苦悶
「片付けてまいりましょうか?」
ウスキが大人しく私の命令を待っていた。
「待て」
私は首を横に振った。
もちろん、ウスキを向かわせればあっという間に片が付くだろう。仮にこの領地にB級以上の実力者がいたとしても、戦争の最中に後方へ残しているはずがない。
アゴラ伯爵の悪行を知り、敵対すると決めていたなら、何のためらいもなくウスキに任せていただろう。
「窓の外も包囲されてるのか?」
「はい」
「なら仕方ないな」
私はためらうことなく窓へ歩み寄り、勢いよく開け放った。
――バタンッ!
「動くな! どこの鼠ども……?」
意外にも、真っ先に扉を蹴破って飛び込んできたフラヴィスは、言葉を失って辺りを見回した。
「誰も……いない?」
やがてフラヴィスの視線が、開け放たれた窓へ向く。
「くっ! 窓から逃げたのか! おい! 何をしている! 早く追え!」
フラヴィスは慌てて窓から身を乗り出し、外の兵士たちへ怒鳴った。
「し、しかし! 窓は開いただけで、誰も出てきておりません……!」
「この間抜けども! 認識阻害か精神干渉魔法で姿を隠しているに決まってる! 領内を隅々まで探せ!」
「は、はいっ!」
ようやく窓の外を取り囲んでいた兵士たちが散っていった。
『いい判断だ』
実際、私とウスキはフラヴィスの言う通り、精神干渉魔法で姿を隠していた。
ただ一つ、彼の予想を超えていたのは、ウスキの念動力だけだ。
「ちっ! 他の商会の用事を片付けに行っている隙を狙うとは。姑息な奴らめ!」
『ああ。戦争に駆り出されていたわけじゃなかったのか。どうしてそこに気付かなかったんだ』
私たちはまだ窓の前の空中に留まり、フラヴィスが一人で怒り狂う様子を眺めていた。
「……ん? 視線……?」
『しまっ。見過ぎたか……』
警戒した表情で慎重に剣を抜くフラヴィスを見て、私はウスキへ「もう行こう」と合図した。
遠ざかっていく商会の建物を眺めながら、私は思わず笑みを浮かべる。
「本当に、スキちゃんが私の奴隷になったのは幸運だったよ」
「えっ? えへへ。ありがとうございます」
突然褒められ、照れくさそうに笑ったウスキは、そのまま私の胸へぎゅっと身を預けてきた。
しかも空中で。かなりアクロバティックな体勢だったが、念動力による飛行にはもうすっかり慣れている。
『まさかB級の上位実力者が、人の執務室を漁るなんて誰が思う』
もちろんC級魔法使いでも飛べないわけではない。
だが、あの一瞬で飛行魔法と精神干渉魔法を立て続けに発動するのは不可能だと判断したからこそ、フラヴィスは見当違いの方向へ兵士たちを急き立てたのだ。
実際には、ウスキでさえ精神干渉魔法を間に合わせるので精一杯だった。
「これからどちらへ向かいますか?」
私の胸からひょこっと顔を出したウスキが尋ねる。
「悪いけど、もう一度戦場へ戻ろう。今度はアゴラ軍の方だ」
「かしこまりました」
ひとまず行き先は決めた。
だが実のところ、私はまだ迷っていた。
このままアゴラとの交渉を進めるべきか、それともやめるべきか。
『アゴラ伯爵は戦争を起こすために全てを仕組み、私たちを利用した。だが、それがどうした』
私たちに直接的な被害はない。
それどころか、むしろ好機が巡ってきた。
戦争。
戦争とは物資の渦である。
当事者はあらゆる物資を戦場へ注ぎ込み、疲弊していく。
だが、その傍らで物資を売る者は、その見返りとして莫大な利益を得られる。
もちろん、地球を1日で駆け抜ける技術が常在する現代では、一方へ戦争物資を売るだけで敵国から報復を受けかねないため、忌避される行為だ。
だが、この世界ではB級以上の「人間兵器」に睨まれさえしなければ、大きな問題にはならない。
『でも……私にも一応、良心くらいはある』
正当な理由があるならともかく、この戦争は伯爵の私欲だけで始まったものだ。
「和の国」を誇る日本生まれとして、「世界のためだ」と自分に言い聞かせようとしても、どうにも後味が悪い。
『魔王がいる以上、「平和が一番だ」なんて綺麗事は言えない。それでも現代人としての価値観くらいはある』
