第8話 今日は、5分で終わります
「今日は、5分で終わります」
玄関を開けると、花巻は壁の時計ではなく、俺の顔を見て言った。鞄はいつものものだったが、図面の筒も、底の膨らんだ紙袋もない。片手には、蓋のついた小さな缶だけを持っている。
「毎回それぐらいで終われよ」
「今日は、福引の企画がどこまで進んだかのご報告だけです。中身は相談しません」
「それは助かる」
そう言って通した。食卓に積んであった紙を棚へ戻すと、花巻は缶を端へ置いた。鞄から何か出すのかと思ったが、口を開く前に椅子へ座る。
「福引を、大きな会場で開催する企画として検討していただけることになりました。私が担当で、会議に出す準備を進めます」
「通ったのか」
「まだです。詳しく検討していい、というところまでです。開催するかを決める会議は来週なので、そこへ出す企画書と、装置にいくらかかるかの見積りを作ります」
いつものように企画書が出てくるのを待ってしまった。花巻は手帳にも触らず、そのまま続けた。
「内容は、今日はお話ししません。会社で確認してもらっています。玖城さんには、採用されたら、正式なご案内を送ります」
「分かった」
「それと、専属ではなく、企画ごとに助言をお願いする契約の件は、まだ会社で確認中です。今日は署名していただくものもありません」
「ご報告は、以上です」
それなら、赤ペンも要らない。俺は引出しへ伸ばしかけた手を戻した。花巻は鞄の口を閉じた。時計を見ると、7時5分だった。玄関で迎えてから、まだ5分しか経っていない。
「本当に5分で終わったな」
「はい!」
いつもはここから企画書を広げ、ああでもない、こうでもないと言っているうちに時間が過ぎる。今日はもう用が済んだ。
席を立とうとすると、花巻が俺を呼び止めた。
「あと、これもお渡ししたくて」
「また漬物の容器か? もう置く場所ないぞ」
「違います! これです、これ。この間いただいたコーヒー、挽いてきたんですよ」
花巻が食卓の缶を持ち上げた。蓋を開けると、コーヒーの匂いがした。俺の棚へ置いてあった時は、袋を開けたこともなかった。茶色い粉が、缶の中の小さな袋へ入っている。
「俺の分まで?」
「はい。私も飲みました。おいしかったので、玖城さんにも飲んでいただこうと思って」
「全部挽いてきたのか」
「2杯分です。残りは、まだ豆で置いてます」
花巻は鞄から、透明な袋に包んだドリッパーと紙のフィルターを出した。書類は1枚もないのに、机へ置くものは増える。俺が見ていたので、ドリッパーを持ち上げて説明した。
「これがないと、粉だけ渡しても飲めないので。今日は、お湯とカップをお借りしてもいいですか」
「そこまで持ってきたなら、飲んでいけよ」
花巻は俺を見た。缶を差し出した時より、返事が遅かった。やがて鞄を椅子の横へ戻し、ジャケットの袖をまくる。
「では、私が淹れます」
「流しはあっち。棚のカップは使っていい」
俺も立って湯を沸かした。花巻は棚から同じ大きさのカップを2つ選び、ドリッパーを載せた。見慣れたカップが、飲む前から妙に立派になった。
いつもはインスタントの粉に適当に湯を注いで、混ぜたら終わりだ。花巻は紙のフィルターまで用意している。どうやら、本格的に淹れるらしい。
花巻は紙のフィルターの端を折り、ドリッパーへセットした。粉を入れると、俺から受け取った湯をまず少量だけ注ぐ。湿った粉が、真ん中から膨らんできた。
「もう注がないのか?」
「最初に蒸らすんです。このまま30秒くらい」
俺は膨らんでいく粉を眺めながら待った。花巻も湯を注ぐ手を止めている。
