第5話 本当に作るやつがあるか
「どいてくれ」
椅子がどいた。
俺は曲げかけた膝を伸ばし、手を宙へ残したまま、目の前の空間を見た。黒い座面が、床の白い線に沿って遠ざかっていく。脚の下で小さな車輪が回り、壁際の枠へ収まったところで止まった。俺が声をかけたのは、椅子の前で端末を触っていた花巻のほうだ。
花巻が、こちらを振り返る。丸い眼鏡の向こうで、目が輝いていた。
「どうですか!」
「……どこへ行った?」
「待機位置です。戻る時も、自分で戻れます」
俺は立ったまま、試験室を見回した。窓側に長い作業台。反対側の壁には部品の入った棚。その間の床へ、4つの白い枠が描かれている。枠の1つが空き、残りには同じ形の椅子があった。どれにも、普通の椅子には要らない小さな箱が脚の内側についている。灯りがついていたのは、今動いた1脚だけだった。
ここは、花巻の会社の5階だった。俺の家ではない。昨日のメッセージを読み返したくなったが、先に、今起きたことを確かめる必要がある。
「今、俺が言ったから動いた?」
「はい。言葉でどかせるようにしました」
花巻は手に持っていた端末を、俺へ向けた。画面に〈命令受理〉と出ている。その下に、俺が口にした言葉がそっくり表示されていた。
「本当に作るやつがあるか」
言ってから、壁際の椅子を見た。そばの減り方を0.0001グラムで量る企画を通した会社だ。音声で動く椅子を作るくらい、朝飯前だったのかもしれない。
花巻は、自分の端末と俺を交互に見た。思っていた反応とは違ったらしい。
「でも、玖城さんがおっしゃいましたよね。押し退けるのは禁止。言葉でどかせるのはいい、って」
「座ろうとしてる人間に、場所を譲らせるって意味だよ」
「椅子を動かせれば、場所は空きます」
「空いても、そこへ座れねえだろ」
彼女は空になった白い枠へ目を落とした。いなくなった椅子の代わりに何かを置くつもりはないようだった。俺の説明のどこを直せばいいか、そこから考えなければならない。
窓側の作業台から、低い笑い声がした。
「やっぱり、そういう話だったか」
袖をまくった作業着の男が、工具を置いてこちらへ来た。癖のある髪が額へ落ちている。花巻の指へ巻きついていた細い線を、歩きながら端末の裏へ収め直した。
「花巻、確認したのかって聞いたよな」
「しました。禁止ではないって」
「その文を読み返しただけだろ」
男は俺へ顔を向け、片手を上げた。
「技術の津村です。花巻がこちらにいた時の先輩で。今日は、急に来てもらってすみません」
「玖城です。……あいつ、前からこうなんですか」
「昔から、装置の話になると止まらなくて。今回も、ずいぶん細かい仕様を持ってきましたよ」
「それで、本当に作ったんですか」
「ええ。作れるかと言われたら、作りたくなるもので」
「先輩までそうなのかよ」
津村は端末の画面を見て、俺へ渡す。彼女の書いた仕様の一番上には、俺が言った一文が、そのまま載っていた。
確かに、俺の言葉だった。
その下に、〈椅子を回収位置へ移動させる〉とある。ここから先は、俺は一言も言っていない。
昨日、花巻から〈椅子ができました〉と連絡が来た時には、座った時刻を記録するものが出来上がったと思っていた。椅子も装置も持ってくるな、という俺の言いつけを守り、こちらへ来てほしいと言ったのだから、断る理由も薄かった。
会社の3階で受付を済ませると、花巻が迎えに来た。社員たちが行き来する廊下で、俺は声を落とした。
「お前、会社には内緒って言ってなかったか?」
「最初は、そうだったんですけど。宝探しの次の案を説明した時に、分かりやすくなったって部長に褒められて」
「それで?」
「つい、玖城さんに相談したって、言ってしまいました」
「褒められた勢いで、俺を売るなよ」
「売ってません。ちゃんとお名前を出して、お礼を――」
「だから、その名前を出す前に俺に聞けよ」
花巻は鞄の紐を握り直し、5階です、とエレベーターを指した。俺はついていった。中では、社員が1人、彼女へ端末の番号を尋ねた。花巻は鞄から書類を出すこともなく答え、足りない部品が届いているかまで聞き返していた。