いっそのことアゴラを敵に回し、屈服させて貢物を取り立てる案も考えた。
だが相手は伯爵だ。
しかも長年準備してきた戦争である。
A級はともかく、B級への備えくらいは何らかの形で講じている可能性がある。
それに、たとえ私の奴隷たちだけで勝てたとしても、私の独断でアゴラ伯爵を屈服させれば、それは平民による貴族への挑戦と受け取られかねない。
だから私がこの戦争へ介入するなら、必ずマーケット子爵と同盟を結ぶ形でなければならない。
そうなれば当然、戦功も子爵と分け合うことになる。
たとえ私の奴隷が一人で戦場を蹂躙したとしても、戦功を独占するのはやはり貴族への挑戦だ。
結局、両陣営との二重契約にこだわっていた時と比べれば、得られる利益は大きく減ってしまう。
『どうする……やっぱり……』
「ご主人様、もうすぐ到着します」
「もうか?」
空を飛んでアゴラの城壁を越えた後は、さっきと同じようにウスキに背負われて走ってきた。
すでに日は傾き、今にも沈もうとしていたからだ。
もちろん、この世界の戦争教本では、魔物の脅威があるため夜襲は避けるよう教えられている。
だが、念には念を入れておきたかった。
それに、十分な休息も取れただろう。
今夜を越えれば、本格的な侵攻が始まるはずだ。
やがて私の目にも、分厚い天幕と木柵で囲まれた軍営が映った。
「……入ろう」
結局、納得のいく結論を出せないまま、私はアゴラ軍の陣営へとたどり着いた。
*
「こんな時に、ここまで何の用だ? 参戦しに来たのか?」
多少の騒ぎはあったものの、幸いにもすぐにアゴラ伯爵と面会することができた。
もちろん、二人きりではない。
伯爵の後方と天幕の入口付近に、それぞれ二人ずつ、私たちを監視する者が控えていた。
私は口を開く前に、まず交渉ガイドを開いた。
「交渉を提案できます。
① 相手はアゴラ伯爵です。
相手は開戦を目前に控え、神経を尖らせています。発言には注意してください。
② あなたは武力、もしくは機密情報を材料に交渉を提案できます。
A. 相手方の軍に参戦することを条件に交渉を提案してください。
もしくは
B. マケ―ト子爵に関する情報を対価として交渉を提案してください。
③ A案で交渉を開始した場合、交渉目標は『雇用費の支払い:三億ゴールド』です。
B案で交渉を開始した場合、交渉目標は『マケ―ト子爵領に対する権利の一部割譲』です。
*特別提案発生!
④ あなたはすでにマケ―ト子爵と秘密裏に交渉を結んでいます。それを貫徹するための提案です。
⑤ 相手を欺き、説得してください。
⑥ 交渉目標は『アゴラ軍の一時的な撤退』です。」
『さ、三億……!?』
素早く読み進めていた私の目を、一瞬釘付けにした途方もない金額。
奴隷の実力は主人のものと見なされるのだから、実質的にはウスキの身代金なのだろう。
『マケ―ト子爵領の権利の一部というのも、馬鹿にはできないな』
少し立ち寄っただけなので正確な収入源までは把握できなかったが、領内はかなり裕福そうな雰囲気だった。
そんな領地の権利を一部でも手に入れられれば、なかなか美味しい収入源になるかもしれない。
だが、私の視線はやはり一か所に留まっていた。
特別提案。
私はこの選択肢を選ぶために、ここまで来たのだ。
『となると、私はこの戦争をずるずる長引かせて、三億ゴールドを上回る利益を得なければならないのか』
今の私が、戦争という特殊な状況を利用して利益を得られる確実な手段は、オーク製の斧の交易しかなかった。
交渉せず正直に売った場合、オーク製の斧一本が二十万ゴールド。
だが、アゴラは戦争中で武器の値段も上がるはずだ。私の交渉力を信じて、余裕を持って三倍の価格で計算すれば、五百本売るだけで三億になる。
オークは一日に斧を十本生産する。
つまり戦争が五十日長引くだけで、元は取れるということだ。
『……良心はしばらく畳んでおこう』
一人であれこれ悩んではみたものの、立派な貴族でも何でもない私が良心を守ろうとすれば、すべてを諦めて立ち去るしかない。
ネゴ商会から搾り取ったおかげで余裕ができたとはいえ、私の目標は単にバザールを慎ましく食べさせていくことではない。