30秒ほど経つと、花巻はまた湯を注いだ。ドリッパーから落ちてくるコーヒーを見ながら、湯を足していく。
2杯分を淹れ終えるころには、台所へコーヒーの匂いが広がっていた。棚に置いたままでは、茶色い粒で終わるところだった。
カップを食卓へ運び、2人で座った。花巻が飲むまで俺を見ているので、先に一口飲む。熱かった。もう一口は、息を吹きかけてからにした。
「……こっちのほうが、うまいな」
「いつものより?」
「圧倒的にうまい」
花巻の顔が緩んだ。缶の蓋を閉めてから、自分のカップも取る。
「家でも、よくこうやって淹れるのか」
「休日の朝は。平日は時間がないので、インスタントです。前に、豆を挽くのに夢中になって、パンを焦がしちゃって」
「パンを焼くのは、あとにすればいいだろ」
「それだと、出かけるのが遅くなるんです」
「休日くらい、ゆっくりすればいいのに」
「休日は、よく工具屋さんへ行くんです。開店してすぐなら、店員さんにもゆっくり聞けるので」
結局、仕事に近いところへ戻った。だが、図面も仕様も出てこない。どこの工具屋が朝から開いているかを聞き、俺の知らない通りの話になった。花巻は、工具だけでなく、通りの途中のパン屋にも寄るらしい。焼きすぎた自分のパンは食べてから行った、とわざわざ付け足した。
俺もカップを空にした。花巻がドリッパーを片づけるために立つと、腹が鳴った。花巻のほうだった。本人が先に俺を見たので、聞こえなかったふりはできない。
「そういや、飯まだ食ってないのか?」
「はい。帰ってから、と思ってました。5分で終わる予定だったので」
時計を見ると、報告が終わってから、ずいぶん経っていた。俺もまだ夕飯を食っていない。冷蔵庫には炒めるつもりだった肉があるが、2人分には足りなかった。
「なら、一緒に外で食うか。俺もまだなんだよ」
花巻は流しに置いたドリッパーから俺へ目を戻した。
「いいんですか。お時間、大丈夫ですか?」
「ああ。食いに行くつもりがなかったら、誘わないよ」
「では、ご一緒させてください」
今度の返事は早かった。花巻は使った紙を捨て、ドリッパーを洗った。水を切って袋へ入れようとするので、俺は流しの横を指した。
「乾かしておけ。帰りに取りに寄ればいい」
「分かりました。缶も、置いておきますね」
ドリッパーを流しの横に残し、俺は財布と鍵を持って家を出た。花巻も缶を食卓に置き、鞄を肩に掛けてついてきた。
◇
駅の手前に、夜も定食を出す店があった。俺は何度か入っている。小さい看板の下へ、今日の煮魚の名前が手書きで足してあった。花巻がそれを読み、俺を見る。
「ここ、入ったことがありますか」
「ある。前に食った生姜焼きがうまかった」
「お魚もおいしそうですね」
「今日は煮魚もあるみたいだな。入ってみるか」
戸を開けると、焼いた肉の匂いがした。奥の卓では、作業着の2人が皿を挟んで話している。カウンターの端には1人客がいて、新聞を畳みながら味噌汁を飲んでいた。俺たちは、壁際の小さな卓へ通された。
前掛けの紐を腰の横で結んだ店員が、水を2つ置いた。髪は後ろでまとめている。花巻の鞄が通路へ出そうになったのを見て、空いた椅子を寄せてくれた。
「今日の日替わりは、生姜焼きと煮魚です」
店員が献立を開いて見せた。どちらも1280円。小鉢が2つと、ご飯、味噌汁が付く。写真の生姜焼きには、千切りキャベツがたっぷり添えてあった。
「俺は生姜焼きで」
「ご飯の量は、普通でよろしいですか?」
「はい。お前はどうする?」
