滅び渇望
結論から言えば、最高でした。
初体験というだけでも夢のような経験だっただろうに、長い間現役を離れていたとはいえ、かつて領内随一と謳われたプロの遊女が、至れり尽くせりのもてなしをしてくれたのだ。
本当に夢見心地の一夜だった。
『あの記憶』さえ忘れてしまうほどに。
ただ、一つだけ予想外だったことがあるとすれば……。
「まあ。本当に初めてだったんですか? 花魁としての自尊心が、少し傷つきそうですわ」
「私も、自分があんなふうになるとは思いませんでした」
「ふふっ。次は負けませんからね」
その最高のプロに勝ってしまったのだ。
この肉体、思っていた以上に絶倫だったらしい。
もちろん、最初のうちは彼女に振り回されてばかりだった。だが、次第に慣れてきて、夜が更けていくうちに、タイラのほうが先に疲れ果ててしまったのだ。
「え……次、ですか? 次もお相手していただけるんですか?」
寝起きのせいか、少し間の抜けた質問をする私を見つめていたタイラは、
「ふふっ! もちろんですわ。まさか、主人様は一晩だけで満足なさったんですか? もう必要ありませんか?」
艶やかに微笑みながら、まだ何も身につけていない身体で私の胸に飛び込んできた。
『主人様……? そういえば、夢中になっているときに、そう呼ぶことにしたんでしたっけ? 興奮しすぎて、よく覚えていませんが』
たった一晩ですっかり馴染んでしまった仕草でタイラを抱き留め、彼女を見下ろした。
「自尊心が傷ついたとおっしゃっていませんでしたか?」
「だからこそ、次は雪辱を果たすと申しているので・す・わ―♪」
指先で私の鼻を可愛らしくつつきながらそう告げるタイラの顔には、愛情に満ちた笑みが浮かんでいた。
「次、ですか。次からは揚代をお支払いしたほうがよろしいでしょうか? ははっ」
「いいえ。そんな水臭いことをおっしゃらないでください」
半ば冗談のつもりだったが、タイラの表情は真剣だった。
「主人様は、私と娘を絶望から救ってくださったお方です。何の意味もなく、主人様とお呼びすることをお許しいただいたわけではありませんもの。これから先、一生お金をいただくつもりはありませんわ。むしろ、お金よりも価値のあるもので、私を身請けしてくださったのですから。主人様がお望みなら、私はいつでもこの身を捧げますわ」
タイラの熱烈な告白に、私は何とも気恥ずかしい気分になった。
それと同時に、再び欲望が頭をもたげてきた。
私は黙って彼女の豊かな胸に手を伸ばした。
彼女は止めるどころか、微笑みながら私の首に腕を回し、私が触れやすいように身体の向きを変えてくれた。
「今すぐでも、よろしいですか?」
「はい! 今度こそ、私の本領をお見せいたしますわ」
結局、私がタイラの家を出たのは、昼を過ぎてからだった。
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リシは、たいそう機嫌がよかった。
最近になって、遅ればせながらマナに覚醒したからだ。
それだけではない。
もともと備わっていた能力なのか、覚醒と同時に授かったものなのかはわからないが、ある能力も一緒に目覚めていた。
ただし、この事実は誰にも話していなかった。
リシの覚醒が世間に知られれば、「十五歳までにマナに覚醒しなければ、一生ただの一般人」という常識が覆されることになる。
世界中が大混乱に陥るのは必至だろう。
だが、リシが口をつぐんでいたのは、そんな混乱を避けるためなどという大層な理由からではなかった。
死に物狂いで努力し、遅れて覚醒を成し遂げたのは、ひとえに一人の男のためだったからだ。
だからこそ、この喜びを一刻も早く彼と分かち合いたかった。
しかし、いざ久しぶりにその相手と顔を合わせると、戸惑わずにはいられなかった。
「マサカオ……さん?」
「ああ、リシさん」
幸せそうな表情の奥に、暗い影が差していた。
口元はにこにこと笑っているのに、目は死んでいる。
その死んだ目で自分の身体を舐め回すように見つめる視線に、リシは鳥肌が立つほどの強い嫌悪感を覚えた。
そして何よりも……。
「キラキラ……してない?」
「え? キラキラ……?」
「あ、何でもありません!」
『そんなはずない!』
リシは必死に否定した。
自分が恋をした男。
彼の奴隷にでもなりたい一心で努力を重ねてきた、この一か月余り。
その間にマサカオへの想いは募る一方だったのだ。彼に嫌悪感を抱くはずなどなかった。
彼から欲望を剥き出しにした視線を向けられれば、むしろ喜んで当然のはずだ。
たかが彼の『キラキラ』が見えなくなったくらいで、心変わりするはずが……。
「ところで、リシさん」
「ひいっ!」
何事もなかったかのように自分を呼びながら近づいてくるマサカオに、リシは思わず息を呑んだ。
彼が近づいてくるにつれ、リシの身体は小刻みに震え始めた。
その感情が喜びでないことは、明らかだった。
「もしかして、私のことが好きだったのではありませんか?」
『バレ……た?!』
自分の想いを見抜かれたリシの顔に浮かんだのは、恥じらいではなく、困惑と不安だった。
「それなら、私と一緒にどこかへ……」
――サッ!