大陸の中心地と呼ばれるほどに発展させ、勇者の使命を盤石に支えられるようにすることだ。
木材と斧の新たな取引先を開拓するのに、あとどれだけ時間がかかるのか。
そんなことを誰が保証してくれるというのか。
最初に木材交易のアイデアを思いついてから、ここまで来るのにすでに一か月以上が過ぎている。
これ以上、時間を無駄にはできなかった。
結局のところ、私が伯爵に言うべきことは決まっていた。
「伯爵様」
私は呼吸を整え、ゆっくりと口を開いた。
「……おやめになりませんか? この戦争を」
「交渉を開始します。
交渉当事者:政嘉男・宇賀、アゴラ伯爵
交渉タイプ:戰爭談判
交渉目標:終戦
交渉ヒント:
① 相手はこの戦争を諦めません。
② あなたには戦争を止めるための大義も、差し出せる対価もありません。
③ あなたがB級奴隷たちと共にアゴラへ投降するのであれば、戦争を止められる可能性が存在します。ただし、これは敗北と見なされます。
④ 今からでも速やかに撤回することを推奨します。
*あなたは交渉ガイドが提示した選択肢以外の目標を選択しました。この交渉に成功した場合、非常に大きな報酬が与えられます。」
『私は何を口走ってるんだ?』
「ほう。前回、せっかく拾った命をまた捨てに来たのか?」
――チャッ!
周囲にいた四人の護衛が、一斉に私へ武器を突きつけた。
鋭く光る伯爵の目に内心では狼狽しながらも、私の口は意思とは関係なくぺらぺらと動いた。
「そうですね。命を捨てるのは嫌です。命は大切ですから。私も、伯爵様も、配下の兵士たちも、そして向こうにいるマケ―トの人々も」
「私と同じ考えだな。マケ―トの部分を除けば、だが」
「……そこを何とか――」
――チャッ! チャッ!
私が駄々をこねようとした途端、四方から二歩ずつ、武器が近づいてきた。
次にまた妙なことを口走れば、そのまま振るわれるだろう。
『まあ、ウスキがいるから死にはしないだろうけど』
ウスキは先ほどと同じように魔法で姿を消し、この天幕のどこかから様子を見守っていた。
『だが、私の命は助かっても、アゴラとの関係は破綻するだろうな』
心の中で深いため息をついた。
『今からでもルートを変えるか?』
――そう思ったのだが。
「私にとっては、皆同じです。誰もが持っている命は一つだけ。その人生に意味がある限り、誰の命も大切です」
またしても、口が先に言葉を続けていた。
「平民の驕りだな。傲慢は愚かさから生じる。他人がその者なりの意味を持って生きていようと、自分に何の影響も及ぼさぬ者にまで心を砕くのは愚かな行いだ」
『……実際、その通りなんだよな』
現代の地球は、交通と通信の発達によって世界全体が一つにつながっているにすぎない。
現代人が、よく知りもしない外国の人々のために悲しみ、心配するのも、実際には彼らの暮らしが大小の差こそあれ、私たちの生活に影響を及ぼしているからだ。
仮に宇宙望遠鏡が、異星人の暮らす惑星を発見したとしよう。
ところが運悪く巨大な隕石が落下し、その異星人が全滅した。
それが私たちに何の関係があるというのか。
そんなことにまで心の底から悲しみ、哀悼する人間がいたなら、大抵は偽善者か馬鹿だと罵られるだろう。
『だけど……』
「人間は愚かなものです。良い意味でも、悪い意味でも」
それほどまでに一つにつながった現代でさえ、世界各地の戦争と憎悪は一向に止まる気配がない。
悪い馬鹿たちだ。
その一方で、異星人の滅亡を心の底から悲しむ人間も、思っているよりずっと多い。
良い馬鹿たちだ。
「では、お前は良い馬鹿だということか?」
アルバス・アゴラが面白そうに問い返した。
「……はは」
『そんなつもりじゃなかったのに、どうしてこうなったんだか……口は災いの元だな』
私は心の中で自分を責めた。
そして笑った。笑いながら、首を横に振る。
顔を上げ、伯爵と目を合わせた。
伯爵の瞳には、なぜか興味の色が浮かんでいた。
「私が良い人間なのか、悪い人間なのかは、自分でも分かりませんが……馬鹿にはなりたくありませんね」
その瞬間、伯爵の目が鋭く光った。