ここでは、頼られるほうでもあるらしい。
そう思った直後に、座ろうとした椅子へ逃げられた。
「俺は、人を説得しろって言ったんだよ。自分がそこへ座りたいから、相手に別の椅子を狙わせるとか。お前の装置へ話しかけろって意味じゃない」
「では、椅子を動かすのは禁止だったんですか?」
「作ったあとで、禁止かどうか聞くな」
津村が、足元のケーブルを台の下へ寄せた。俺を責めるでも、花巻に同調するでもなく、空いた白い枠の端を靴で示す。
「動く椅子を使うのか、使わないのか。まず、そこを決めてもらえれば。どちらでも判定の部分は残せます」
花巻は端末を受け取り、壁へ行った。手で椅子を持ってくるのかと思ったら、画面を一度押す。車輪が逆向きに回り、黒い椅子が白い枠へ戻ってきた。
「動きも、ちゃんと記録しています。誰が、いつ、何と言って動かしたか。命令を聞き間違えたかどうかも確認できます」
「聞き間違えたわけじゃない。今、正確に聞いたのが問題だったんだよ」
彼女の指が、画面の端で止まる。
俺は椅子へ近づいた。座る前に、箱の穴を見た。音を拾う場所だろうか。花巻が口を開きかけたので、先に手を上げる。
「ここでは、首輪は出てこないんだろ?」
「出てきません。動きと判定を見るだけです」
「なら、座る。動かすなよ」
花巻は端末を胸へ寄せた。俺が座ると、椅子の下で小さな灯りが消える。逃げなかった。座面は思っていたより柔らかい。
「座っている時は動きません。転んだら危ないので」
「そこだけは、助かった」
座れなかったら死ぬものを作るために、座った人間が転ばない装置を作っている。そういう話は、今日は脇へ置く。俺は座ったまま端末を指した。
「さっきの言葉は、1脚だけが聞くのか?」
「最初は、1脚だけです」
花巻が端末を操作すると、空いた3脚の箱にも灯りがついた。
「今は、4脚とも同じ命令を受けます。どいてくれ、だけではなく、席を空けてください、と言っても」
床で、3つの車輪の音が重なった。
俺の椅子だけが残り、他の3脚が枠へ収まる。花巻は言い終えた口を、まだ開けていた。津村が一歩横へ寄り、通り過ぎる椅子を見送った。
「説明する時は切っておけと言っただろ」
「今のも、命令として正しく受けてます」
「お前が説明するたびに、会場から椅子がなくなるんだぞ」
花巻は慌てて受付を切った。端末に表示された3脚分の履歴を指で戻している。俺は立ち上がり、椅子から離れた。もう動かないと分かっても、すぐ座り直す気にはならなかった。
椅子がある場所と、椅子を戻す場所。その間を花巻が往復している。参加者同士で何を言うか、考える前に動くものが増えていた。
「これ、6人でやったら、どうなった?」
「6人では、まだ試してません。2人で確認した時は、音楽を鳴らす前に全部戻ってしまって」
「何て言ったんだ」
「準備できたので、いったん席を空けてください、って」
津村が作業台へ戻り、椅子の回収枠の位置を書き直した。慣れた手つきだった。花巻が同じ説明をした時に、一度は見たのかもしれない。
「人間の読み合いが始まる前に、椅子が終わってるな」
「人に触らず椅子を動かせるので、直接の妨害にはならないと思ったんです」
「分かった。俺の言い方も悪かった」
花巻が顔を上げた。俺は端末を指したまま、次の説明を待つのではなく、自分の口から足した。
「相手が、譲るか譲らないか考えるところを残したかった。何と言えば動くか分かった椅子に、命令するだけにしたかったんじゃない」
「……だったら、そう言ってください」
「今言った」
「作る前にです」
「そもそも、動く椅子を作るなんて想定してねえよ」
言葉でどかせるとは言った。椅子に言葉が通じるようにしろとは言っていない。
花巻は受付を切った端末を台へ置き、ジャケットの袖口を少しまくった。机の上だけで話していた時とは違い、椅子の箱を開ける位置まで迷わない。取り外すつもりなのか、津村へ工具を借りようとしている。
「待て。動くほう、まだ外すな」
彼女が振り返る。津村の手も、工具箱の上で止まった。
「動かしちゃ駄目なんですよね?」
