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敗者

アゴラで適当に一夜を明かし、ウスキに背負われてバザールへ戻る途中。


私は小柄な少女の背中におぶさり、みっともなく顔を埋めていた。


ひと眠りしたところで、敗北感も憂鬱な気分も消えてはくれなかった。


頭の中では、昨日の出来事が何度も何度も繰り返されている。


アゴラ伯爵の天幕を出てすぐに目にした戦闘。


目の前で遭遇したわけではない。

ずっと遠く、軍陣の外縁で起きていた戦いだった。

それなのに私には、まるで手の届くほど近くで行われているように感じられた。


そして、その戦場で見つけたオーク製の斧。

私が売った戦斧が、人間の首を斬り裂く光景が網膜にこびりついて離れない。


私は顔を上げた。

目を閉じていると、あの光景がますます鮮明になっていく気がしたからだ。何か別の景色を目に焼きつけて、上から塗り潰してしまいたかった。


空には、数え切れないほどの星と天の川が広がっていた。


「……」


星は剣と槍がぶつかって散る火花。

天の川は、斬り裂かれた身体から流れ出る血の河。


無茶苦茶だ。


『駄目だ。何を見ても、考えがそっちに引っ張られてる』


あんなに美しい景色を見ても、私は無理やり凄惨な光景に結びつけてしまっていた。


そもそも、交渉に失敗すること自体は珍しくない。


準備が足りなかったから。

条件が気に入らなかったから。

言葉を間違えたから。

相手か私のどちらかが、くだらない意地を張ったから……。


交渉というものは、そんな些細な理由で呆気ないほど簡単に決裂する。


『なのに、どうして私はこんなに敗北感を抱いてるんだ?』


敗北感。


日本にいた頃にも何度となく交渉に失敗してきたが、こんな感情を覚えたことはなかった。


理由は何だ。


必死に目を背けているだけで、本当は答えなど分かりきっていた。


『利用されたんだ。二人ともに。馬鹿みたいに!』


伯爵の前で、私は何と言った?『馬鹿にはなりたくありません』なんて、得意げにほざいていたか?


