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愚か

「ほう。馬鹿げた要求を持ち出して交渉を始めた貴様が、それを言うのか?」


私の返答に、伯爵は興味を示した。


ただし、期待を抱いたというよりは、愚か者が繰り広げる珍妙な愚行を観察するような目だった。


「……ウスキ。出てきて」


「はい、主様」


わざわざ隠れているよう命じておきながら、それを覆した私の指示にも何ひとつ疑問を抱かず、ウスキは恭しく姿を現すと、私を守るように前へ立った。


「……なるほど。まったく保険がなかったわけではない、ということか」


伯爵はそう言いながら、自分の護衛たちを鋭く見回した。


その視線を受けた者は、ことごとくびくりと身を震わせる。


だが、とんだとばっちりだ。


「ウスキはB級です。もちろん戦時中ですから、B級への対策もある程度は用意されているのでしょうが……あまり話を難しくなさらないと信じています」


ウスキの侵入に気づけなかった時点で、少なくともこの場にはウスキと同格のB級はいないという証拠でもあった。


「それは貴様がこれから何を言うか次第だ」


もっともな返答だった。


伯爵は動揺してもおかしくない状況にもかかわらず、落ち着き払って冷静に応じている。


だが、それも強がりに近い。


ウスキの実力を知った以上、私がよほど怒らせでもしない限り、これ以上強硬な手段には出にくいはずだ。


『少し強気に行こう』


交渉ガイドから、はっきりと見込みがないと告げられた状況だ。


悠長に相手の出方を窺っている場合ではない。


「実は伯爵様の傘下にある商会の会長執務室で、ある機密文書を盗み見てきました。いえ、盗み見たというのは適切ではありませんね。ただ見ただけです」


私が言い終えたその瞬間、案の定、伯爵の眉がわずかに動いた。


ほんの一瞬だったが。


「……それで、その無礼極まりない真似をして何か得るものはあったのか? 商会とやり取りする書簡はすべて、私が考案した独自の暗号で記してあるのだが」


慎重な伯爵は、無駄骨だったと嘲笑する代わりに、遠回しに『解読できたのか』と尋ねていた。


それと同時に、私の行為を無礼だと指摘して立場を悪くしようとすることも忘れていない。


『やっぱり簡単じゃないな』


これほど慎重な性格なのだ。


戦争などという大きなリスクを伴う決断を、軽々しく下したはずもない。


「はい。私は、そういうものが少々得意なんです。おかげで、この戦争が起きた本当の理由も分かりました」


私はふと、見当違いの方向へ視線を向けながら答えた。


アゴラへ続く巨大な水道橋、その起点がある方角。


この戦争の真意を知る者にしか気づけない、無言の批判だった。


「面白い。実に卓越した能力だ。それに、自らの身を守る手段があると示した直後、今度は私の弱みを見抜いたと大胆に告白するとは。交渉の主導権を握る術を少しは心得ているようだな。どうだ、私に雇われるつもりはないか?」


伯爵が私に向ける興味の意味が変わった。


「そのつもりはありませんが……もし私が伯爵様に雇われると申し上げれば、戦争を止めていただけますか?」


「それはできん」


伯爵は一瞬たりとも迷わず、即座に首を横に振った。


「そうですか」


そうだろうとは思っていたので、失望はしなかった。


私が切れる手札のうち、まだ一枚を見せただけだ。


これだけで止まる程度の戦争なら、交渉ガイドも不可能などとは言わなかっただろう。


私はすぐに次の一手を打った。


「実は、マケット子爵とはすでに面会し、話をしてきました」


「はっ! ますます図々しくなったものだな。戦時中の軍を率いる総司令官を前にして、敵と通じてきたと自白するつもりか?」


そう言いながら、伯爵はちらりとウスキを見る。


ウスキの様子を窺っているのではない。


何かを測っているような目だった。


その動作の意味は、やはりB級への対策を用意していて、それを使えば自分側の被害をどこまで抑えてウスキを制圧できるか、計算しているのだろう。


『隙を与えちゃ駄目だ!』


「お聞きください。私はマケット子爵と、ある契約を結んできました。交易についての交渉です。品目は、伯爵様もご想像のとおり木でした。ただし、加工済みの木材ではなく、生きた木を持ってくれば買い取る、という話でした。その目的がお分かりになりますか?」