「さっきのゲームへ、そのまま足すのが駄目なんだよ。椅子が減る理由まで変わるから。これを使うなら、別のゲームにする」
俺は窓側の作業台へ移った。座面の図面が1枚置かれていたので、裏を使ってよいか聞く。花巻が白い紙を寄せ、俺へペンを渡した。机は、俺の家の食卓より広かった。
「6人なら、椅子も6つ用意する。最初は、全員が座れる」
「減らさないんですか?」
「言葉で減らす」
花巻の目が、壁の椅子へ戻った。
「ただし、どの椅子も同じ言葉で動くのはやめる。椅子ごとに違う合言葉をつける。知ってる奴が言ったら、その1脚だけ回収する」
「それなら、普通の会話をしても動きませんね」
「そう。誰がその言葉を知ってるかも、分からないようにする」
6つの椅子を描き、下に番号をつけた。開始時には、1人1脚ずつ席を決めて渡す。花巻はまだ、椅子へ話しかけている俺を見ている。今度はどういう意味かを聞こうとしているのが、顔に出ていた。
「俺は最初に、1番の椅子を狙ってる。他の誰かが、1番を消せる言葉を持ってる。俺には、それが誰か分からない」
「なら、その人を探して、消さないでくださいって頼むんですか?」
「そういう話がしたかったんだよ」
花巻が、紙へ1本線を引いた。椅子の1番から、何も書いていないところへ向かう。俺はそこへ人の丸を足す。誰が知っているか、本人の話を聞くだけでは確かめられない。
「全員へ、1脚分ずつ教える。自分が最初に狙う椅子の言葉は、本人には渡さない。俺がお前の椅子を消せることもある」
彼女のペン先が、6番のところで止まった。
「椅子は、一度消したら戻せない?」
「戻せない。その席をなくしてから、やっぱり座りたくなっても遅い」
「では、言葉を教え合えば、誰でも好きな椅子を消せますね」
「教えてもいい。嘘を教えてもいい。だが、座れる数が減る。全部なくなったら、誰も帰れない」
花巻は椅子の絵を、手のひらで一度隠した。口元が少し固くなる。作った装置が動かせるからといって、動かしたいところで全部動かすわけではない。
「私、誰にも言わなければ、自分の椅子は残りますか」
「お前が知ってるのは、他人の椅子の言葉だ。自分のは、誰かが持ってる」
「……自分で守れないんですね」
「黙ってたら守れる、ってわけじゃない。消されそうなら、別の椅子を狙ってもいい」
自分の名前のついた椅子から、動いてもいい。残したい席と、自分が最後に座る席が同じとは限らない。隣の奴が口にしようとしている言葉を、先に別の奴へ聞かせてしまえばどうなる。
俺が考えている間に、花巻が首を傾げた。
「でも、全員が何も言わなければ、6つ残りますよね」
「残る」
「そのほうが、椅子を探さなくて済みませんか」
それも選べる。ただ、椅子を消す手段だけ渡しても、わざわざ自分の座る場所を減らしたい奴は少ない。俺は6つの椅子の横へ、賞金の丸を描いた。
「消した奴に、追加の賞金をつける。最後に自分も座れたら、もらえる」
「座れなかったら?」
「死ぬから、もらえない」
花巻が頷き、〈生還した場合〉と書き足した。俺がこの椅子を消すだけの奴なら、誰かへ声をかけなくてもいい。だが、消したあと自分も座りたいなら、先に確保するものがある。
津村が、俺たちの間へ戻ってきた。線だらけの紙を見たあと、花巻の端末へ目をやる。
「合言葉を知ってるだけで動かせるのか。それとも、最初に教えられた本人だけが動かせるのか」
「知ってればいい」
俺が答えると、花巻は端末へ伸ばした手を止めた。
「人まで確認しないんですか?」
「誰の声かは、賞金を渡すために記録する。でも、教えられた相手だけしか言えないようにはするな。教えることにも使い道を残す」
「教えた相手が、先に言ったら?」
「そいつが消したことになる」
花巻は紙を自分へ向け、同じ線へ2つの丸を足した。最初に知った人と、実際に椅子を消した人。俺の言い方だけでは、また同じ人として記録しそうだったらしい。
「では、知ってる人の名簿は、共通画面へ出しません。どの椅子がなくなったかだけは、全員に分かるようにします」
「それでいい」