許しも得ず、無遠慮に肩へ腕を回そうとしてきたマサカオから、リシは慌てて身を引いた。
「あ、あの! 今のマサカオさん、私の知っているマサカオさんじゃないみたいです! 何かあったんですか?」
人間の精神を直接、意のままに操る禁断の魔法を受けた形跡は見られなかった。
そもそも、ありふれた精神干渉魔法とは違い、精神操作魔法はB級にとってさえ難しい魔法だ。その可能性も低かった。
行き場を失ったマサカオの腕が、力なく垂れ下がった。
その顔には、ありとあらゆる負の感情が浮かんでいた。
「申し訳ありません」
それでも最後には、力なく笑って謝罪の言葉を口にした。
そんな彼を見て、リシの眼差しが深く沈んだ。
「ごめんなさい。お力になれなくて」
リシは最近、人の可能性を見通せるようになっていた。
「私では駄目なんです。それに、ギルドの……いいえ、バザールの誰も、今のマサカオさんの力にはなれません」
そして、その人の可能性を最大限に引き出すため、自分が何をすべきなのかも自然とわかるようになっていた。
「リシさん?」
しかし、だからこそ。
この瞬間、リシはマサカオに背を向けた。
リシにわかるのは、自分自身が何をすべきかということだけだった。
自分では力になれない状況では、相手が何をすべきなのか、誰を訪ねるべきなのか、まったくわからない。
それこそが、覚醒したリシに授けられた『女神の恩恵』だった。
「待っています。どうか、マサカオさんがご自分の光を取り戻せますように」
リシはマサカオに悲しげな声だけを残し、アリスとミアに断りを入れて早退した。
覚醒を果たしてなお、彼女はまだ弱かった。
「振られちゃったんだ?」
アリスが意地悪そうな顔で尋ねてきた。
笑ってはいたものの、リシが立ち去った後、その後を追うようにやって来た私を見るアリスの眼差しは、以前よりどこか乾いていた。
「そうみたいですね」
「あらら、どーすんの? リシちゃんのいないマサカオハーレムとか、マジつまんなそ―。あたしもそろそろ、あんたへの興味なくしちゃおっかな―♪」
「……アリスさんも、私のことを本気で好きだったわけではないんですか?」
「さあ、ど―だろね~? あたしって基本、面白いかどうかで動くタイプだし? あんたが一番面白そうだったってだけなんだよね―」
『そうか。それなら、この女はむしろ、うまく口説けば可能性がありそう』
「お金には、ご興味ありませんか?」
「え―っ! 一般人の女子に一番効くお金で釣ろうとか、マジ? そこまでしてあたしと付き合いたいわけ? なんか、女としての自信ついちゃうんですけど……」
「一晩、いくらくらいならよろしいでしょうか? この辺りの相場をよく知らないもので」
「……は?」
一瞬にして、その場の空気が凍りついた。
「……あんた今、あたしのこと娼婦扱いした?」
「え……そんなに気を悪くすることもないでしょう。あれも立派な職業の一つで……」
――パァン!
瞬間、頬が熱くなり、目の前に星が飛び散った。星しか……見えなかった。
「そだね。命懸けの仕事が多い冒険者とか傭兵の欲求を満たしてくれる、なくてはならない大事な職業だよね。でもさ、人によって価値観って違うじゃん? 親の形見だって、もっと役立ててくれる人に譲りたいって思う人もいれば、あたしみたいに、めちゃ大事だから他人に触られるのすら嫌って人もいるわけ」
アリスが冷たい声で正論を述べた。
前々から思っていたことだが、軽薄な振る舞いのわりに、彼女はなかなかの常識人だった。
――グイッ。
そんな彼女が、私の胸倉をつかんで引き寄せた。
目が合うと、そこには怒りが冷たく燃えていた。
「そんなの、あんたが知らないわけなくない? 出張先で何かあった? こんな安っぽい挑発して、誰かに自分をぶん殴ってほしがるとかさ。自分のせいで仲間を全員失って帰ってきた冒険者と、マジでそっくりなんだけど。……で? 望みどおり殴ってあげたけど、少しはスッキリした?」
『そして、やはりこの女性は洞察力に優れていますね』
もちろん、今のはアリス個人の洞察力というより、受付嬢としての経験が大きかったのだろう。
それでも彼女は、私の状態と行動の意図を、瞬く間に見抜いてしまった。
「話したくありません」
「何を? 何があったかってこと? それとも、殴られてスッキリしたかどうか?」
「……両方です」
頬を叩かれた瞬間は、目の前に星が飛んだせいか、しばらく忘れることができた。
だが、痛みが引いてくると、私の売った斧が人間を次々と殺していく光景が、再び残像のようにちらつき始めた。
一度頬を叩かれた程度では効果がなかった。
だから、すっきりなどしていない。
「……ちっ」