花巻はまだ2枚の写真を見比べていた。俺が献立を彼女のほうへ向けると、煮魚の写真へ指を置いた。
「私はこちらをお願いします。ご飯は少なめで」
「煮魚ですね。かしこまりました」
店員が厨房へ戻ると、花巻は水を一口飲んだ。
「生姜焼きにするか、迷ったんですけど」
「魚、好きなのか?」
「はい。家では、こんなふうに煮ることがあまりないので」
「俺は、ここに来ると同じもの頼んじゃうんだよな」
「気に入ったものがあると、そうなりますよね」
花巻は献立を端へ寄せた。厨房から、肉を焼く音がする。匂いを嗅いでいると、ますます腹が減った。
先に小鉢が運ばれてきた。青菜のおひたしと切り干し大根だった。花巻は店員に会釈して、箸を取った。
主菜が運ばれてきた。俺の前には生姜焼き、花巻の前には煮魚が置かれる。白い身に煮汁が染みていて、そちらもうまそうだった。
「そっちもうまそうだな」
「玖城さんのも。生姜の匂い、いいですね」
「一口ずつ交換するか?」
「いいんですか。ぜひ」
店員に小皿を2つ頼んだ。花巻は魚の身を崩しながら、どのくらい取ろうかと俺の顔を見る。俺は肉を2切れ、自分の小皿へ取り分けた。
皿を交換して、もらった魚を食べた。骨を取ってくれていたので、そのまま口へ運べる。煮汁までうまかった。花巻も肉を食べ、ご飯へ箸を伸ばした。
「両方食べられましたね」
「次は煮魚にするかな」
「そしたら、私は生姜焼きにします」
花巻は笑って、まだ残っている魚を食べ始めた。俺も自分の皿へ戻った。もらった魚を食べた小皿には、煮汁が残っていた。
魚を食べ終えた花巻が、箸を置いて顔を上げた。
「今の、私の企画でも――」
「それ、俺が聞いていい話か?」
花巻が止まった。箸へ戻しかけた指が、皿の端へ触れる。言ったところまでを確かめるように、俺を見る。
「……すみません。今の交換の話から、つい」
「交換したところまではいい。その先は、会議で話せよ」
花巻は鞄へ伸ばしかけた手を膝へ戻した。俺は小皿に残った煮汁を見た。何を思いついたのか、聞けば答えてくれそうだった。
「思いつくと、すぐ聞いていただきたくなるんです」
「俺も危なかった。今、続きを聞きかけた」
花巻は俺を見て、それから笑った。俺は箸を取り直したが、頭の中ではまだ交換の続きを考えていた。欲しい物が違えば、断る奴もいる。全員が交換できるとは限らない。
そこまで考えて、ご飯を一口食った。花巻が言っていない条件を、俺が決めても仕方がない。
「普段、飯は自分で作ってるのか?」
「作れる日は。魚なら焼くことが多いです。1人分だと、そのほうが楽なので」
「コーヒーは、あんなに道具を使うのにな」
「あれは好きでやってるんです。洗い物は、少ないほうが助かりますけど」
ドリッパーを洗っていた姿を思い出した。俺はカップを流しに置いただけだった。
「戻ったら、カップは俺が洗う」
「ありがとうございます」
妙にきちんと礼を言われたので、箸を持ち直した。自分の家のカップだった。それでも、いつもと同じ1杯ではなかった。
食べ終えても、花巻はすぐに鞄を取らなかった。献立の裏を見ている。俺は表へ戻しかけたが、指の先にある文字を読んでやめた。
焼きプリン、345円。
「まだ食う?」
「食べたいんですけど、ちょっとお腹いっぱいで」
「やめとくか?」
「でも、食べたいんですよね」
花巻は献立を閉じかけて、またプリンの写真を見た。焦げ目のついた表面が、確かにうまそうだった。
「玖城さんも、食べますか?」
「一口なら」