津村も頷いた。俺の案へ感心した顔というより、やっと作るものが決まった顔だった。彼は4脚の椅子を一度見て、壁の時計へ目を移す。
「今日は、椅子ごとに合言葉を分けるところだけ試す。4時半には止めるから、残りは次で」
「3脚分、変更できます」
「まず1脚でいい。あと、聞き間違いの確認をするなら、椅子は動かすな」
花巻は返事をして、端末を台へ置いた。別の画面へ切り替えると、さっきまで勝手に動いていた椅子の灯りが消える。津村は背の低い丸椅子を、台の反対側から持ってきた。
「こちらは、喋っても動きません」
「それ、借ります」
俺は丸椅子へ座り、花巻の手元を見た。数字と短い文字が並んだ欄を、彼女が指で追っている。いつもの企画書なら、何を考えているのかはだいたい分かる。今の画面は、触ってみろと言われても、何を変えるのか見当がつかなかった。
「椅子ごとに違う言葉を覚えさせるの、そんなにすぐできるのか?」
「言葉を受けるところは、もう出来ているので。何と比べるかを変えます」
花巻が、1つの欄を示した。
「ここが1番の椅子です。回収までの動きは同じにできます。別の椅子へ命令が入らないように、番号も一緒に言っていただく形なら」
「合言葉を言い間違えたら、どうなる?」
「今のままなら、近い言葉として拾うことがあります。『どいて』と『どけて』は、どちらも動くようにしてました」
「そこは拾うな」
彼女はすぐ入力せず、俺へ顔を向けた。
「たまたま言った言葉と、命令として言った言葉も分けますか?」
「分ける。話の途中で、うっかり椅子を消すゲームにしたいわけじゃない」
初めの俺は、椅子が動くところだけを見ていた。椅子を動かす権利が言葉にあるなら、聞こえることまで勝負になる。だが、誰の声をどこで受け付けるかは、俺が考えただけでは出来上がらない。
花巻は卓上の小さなマイクを、俺の前へ寄せた。
「確認の時は、このボタンを押してから話してください。押している間だけ、命令として受けます。まずは椅子を動かさず、表示だけで合っているか見ます」
「本番でも、こういう窓口を使えばいいな」
「はい。何となく似ている、では受け付けないようにします。参加者の声を、先に確認しておけば」
津村が1脚の箱へ手を入れ、花巻へ端末の向きを変えさせた。俺には分からない部分を、2人が短い言葉で確かめる。彼が説明し終わる前に花巻が次の画面を出し、先走ったところだけ指で戻された。
俺は、自分のペンを紙の上へ置いた。ここで声の受け方まで知っているふりをしても、邪魔にしかならない。
「試します」
花巻が紙の端へ言葉を書いて、俺に見せた。〈1番、すずめ〉。覚えてから紙を戻す。彼女はマイクの前を空け、端末を俺にも見える向きに立てた。
俺はボタンを押し、一度だけ、書いてあったとおりに言った。
画面の1番が、青く光る。
椅子は動かなかった。
「今は、これで正解です」
「それは分かる」
花巻が笑いかけ、堪えた。俺がその顔を見たので、堪えるのをやめた。津村は俺の言ったものが、別の椅子へも入っていないかだけ確かめている。
「次は動かします。1脚だけです」
彼女が紙を鞄へ戻した。津村が枠の前を空け、俺も立つ。今度は椅子へ近づく必要がない。マイクのボタンを押し、同じ言葉を言う。
1番の椅子が動いた。他の3脚は残っている。
壁へ収まるまでを見てから、俺は紙の1番の絵へ線を引いた。合言葉を知っている、というだけだったものが、ここで座れる場所を1つ消した。
面白そうな規則を思いつくことと、規則どおりのものが出来ることは、別だった。
「これ、消したことは全員に分かる。でも、誰が最初から言葉を知ってたかは、まだ分からないんだな」
「はい。元の情報と、使った結果は、別に残せます」
花巻は言いながら、俺の前へ置いた紙を引き寄せた。最初に知った人、命令した人。その2つの丸を別々に指す。
「この間で、何を話したかまでは、装置に決めさせないんですよね」
「そう。そっちは人間にやらせる」
俺が答えると、彼女は頷いた。何かを足すためにではなく、今ついているものを1つ切るために、画面へ指を置く。似た言葉を拾って助ける機能の欄が、灰色になった。