「やはりマケットの奴は、あの山を諦めきれていないということではないか。だからこの戦争を――」


「いいえ。違います」


私は先ほど見ていた水道橋とは反対の方向を指さした。


マケット子爵領を抜けた先に、広大な平原が広がっている方角だ。


「子爵は、あちらの平原に植えるために木を求めていたんです。伯爵様の手に落ちたあの山はとうに諦め、新たな生態系を作り上げようとしているのです」


伯爵の目が細くなった。


「貴様は、マケットの奴を信じているのか?」


「え?」


唐突な質問だった。


『マケット子爵を信じているのかって?』


自分の欲望のために戦争を起こしたくせに、今さらマケット子爵こそ本当に悪人なのだと主張するつもりなのだろうか。


もちろん、自ら戦争を始めておきながら責任だけは回避しようという浅はかな試みだろうから、無視しても構わない。


問題なのは、伯爵の雰囲気だった。


アゴラ伯爵は、本心からマケット子爵に対して憎悪――あるいは嫌悪を抱いている。


『……それは後で考えよう。今は戦争を止めるのが先だ』


伯爵の感情が誤解から生まれたものだろうと、それなりに正当な理由があるのだろうと、戦争が始まってしまえば取り返しがつかない。


「合理的に考えて、疑う理由はないと判断しました。子爵には伯爵様と正面から戦えるだけの兵力が足りません。大義名分がどうであれ、伯爵様が起こしたこの戦争の目的が、あの山に建てられた水道橋の存続を保証することなのであれば、山を喜んで譲り渡して戦争を避け、そのうえで別の土地に森を作るという考えは、十分に合理的でしょう」


「……続けろ」


その瞬間、伯爵が嘲笑ったような気がした。


『……気にはなるけど、どうせ今回の説得も失敗だ。すぐ次の手を!』


本当は、この材料まで使いたくはなかった。


だが伯爵がマケット子爵を信じるのかと尋ねてきてから、どうにも雰囲気がおかしい。


仕方なく、今ここで切ることにした。


「……伯爵様。勇者をお探しですよね?」


アゴラ伯爵に限らず、野心を抱く貴族は皆、勇者を探し求めることに躍起になっている。


「……ほう?」


そしてついに、伯爵が食いついた。


私自身への興味ではなく、私がこれから話す内容そのものに対する興味を、初めて引き出したのだ。


「勇者についての話なら、あの時、屋敷ですべて済ませたのではなかったか? あの時はマケットの奴についても話したはずだが」


『……なんでまた急に子爵の話が出てくるんだ?』


よほどマケット子爵が嫌いらしい。


ともかく、私がアルバス……いや、あのアゴラ伯爵を騙っていた男について知っていることは、確かにあの時すべて話していた。


『最初の頃なら、知識もなければ手札もなかったんだから仕方ない。でも今は、それなりに準備してきたものもあるのに……』


ここから先に話すことは、すべてはったりだ。


結局また、欺瞞と詐術で交渉を成立させようとしている。


「実は、あの勇者ではないかと疑っている人物について、まだお話ししていないことが――」


その時だった。


「敵襲だ!」


「夜襲だ! マケット軍が攻めてきたぞォッ!!」


私の言葉を遮るように、外からいくつもの叫び声が響き、たちまち周囲が騒然となった。


「え? 敵襲? マケット軍?」


「来たか。予想通りだ。野蛮人くせに、民のことを気遣っているふりなどしているとはな。」


伯爵が立ち上がりながら呟いた。


「……え?」


私が呆然としている間にも、私たちを警戒していた護衛たちは、まるで初めから予定されていたかのように持ち場へ戻り、急変した戦況に応じた任務を開始していた。


伯爵の背後にいた護衛は装備を整える手伝いを始め、入口を守っていた二人は天幕の外を警戒しながら、中へ通してよい者を選別している。


――ガチャッ! ガチャッ!


素早く鎧と武器を身につけた伯爵が、金属同士のぶつかる音を鳴らしながら近づいてきた。


「私はあの時、屋敷ではっきり言ったはずだ。それなのに貴様はわざわざ子爵のもとまで出向き、奴にたぶらかされて戻ってきたというわけか。それとも、私の話など初めからろくに聞いていなかったのか? 期待などしていなかったが、それにしても失望したぞ」


そう言い残して伯爵が私の横を通り過ぎたところで、ようやく思い出した。


『マケットのあの野蛮人は、野蛮だからこそ軍事力だけは高い』


確かに、そう言っていた。


もちろん、それだけでは曖昧な話だった。


マケットの軍事力が高いと言われても、どれほど高いのかまでは印象に残らなかったからだ。


だが、戦争の準備を進めていた伯爵が、敵対する領地について『軍事力が高い』と率直に評価していたこと自体が、マケットの軍事力がアゴラと拮抗しているという示唆だったのだ。


では、それが私にとって何の問題になる?