そんな私の内心さえ見抜いたのか、アリスは舌打ちをして私を解放すると、少しだけ口調を和らげて言った。
「悪いけどさ、受付嬢って冒険者のトラウマを治すためにいるわけじゃないんだよね。それでも、あんたがあたしをガッカリさせなきゃ、何とかしてあげようとは思ってたよ。でもさ、事情があるからって他人に失礼なことするバカにまで優しくできるほど、あたし聖人じゃないし。自分のことは自分で何とかしてから戻ってきな。そしたら今回のことはなかったことにして、また前みたいに接してあげるから」
そう言い終えると、アリスはもう私と一切関わるつもりはないと言わんばかりに自分の席へ戻った。
そして、こちらには目もくれず、仕事を再開した。
『まあ、いい』
しかし、私はまだ正気を取り戻せず、次の女性を物色し始めていた。
――じいいいいい。
『ハムミア……何だか、ずいぶん久しぶりに見る気がするね』
もちろん、出張から帰ってきたばかりの私にとって、このギルドの人々は皆、久しぶりに会う相手だ。
だが、ミアについては、より一層久しぶりに感じられた。
そのミアは相変わらずハムスターのような顔をして、なぜか私のことをじっと見つめていた。
「お久しぶりです。ハムミアさん」
ついでなので、私が勝手につけたあだ名で堂々と呼んでみた。
「じいいいい―」
『それを口に出して言っている?』
性の快楽や暴力の痛みで嫌な記憶から目を背けたくて、目につく女性を片っ端から口説こうとしていたのだが、ミアの様子を見ていると、急にやる気が萎えてしまった。
『いや、むしろいいことじゃ?』
あの記憶は相変わらず鮮明だった。
それなのに、理由もわからないまま、ほんの一瞬だけ気分が楽になったような気がした。
「あの……」
「ご主人様!」
そこでミアに何か話しかけようと口を開いた瞬間、受付カウンターのほうからウスキの声が聞こえてきた。
「おっ! ウスキさんじゃん! おっかえり―!」
アリスが歓迎の挨拶を投げかける。
だが、ウスキは聞こえなかったかのように、行儀悪くも受付カウンターをひらりと飛び越え、そのまま私の前に立った。
「うわ、マジ重症なんだけど……」
「ご命令いただいた仕事、無事に完了して戻ってまいりました!」
無視されたアリスの文句さえ聞き流し、ウスキは目をキラキラと輝かせながら、褒めてもらえるのを待っていた。
私はそんな彼女を、黙って上から下まで眺めた。
『人々からロリコンだと罵られれば、少しは忘れられるだろうか?』
恐ろしい考えが浮かんだ。
そして、私はそれを否定しなかった。
「ご主人様?」
「少し来てくれ」
私は強引にウスキの腕をつかみ、引っ張った。
「あ、はい!」
事情もわからないまま、素直についてくるウスキ。
私は、自分をさらに破滅へと追い込むような考えを抱いていた。
『ロリコンで親子丼……最高で最悪だろ!』
刺激。
トラウマを忘れさせてくれる強烈な刺激。
私はただ、それだけを求めていた。
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「結局、来てしまいましたわね。どうしてかしら?」
一人の女性がパインギルドの前で足を止め、ぽつりと呟いた。
「あなたには理由がわかって?」
いや、誰かと会話をしていた。
ただし、他の人が見れば、二人の間に会話が成立しているとは到底思えないだろう。
「き、危険です! 早くお逃げください! 我々バザール警備隊が、あのモンスターを食い止めている間に……!」
いや、女性が話しかけている相手は、その存在自体が、他人には到底受け入れがたいものだった。
「あら。お気遣いと勇気に感謝いたしますわ。それに、予告なしにやって来た私とほぼ同時にこちらへ到着なさるなんて、バザールの治安維持能力には感服いたしました。私がここで考え事をしている間も、万が一に備えて私とペットをお守りくださったことにも、たいそう感激しておりますの。もう結構ですから、さっさとお戻りになってご自分のお仕事をなさってくださいませ。参りましょう、ゴゴゴンちゃん」
ちなみに、今の言葉を翻訳すると、こうなる。
『私が領内に無断侵入して目的地に到着するまで、あなた方は何をしていたのですか? しかも、到着してからもずっと見ていたのでしょう? ゴゴゴンちゃんはおとなしく立っていただけなのに、一体何を見ていたのです? さっさと失せなさい』
という意味だった。
彼女――ドー・シェパーチは、パインギルドへと足を踏み入れた。
「ふうむ。私、直感なんてあまり信じないほうなのですけれど……今日は何かが違う気がしますわね」
「ゴゴ?」
「マサカオが帰ってきましたわ。なぜだか、そんな確信がありますの」
昨夜見た、思い出せない夢を追いかけて。