二人の貴族の間で、私は馬鹿にすらなれなかった。


ただの駒だった。


自分では一歩も動けない無機物。


指し手の思うままに動かされ、盤上を引きずり回されるだけの遊戯道具。


アゴラ伯爵の望むままに動き、マケット子爵に取られたと思えば、今度はマケット子爵の都合の

いいように使われる。


まさしく、ただの将棋の駒だった。


「ご主人様。もうすぐ着きますよ」


ウスキが控えめに報告した。


「見つからないように、こっそり入ろう」


「はい」


魔法で姿を覆い、他人から見えなくなった私たちは、そのままウスキの脚力で城壁をひと息に飛び越えた。


バザール領に入ってしまえば、パインギルドまではすぐだった。


私は影の落ちた寮の正面玄関へ、そのまま入ろうとして足を止めた。


『はぁ……それでも、やるべきことはやらないとな』


今も幻のように目から離れないオーク製の斧。

私がどう感じようが、取引自体は問題なく進めなければならない。


私は後ろからついてこようとしていたウスキへ振り返った。


「ウスキ。悪いけど、やってもらいたいことがある」


「はい。何でもおっしゃってください」


「この肉を持って……」


そう言いながら、私は交渉準備ショップでキリゲーターの餌をいくつか購入した。


『できるのか?……できなかったら、もう全部ひっくり返してやる』


そしてインベントリに現れた肉塊を、インベントリごとウスキへ譲渡しようと試みた。


できるという事前情報があったわけでもない。


むしろ、できなければいいと思って試したのかもしれない。この鬱憤を、どこでもいいから滅茶苦茶にぶちまけたかったのだと思う。


だが――。


「えっ?何か来ました!ええと…ご主人様から支給された品物があります…って?」


『できるのかよ……!このガイド、肝心な私に教えてない隠し機能があといくつあるんだ!くそっ!』


苦い敗北を味わった直後になって初めて知った機能が、これでもう二つだ。


普段から何か道具を使う時は、説明書に書いてある用途通りにしか使わない私にとって、こういう機能説明の不親切なツールは本当に相性が悪い。


「私がインベントリって呼んでる、魔法の鞄みたいなものだよ。中には大きな肉の塊がいくつか入ってる。それを持って戻って……」


私は目的地とやるべきこと、それからインベントリから物を取り出す方法を、淡々と説明した。


「はいっ! ご命令、必ず完遂してまいります!」


ウスキは、わざとらしいほど元気よく返事をした。

たぶん、沈んでいる私を励まそうとしているのだろう。


「うん……気をつけて行っておいで」


私は力なく答え、そのまま背を向けて歩き出した。


「……ご、ご主人様!」


ウスキが、何かを決心したような切羽詰まった声で私を呼び止めた。


「なに?」


振り返ると、


「私、引っ越したんです! 寮に新しく作った四階へ! ぜ、ぜひ先に私の家へ寄っていってください!」


「新しく作った……四階?」


もともと寮は三階建てだったはずだ。


私は寮を見上げた。


「……何だ、あれ?」


呆れることに、寮の4階には、建物全体の半分ほどの長さの建物が、道の方向にせり出していた。


それ以外に説明のしようがない。


寮の上に半分だけ載ったその建物は、道路側には柱一本ないまま、宙に浮いていたのだから。


そして今になってようやく気づいた。


私が立っているこの日陰は、その建物が作っている影だった。


寮の前はかなり広い道で、しかも時間は正午に近い。


本来なら、こんな場所に影ができる時間ではない。


『こんなことにも気づかないくらい、私は落ち込んでたのか……』


「自分で作ったの? 魔法で?」


「はい」


『建築魔法は、建物の形による荷重バランスの問題をなかったことにする……って、知識としては知ってたけど。実物を見ると滅茶苦茶だな』


アゴラで魔法に頼らない建築工学の美しさを再確認してきたばかりだというのに、ウスキは魔法

を使って一か月もしないうちに、とんでもない形の家を建ててしまったらしい。


「四階は全部、一軒の家にしたんです。私、ちょっと欲張ってしまって……」


「それで、自分で作った家を私に見せたかったの?」


「あ、はい。それと……できれば、ご主人様にも一緒に住んでほしくて……」


後半はウスキが身体をぐずぐずさせながら、独り言のように小さな声で呟いたので聞き取れなかった。


「うん? 何て? ごめん、小さくて聞こえなかった」


「な、何でもありません! どうせ行ってみれば、きっとご主人様も……と、とにかく! 家を見ていただきたいですし、プレゼントも用意してありますから! 絶対に寄ってくださいね!」