津村が、作業台の端から時刻を書いた紙を取った。4時半まで、もう少しだった。花巻は椅子を元の位置へ戻し、試験用の画面を保存する。俺も新しい規則へ、椅子を戻せないこと、誰でも残った椅子を狙えることを書き足した。
「音楽は、どうしますか?」
花巻が聞いた。俺は紙から顔を上げる。
「今回は、誰かが止める役は要らない。終わる時刻を決めよう。そこまでに、残したい椅子と、座りたい椅子を選ぶ」
「では、前の曲も使えますね」
「……使ってもいいけど、そっちから決めるなよ」
彼女は返事をして、紙の上へ題名を書いた。
〈その席、空けてください〉
最初に3脚の椅子が動いた時と、同じ言葉だった。今度は、その言葉を誰へ言うか、何を譲ってもらうかを考える余地がある。俺は題名の下へ、賞金の条件を足した。
「これなら、もらった言葉を、そのまま使わない奴もいるだろうな」
「誰に教えるかで、取り分が変わりますから」
「教えたのに、使わない奴もいる」
花巻は首を傾げ、そこから先を考え始めた。津村が作業台の灯りを1つ消す。俺たちは同時に時計を見て、ペンを置いた。
花巻が原案と新案を別のファイルへ入れた。椅子を作ったこと自体を、失敗として全部消すつもりはないらしい。津村も、使える部分の番号だけを彼女へ伝え、工具を片づけている。
「今日の試した結果は、部長へ私から説明します。最初の案とは、別になったことも」
「俺の言い方が悪かったことも、言っていいぞ」
彼女が顔を上げる。俺は紙を1枚、自分の鞄へ入れた。
「勝手に椅子を動かせって言ったことにはするなよ」
「言いません。次からは、作る前に聞きます」
「そうしてくれ」
「では、もう1つ聞いてもいいですか」
鞄の口を閉めかけた手が止まった。花巻は、さっき俺が座っていた丸椅子へ目を向けている。
「そちらにも、座った時刻の記録をつけますか? 次の確認に使えるので」
俺は津村を見た。
彼は丸椅子を持ち上げ、自分の机の下へ戻した。
「これは俺の。普通に座る」
花巻は残念そうにしたが、ペンを出すのはやめた。さっきから、俺より早くこいつの手を止めている。そういう人間が社内にいることを知っただけでも、来た甲斐はあった。
受付へ戻る廊下で、花巻は次の確認の日を聞いた。俺は、自分の募集予定を見てから、1日選んだ。作ったものの続きを見るために、会社へ来る予定を入れるのは初めてだった。
「では、椅子はここで用意しておきますね」
「家には持ってくるなよ」
「はい。お話だけなら、こちらへ来ていただかなくても」
それは、そうだった。だが、口で聞いただけでは、どこまで出来てしまうのか分からない。
エレベーターが開いた。俺は先に乗り、階数のボタンを押す。花巻が隣へ来たところで、鞄の控えを少し持ち上げた。
「次は、こっちの紙だけ作れ」
「分かりました」
頷いてから、彼女は顔を上げた。
「念のため、どこまでが、たとえ話ですか?」
扉が閉まるまでに、答え終わらなかった。
────────── ここから付録 ──────────
企画メモ その席 空けてください
花巻の音声移動椅子から、玖城・花巻が考えた別の企画。第4話の『止める理由』へ追加する仕様ではなく、停止係を使わない独立した案とする。動く椅子の実装検討には津村が加わった。
席と情報
6人に6脚の椅子を用意し、1番から6番まで番号をつける。開始時は1人1脚ずつの席を決め、席の対応を全員へ公開する。ただし、その椅子が本人だけに使える権利はない。終了時は誰でも残った椅子を狙える。
椅子ごとに、互いに異なる合言葉を設定する。開始前に公表した12語の候補から6語を選び、各椅子へ1語ずつ割り当てる。候補には普段の退去依頼の言葉を含めない。表記、発音、認識する音の条件は同じ規則で全員へ示す。
参加者1人につき、椅子の番号と正しい合言葉の1組を秘密に教える。6人が知る椅子は重複せず、全ての椅子について1人が知っている。自分の初期席の組合せは本人へ渡さない。誰がどの椅子の情報を持つかは、運営とその本人だけが知る。