戦争を止められなかったことはさておき、私にとって何を意味する?


『負けたんだ。私が。マケット子爵にも、アゴラ伯爵にも』


考えてみれば、交渉ガイドはアゴラ伯爵との交渉について失敗を告げていた。


そしてマケット子爵との交渉では……。


『そういえば、確認したことがなかったな。これ、過去の交渉記録みたいなものはないのか?』


「有効契約一覧


•有期契約


カルロス金銭契約(支払い完了)


ペリウス金銭契約(支払い完了)


……


ネゴ商会財産譲渡契約(履行完了)


•無期契約


マルコス雇用契約(履行中)


オークキング武器取引契約(履行中)


アルバス・アゴラ木材取引契約(待機)


奴隷契約


ウスキ


アケボノ」


『はは……! こんな機能があるなら頼むから先に教えてくれよ……!!』


『契約一覧』と題されたメッセージウィンドウには、これまで結んできた契約書がすべて保管されていた。


それどころか、私がウスキから逃げて寮へ向かっていた途中、行く手を塞いで金をせびってきた冒険者たちとの契約書まで、すべて残っている。


そして、その一覧の中にマケット子爵と交渉した内容は存在しなかった。


交渉ガイドには、私の目に表示するか否かを切り替える機能があるだけで、現在進行中の有効な交渉に対してガイドそのものが発動するのを止める機能はない。


逆に言えば、私が順調に進んでいると思い込んでいる交渉でも、実際には相手がどんな条件を交わそうと守る気など一切なく、何の効力も持たない交渉なのであれば、アイテムを使わない限りガイドは発動しないのだ。


つまり、あの牢獄でマケット子爵と交わした一連の交渉は、すべて子爵による欺瞞だった。


では、なぜマケット子爵は私を騙したのか。


これは結果から逆算した解釈にすぎない。


だが、マケット子爵との交渉で好印象を抱いた私は、結局この時間までアゴラ伯爵を引き止め、開戦を遅らせることになった。


そして日が暮れると、今度はマケット軍の方から夜襲を仕掛けてきた。


もちろん、なぜ有利な籠城戦を捨てて野戦に出たのかまでは分からない。


もちろん、民間人への被害を防ぐという理由があったにせよ、あえて有利な守城戦を捨てて野戦を選んだのは誤った判断だったのではないかという気がするが、いずれにせよ、子爵は私を利用して望みを叶えた。


そして先ほど、アゴラ伯爵が立ち上がりながら呟いた言葉。


『来たか。予想どおりだな』


つまり、アゴラ伯爵はマケット子爵がどう動くかを予想し、その対策まで済ませていたのだ。


ただ、一つだけ疑問に思っていた。


マケット子爵が夜襲を考えること自体は予想できたが、いったいどんな策を使って開戦を遅らせるつもりなのか。


そんなところへ私がやってきて、『マケット子爵と話をしてきた』などと言いながらあれこれ条件を持ち出し、停戦を訴えた。


伯爵から見れば、文字どおりマケット子爵に弄ばれている若造の愚行にしか見えなかったのだろう。


『二人の有能な貴族の間で、私は好き放題に踊らされていただけだった……』


最近相手にした貴族が、あの愚かなバザール男爵くらいしかいなかったのが災いしたのだろうか。


日々、政治と権謀術数のただ中を生き抜き、実績を積み上げてきた『貴族』という人種を、私はあまりにも甘く見ていた。


「だが安心しろ。貴様という人間には失望したが、貴様の持つ能力への評価まで変わったわけではない。勧誘の話はまだ有効だ。それと、武器取引にも支障はないものと信じている。木材の交易権についても忘れてはいない。その件は戦争が終わり次第、すぐに実行しよう」


天幕を出る直前、伯爵は入口で一度だけ振り返ると、早口で通告するように言った。


「それから、参戦するつもりがないのなら今すぐここを去れ。私が出た後もここに残っているようなら、何か企んでいるものと見なし、B級制圧計画を実行する。貴様ら二人とも牢へ放り込むぞ」


そう言い残し、伯爵は出ていった。


ほどなくして、外からこの天幕を取り囲む気配が伝わってきた。


おそらく『B級制圧計画』の一環なのだろう。


「ウスキ」


「はい、主様」


私の様子を察したウスキは、呼び方について甘えることもなく、恭しく頭を下げた。


「バザールへ戻りましょう。今すぐに」


私は怒りを押し殺しながら言った。


こうして、私の初めての出張は失敗に終わった。


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