彼女は店員を呼び、プリンを1つと、匙を2つ頼んだ。待っている間、工具屋の通りにあるパン屋も、こういう菓子を売っているという話になった。俺は場所を聞いた。店の名前は一度で覚えられなかったが、曲がる角は分かった。
プリンが来ると、花巻は先に一口食べた。俺の匙を指し、どうぞ、と言う。俺が取った分を見て、目を細くした。
「一口、大きくないですか?」
「これでも遠慮したんだけどな」
「私の分も残してくださいね」
俺は少しだけ匙の中身を減らしてから食べた。甘い。上の焦げたところが苦く、コーヒーが欲しくなる味だった。花巻は俺の匙が離れるのを待ち、残りを自分のほうへ寄せた。
花巻は匙を置き、鞄を手元へ戻した。取り出したのは書類ではなく、スマートフォンだった。
「会議、来週の木曜日です。結果が出たら、どちらでも送ります」
「どちらでも、は余計だ」
「でも、今は、決まってませんから」
俺は頷いた。通ると言ってやっても、俺は規則を一行も読んでいない。花巻も、その保証を待っている顔ではなかった。画面へ予定を入れ、鞄へ戻す。
「送る時に、内容まで書かないようにします」
「そっちは忘れるなよ」
花巻は笑って、空いた皿を端へ寄せた。俺も水を飲み切り、立った。壁際の席にいたはずの作業着の2人は、もう別の客になっていた。厨房からは、まだ肉を焼く音がする。
会計は2905円だった。俺が支払いを済ませると、花巻が財布を開いた。
「私の分、いくらですか?」
「今日は俺が出すよ」
「いいんですか?」
「コーヒー、淹れてもらったしな。うまかった」
「……では、ごちそうさまです」
花巻は財布をしまい、軽く頭を下げた。俺は釣りとレシートを財布へ収め、一緒に店を出た。来た時より冷えた風に、花巻がジャケットの前を寄せる。俺も財布をポケットへ入れ、家のほうへ歩き出した。
途中のパン屋の前で、花巻が看板へ目を向けた。「ここも気になってたんです」と言うので、朝はもう開いていると教えた。今度寄ってみます、と言って、俺の隣へ戻ってきた。
家へ戻ると、流しの横でドリッパーが乾いていた。花巻は袋へ収め、缶も鞄へ戻す。俺は約束どおり、カップを2つ洗った。
花巻が靴を履き、鞄を持ち上げる。廊下の時計へ目をやってから、俺を見る。もう10時に近かった。
「結局、もう10時か」
「報告は、5分で終わりました」
花巻は笑った。俺も笑い、扉を開けた。手帳も書類も、今日は鞄から出ていない。机には2人で描いた丸も、直すべき条件も残っていなかった。
「コーヒー、また飲みたくなったら言ってください」
「豆は、まだあるんだな」
「あります。今度は、淹れる時間も入れて伺います」
「飯の時間も入れとけ」
彼女は返事をして、廊下へ出た。缶とドリッパーを戻した鞄が、来た時と同じように肩で揺れていた。
鍵をかけ、居間へ戻る。空けた机は、来た時のままだった。夕飯に使うはずだった肉は、明日でもいい。棚の募集要項を戻す前に、もう一度時計を見た。5分で終わった報告のあと、何をしていたかは全部覚えていた。
────────── ここから付録 ──────────
花巻流のおいしいコーヒーの淹れ方
飲む分だけ豆を挽きます。今回は家で2杯分を挽いてきましたが、道具があれば、飲む直前に挽いても。
紙のフィルターの端を折り、ドリッパーへセットします。カップの上へ載せて、挽いた粉を入れます。
最初は、粉全体が湿るくらいの湯を注ぎます。いったん手を止めて、30秒ほど蒸らしてください。
あとは数回に分けて湯を注ぎ、落ちてくるコーヒーの量を見ながら淹れます。2杯分ができたら、温かいうちにどうぞ。
花巻のひと言:「今度は、その場で豆を挽いてから飲みましょう」