聞き返すと、ウスキは真っ赤になった顔を上げ、独り言の続きを誤魔化すようにまくし立てた。


「プレゼント? 何の?」


「それは行けばすぐ分かります! では、行ってまいります!」


「え? あ、うん。行ってらっしゃい」


何をそんなに恥ずかしがっているのか、自分の言いたいことだけ言い終えると、ウスキはくるり

と背を向けて走り出した。

私は少し面食らいながらも、お使いへ向かう少女の背中へ手を振った。


『あそこまで言われたんだ。行ってみるか』


正直、このまま何かをする気分ではなかった。


けれど、私に何かを頼むこと自体ほとんどないウスキが、珍しく必死になってお願いしてきたのだ。聞いてやることにしよう。


もちろん、おんぶしてほしいとか、スキちゃんと呼んでほしいとか、そういう甘えたお願いは除いての話だが。


『あ。そういえばアゴラへ発つ前に、アラウネの汁を欲しがってたこともあったな。それ以来のお願いなら、これが二度目か? あのアラウネの汁、何に使ったんだろう』


そんなことを考えながら、私はウスキに言われた通り四階へ続く階段を上っていった。


本来なら三階で終わるはずだった階段は、確かにもう一階分、上へ延びている。


階段を上りきると、廊下ではなく、片側に大きな扉がすぐ見えた。


玄関ポーチのようになっている扉の前の空間はかなり広かったが、反対側は壁で塞がれている。


まるで、この四階はこの一軒のためだけに存在しているのだと主張しているようだった。

『……でも、鍵とかないのか? ウスキがいくらそそっかしくても、そこまで忘れる子じゃないし。もしかして、普通に開くのか?』


扉の前まで来て初めて、鍵がかかっているのではないかと思い至ったものの、とりあえず取っ手に手を掛けてみた。


――カチャ。ギィ……。


扉は何の抵抗もなく開いた。


『戸締まりくらいちゃんとするように言わないと……』


心の中でウスキのうっかり度を一段階引き上げようとして――私は目の前の光景に固まった。


「いらっしゃいませ、お客様。お待ちしておりました」


立派に整えられた玄関で、布面積の少ない艶めかしい服に身を包んだ女性――タイラが、慎ましやかに頭を下げて私を出迎えていたからだ。


「ウスキのお母さん?」


「タイラとお呼びください」


膝をついたまま、柔らかく微笑んで私を見上げるタイラは、健康を取り戻したせいか、以前会った時よりもずっと生き生きとして見えた。

二十代の頃に外見固定の呪いを受けたからか、確かにリシやアリスよりも若く見える。

それでも、全身から漂う濃密な雰囲気のせいで、むしろ成熟した女性という印象のほうが強かった。


「あ、はい。タイラさん。すみません。ウスキが入っていいと言っていたので……タイラさんがいらっしゃるとは思っていませんでした。失礼しました」


「ふふっ。私は構いませんから、遠慮なさらずお入りください」


そう言って優雅に立ち上がったタイラさんは、まるで旅館で客を迎える女将のように腰を折り、私を中へ招き入れた。もし彼女が着ている服が着物だったなら、本当に旅館へ来たと錯覚していたかもしれない。


もっとも、今タイラが着ている服は、それとは別方向の勘違いを誘う代物だったが。


これに何か意図があるのか。それともタイラは普段から家でこんな服を好んで着ているのか。

判断がつかなかった私は、気まずそうに視線を逸らし、何とか家の中へ意識を向ける。


「……おお」


ところが、その家の造りが予想以上に興味深かった。


全体的な印象を言えば、中世西洋の裕福な家と、少し不格好な日本式木造住宅が奇妙な具合に溶け合っている。


たとえば玄関から続く廊下。

床には平らに美しく磨かれた石材を敷いている一方で、壁や天井には染料を塗った木材を使い、明るく温かみのある雰囲気に仕上げていた。


そして案内された部屋には、なんと畳まで敷かれている。

材料も少し違うし、形もどこか不格好だった。

けれど不快ではなく、むしろ微笑ましいくらいだった。


以前ウスキと雑談していた時、ナパズ帝国の様式だと適当に誤魔化しながら畳について説明したことがある。

どうやら、それをしっかり覚えていて、自分なりに再現してみたらしい。


『タイラさんが真っ先にここへ案内したことを考えても……やっぱり私のために用意した部屋なのか』


私に対するウスキの、忠誠を通り越した敬愛ぶりを考えれば、自意識過剰というわけでもないだろう。


もっとも、床が畳なだけで、部屋の雰囲気そのものは日本式とはほど遠かった。

分厚い布団ではなくベッドが置かれているし、こたつもない。


――カチャ……。


しばらく部屋を眺めていると、背後で扉が開く音がした。


「あ、タイラさん。この部屋、なんだか可愛らしい感じで……?」


「お待たせいたしました、お客様」


振り返ると、タイラは何も持たずに戻ってきていて、意味ありげな微笑みを浮かべていた。


『お茶でも用意しに行ったんじゃ……?』


「ちょっと、おさらいをしてきたんです。お客様をお迎えするなんて本当に久しぶりですから、少し緊張してしまって」


私の疑問を読んだかのように答えるタイラ。

彼女は艶めいた仕草で、ゆっくりと私へ近づいてくる。


「あ、あの……これは、どういう……?」


「あら。ウスキから何も聞かずにいらしたんですか? ごめんなさいね。あの子、ちょっとそそっかしいところがありますから」


謝りながらも、タイラは歩みを止めない。


「……そういうことなんですか?」


「そういうことです」


もう私のすぐ目の前までやって来たタイラとの、少し間の抜けたやり取りを経て、私はようやく状況を完全に理解した。


ウスキが用意したプレゼントが何だったのかを。


『セックスか……気持ちいいんだろうな。今のこの気分を忘れられるくらいには』


この世界へ来て初めて味わった敗北感。


古今東西、戦場から帰ってきた男というものは、勝者であれ敗者であれ、結局は女の身体に慰めを求めてきた。


私は少し間違った期待を抱きながら、タイラに促されるまま、ベッドへ倒れ込むように身を投げた。

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