ってきた。


「お話中のところ、無作法を致して申し訳ございません。ですが、アデルリーナが言い忘れたことがあると言うので……」

「言い忘れたこと?」

「はい。雨が降る、と」

 

 雪ではなく、雨が降る。気温の低い季節ならば降るのは雪だ。春になっても気温と水温が上がって、雨雲が発生するのはまだ先のことのはず。例年ならば。


「いつ降ると? いつ降ると言っていた?!」


 ステファーノの形相にローザリンデは驚く。


「いえ、いつとは言っておりません。すぐではないけど、いっぱい降るとだけ。プレディオス様にいつもと違う声は教えてって言われたから、言わなくてはいけないと思ったようです」


 男たちは顔色を変える。雪解けが進んで地盤が弛んでいるところに雨が降ったらどうなるか……。


「洪水の恐れがある。まずやらねばならぬことは、領民の安全確保だ。対策を急がねば」


 そしてローザリンデに向き合う。


「ローザリンデ、アデルリーナは『響きの糸(フィーロ・リゾナンテ)』だ。だが、今は話をしている時間がない。災害が迫っている。領地と領民を守るのが我ら領主一族の責務であり、使命だ」


 そう言うなり、家令を呼び家臣団を招集するように指示を出す。


 ローザリンデは困惑していた。自分もロシュタット領主一門の家系だ。『響きの糸』のことは話としては知っている。けれど、娘が『響きの糸』とはどういうことなのか。詳しく聞きたい。


 だが、領主の妻という立場から、ぐっと堪えた。


「わか、りました。では、わたくしも城での備えと、非難者の受け入れが出来るよう準備いたしましょう」


 ロシュタットには二つの大きな川がある。川は大地を潤し、農業や工房での作業にも欠かせない資源だ。さらに重要な交易路としても大きな役割を果たしている。ひとたび洪水が起きればそれらがすべて瓦解する。


 過去にも大きな水害は起きていた。20年ほど前の水害では城と市街を結ぶ橋が全壊し、木造の家屋は流され、多くの家畜も死んだ。人的被害は言うまでもない

 

 復旧に掛かる時間と費用が莫大になることも痛いほどよくわかっている。そして、力が弱まったところで領地を奪われることもあった。被害を最小限に抑えることが何よりも急務だ。


「まずは領民を避難させることが第一だ。騎士団に避難経路を周知させろ。資材や家畜も高台に移動できるところを確保するように。プレディオスは教会と修道院に救援体制を頼んでくれ。薬草や薬材の在庫も確認が必要か」

「承知した。各教区にも連絡を入れておこう。(おさ)や顔役には兄上から説明を頼む」


 ステファーノの指示は素早い。プレディオスも迷いなく頷く。


「頼んだ。それから父上、水の流れを少しでも逃し、調整できるところはあるでしょうか?」

「地形を考えると数箇所ある。どれほどの時間があるかわからぬが、打てる手はすべて打っておこう」


 地図を指差しながら、ここの谷、こちらの荒地といった場所に流れを誘導する方策を講じる。


 男たちが慌ただしく動き始め、ロシュタット公国内の各領地にも伝令が走る。

 港に停泊している船はすべて川を下らせて沖合に停泊させた。


 その頃の東棟、 晴れ(スードゥム)の間の子供達には何も知らされてはいなかった。城の中が急に慌ただしくなったのは『春告(はるつげ)の日』の準備のためだと思っていた。