会話と撤去命令
交渉時間は10分。残り時間を公開し、終了時刻を後から変えない。参加者は移動して席の位置を見たり、誰かへ話しかけたりできるが、交渉中は着席できない。情報を教える、隠す、別の合言葉を教える、約束を破ることを認める。運営は口約束を強制しない。
撤去は、本人用の命令窓口でボタンを押し、椅子の番号と合言葉を発声して申請する。普通の会話は命令として受けない。開始前に本人の声と窓口の受付を確認する。誰の声かを記録するのは申請者と賞金を確定するためであり、最初に情報を渡された人だけに命令を限定しない。
1人につき命令申請は3回まで、成功は1回まで。正しい組合せを申請すれば、その椅子を回収し、終了まで戻さない。既に撤去された椅子や、誤った組合せへの申請は不成功として回数を消費する。不成功だけで死亡することはない。判定不能な音声は受理せず、回数を消費せず再申請できるが、時間は進む。近い音や発言者の意図を機械が推測して成功に変えない。
命令は受付時刻順に処理する。同じ椅子への正しい命令が同じ判定単位に入った場合は、公開抽選で1人を選んで成功者とし、他の命令は不成功とする。判定単位は事前に示す。誰がどの椅子を撤去したか、全員の残り申請回数と成功の有無は公開する。合言葉や最初の情報配布先は共通画面へ表示しない。聞こえた合言葉を覚える行為は合法だが、撤去済みの席を復活させることはできない。
終了と生死
10分の締切で命令受付を閉じ、受理済みの命令を処理してから、音楽の停止・電子音・灯りで終了を知らせる。その合図から5秒以内に、残った椅子へ座る。1脚は1人分、先に有効な着席を記録した人が獲得する。同じ判定単位の同着はその席の獲得不成立とし、5秒以内なら別の空席へ移れる。音楽を停止する係や、誰が座れないかを予告する役は置かない。
椅子を獲得できた人は首輪を解除し、生還。獲得できなかった人の首輪は作動する。全椅子が撤去された場合は生還者なし。誰も撤去せず全員が1脚ずつ獲得すれば、全員生還となる。開始前の席と違う椅子へ座ってもよい。
椅子を物理的に動かす、壊す、隠す、他人を押すなどの直接妨害は禁止。最終着席中は撤去命令を使えず、獲得済みの椅子から人を降ろすこともできない。試験室の実演では首輪を使わず、椅子の移動と表示だけを確認した。
賞金と使わない選択
生還者へ基本賞金100万円を支払う。さらに、撤去命令を1回成功させ、かつ生還した人へ追加賞金200万円を支払う。情報を最初に持っていた人と、命令を成功させた人が違えば、追加分は実際の成功者のものとなる。成功しても座れなければ支払わない。
人の椅子を消せば賞金へ近づくが、自分も使えた席が1つなくなる。知っている合言葉を渡せば、受け取った人が先に使い、追加賞金を取ることもある。その人が使うと約束して使わず、自分の座りたい場所を残すこともある。情報の所有と使用、初期席と帰還する席を分けて考える。
企画書の余白
〈誰の声を聞くか〉
花巻の字の横へ、玖城が短い一行を足している。
〈何の約束を信じるかは、人間に残す〉
試作報告 言葉でどかせる椅子取り
担当:花巻こはる。技術確認:津村修平。
発端:第4話の玖城の助言「押し退けるのは禁止。言葉でどかせるのはいい」。人への説得を、椅子への音声命令として実装した。
試作品:4脚の空席が、退去依頼の言葉を受けると壁際の回収枠へ移動する。着席中は移動しない。似た退去表現も受け付ける。首輪は使わず、動作と表示の確認のみ。本番未開催。
確認結果:2人で準備した際の「いったん席を空けてください」で、音楽開始前に全椅子を回収。玖城への実演では、音声受付を1脚だけ有効にしており、花巻へ向けた「どいてくれ」でその空席が移動した。その後、花巻が4脚の受付を有効にし、説明に含まれた退去依頼で、玖城が座っていない残り3脚も回収された。
担当者の所見:「指示されたとおり、言葉で椅子を動かせました。作る前に、たとえ話かどうかも確認します」
上司の意見:「椅子は言うことを聞いています。参加者が何を聞き、何を考えるかも作ってください」