 部屋に詰めている教育係たちもそのように振る舞っていたからだ。それでもどことなくピリピリした緊張感を感じ取る子もいたようだ。


 アデルリーナは皆から少し離れて、部屋の全体を見渡せるところで皆の動きを目で追っていた。


「アデルリーナ様、少しお聞きしてよろしいですか?」


 そう言って近づいてきたのはアルフィオスだ。アルフィオスはトレアンダ侯爵家の次男でアデルリーナのひとつ上になる。


「このところ、城の中が落ち着かないと思われるのですが、アデルリーナ様は何かご存じではございませんか?」


春告の(はるつげ)日』が近いからではないことはアデルリーナにはわかっていた。おそらく、自分がプレディオスに告げたことが原因だということも。

 けれど、不確かな情報は与えてはいけない。領主の娘である自分の言葉の影響は大きいのだ。


「アルフィオスには何か思い当たることがあるのですか?」


 逆に問いかけてみる。アルフィオスは黙ったままアデルリーナをじっと見つめて、小さく息を吐いて首を振る。


「私などにわかるはずはありません。わかることは、このところアデルリーナ様が何かに怯えていらしたこと。先日プレディオス様に何かを打ち明けられたこと、くらいです」


 アデルリーナは驚く。態度に出さない自信はあった。実際に侍女も含め誰も気がついていないはずだ。


「叔父様に……話をした時に聞いていたの?」

「いいえ。プレディオス様はアデルリーナ様をさりげなく私たちから遠ざけましたので」

「他に気がついている人はいる?」

晴れ(スードゥム)の間にいる子どもたちは気付いていないでしょう」


 自分たちも子どもなのに、まるで大人のような言い方だ。


「なぜ、そう思ったのか聞いてもいいかしら?」

「クラウディオ様が……」

「お兄様が?」


 なぜ今は他領にいる兄の名がでてくるのだろう。アデルリーナは少し戸惑う。


「出立される前に私と兄上に、アデルリーナ様を頼むとおっしゃられました。無茶しないように、しっかり見ていてくれと」

「ジルヴェルト兄様にまで?」


 ジルヴェルトはアルフィオスの兄でクラウディオと同い年だ。


「そう。要は見張ってろってことですね? だけど兄上は騎士団の方に行っていて側にはいられないから、私が見ているしかない」


 アルフィオスの言葉遣いが砕けたものになって、アデルリーナの目を覗き込む。


「それに、小さな頃から一緒にいるんだから、顔色くらいわかる。見くびらないでほしいな」


 アデルリーナは少し目を見張る。そんな風に気にかけてくれているとは思わなかった。でも少し言い方が気に入らない。


「見張るって、お兄様はわたくしが何かしでかすって思っていらっしゃるということかしら?」

「あー、いやそういうわけじゃなく、いや、そういうこともあるけど」

「あるのね?」


 アルフィオスが困った顔になる。アデルリーナは笑い出す。

 なんだかんだで一緒に怒られた経験は少なくない。その大半はアデルリーナの思いつきから始まっているのだ。


「ご心配ありがとう、アルフィオス。でも今回のことはわたくしにもよくわからないの。だから叔父様にお尋ねしたのだけれど……」

「父上が忙しそうにしてますから、春告(はるつげ)の準備というだけではなさそうですね」

「アルフィオスのお父様、騎士団長が動いているというのならば、かなり大ごとではないのかしら」


 アデルリーナの顔色が曇る。


「だとしても、騎士団長はご領主様のご指示無くして動くことはないのだから、ご領主様がそう判断されたのだよ」

「それは、そう、なのかもしれないけれど……」

「気にしないでいることは難しいと思うけど、まずは自分のことも気をつけてくれないと困るのだけど? でないと、私が怒られる」

 

 そして呟くように言う。 


「クラウディオ様もだけど、兄上の方が怖いんだよなぁ」


 アデルリーナの知るジルヴェルトは穏やかな人だ。およそ怒るという姿は想像できない。少し首を傾げるとアルフィオスは余計な事を言ってしまった、という風に顔を逸らして、すぐにアデルリーナに向き合う。


「アデルリーナ様、お時間を取らせてしまい恐縮です。ですが、何かございましたら、私にもお教えいただければ恐悦至極と存じます」


 アルフィオスは幼馴染の顔からトレアンダ侯爵令息の顔になる。アデルリーナはニコリと微笑んで頷いた。



 




幼い頃の出来事。アデルリーナに聞こえる音。今後の運命に影響を与えていきます。

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