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第九十八話 始まりの焚き火

 目的地へ到着すると、スレーが先に馬車を降りた。


 あれほど外へ出たいと騒いでいたのは私の方だったはずなのに、いざここまで来てみると、今度はなかなか幕を持ち上げる勇気が出なかった。


 私は馬車の中に座ったまま、しばらく迷っていた。


 けれど、さんざん悩んだ末に、ようやく決心して幕を持ち上げた。


 目の前に広がっていたのは、夕陽に照らされた鬱蒼とした森だった。


 木々の間には広々とした空き地があり、地面には以前誰かが天幕を張ったらしい痕跡も残っている。どうやら、もともと多くの旅人に利用されてきた野営地のようだった。


 私は深く息を吸い込んだ。


 空気には、普段あまり嗅ぐことのない土の芳香が混じっている。さらに、名前も知らない数種類の植物の香りが重なり合い、不思議なことに、それだけで心がずいぶん落ち着いた。


 馬車の外で忙しそうにしていたハンクは、私が顔を覗かせたことに気づくと、すぐにこちらへ歩いてきた。


「坊ちゃま、まだ降りないでください。野営地の周囲に、防護と警戒のための術式を配置している途中です」


「先に馬車の中で夕食を召し上がっていてください。少し早い時間ですが、俺とスレーでなるべく早く準備を終わらせますから」


 私は少し迷いながら頷いたものの、やはり聞かずにはいられなかった。


「私にも、何かお手伝いできることはありませんか?」


 ハンクは小さく笑った。


「そのお気持ちだけで十分ですよ。周囲の警戒態勢が整ったら、スレーが冒険者ギルドへ行って、登録の件を確認してきます。戻ってきたら、三人で焚き火を囲みながら、今後数日間の予定や行動方針について相談しましょう」


 そして、私を見て付け加えた。


「その時は、ぜひ坊ちゃまも積極的に参加してください」


「わかりました。それでは、よろしくお願いします」


 仕方なく私は馬車の中へ戻り、家の使用人たちが用意してくれた夕食を取り出した。


 料理だけではない。籠の中には、ユーナが私のために特別に作ってくれた菓子まで入っていた。




 しばらくすると、外から聞こえていた物音も次第に少なくなってきた。


 私は思い切って馬車の扉を開き、幕を脇へ掛けておいた。


 外では、ハンクが一人で野営地を整えていた。


 こちらを見ると、彼は少し困ったように笑った。


「どうやら坊ちゃまは、やっぱり外へ出て身体を動かしたいようですね」


「はい」


「それなら、まあいいでしょう。周囲の警戒術式も、ほとんど準備できましたから」


 ハンクは、そばに積み上げられていた枝や薪を指さした。


「では、集めてきたこの薪を、光魔法で使いやすい大きさに切り揃えていただけますか?」


 ようやく自分にもできる仕事が見つかった。


 私は嬉しくなり、すぐに馬車から降りると、迷わず手伝いに向かった。


 正直に言えば、こうした作業をするのは初めてだった。


 けれど、初めてだからこそ。


 実際に自分の手で作業を始めてみると、ようやく少しだけ実感が湧いてきた。


 私は、ただ逃げているだけではない。


 本当に、冒険を始めたのかもしれない。


 私は掌から放つ光束を慎重に制御した。


 魔力の出力が常に一定になるよう意識しながら、光束を上から下へゆっくりと動かし、枝や木の棒をできるだけ均等な長さに切り揃えていく。


 太さにも極端なばらつきが出ないよう、少しずつ形を整えた。


 そばで作業を眺めていたハンクも、思わず感心したように言った。


「坊ちゃまの光の魔力の制御も、本当に上達しましたね」


「本当ですか?」


「もちろんです」


 ハンクは頷いた。


「今の坊ちゃまに俺たちが期待しているのは、魔法そのものの威力を、ひたすら高めることではありません」


「本当の戦いというのは、威力の大きな魔法を次々と覚えれば、それだけで勝てるようになるものでもありませんから。自分の魔力をどう制御するか。適切な時機に、必要なだけの力を使えるか。それも同じくらい大切なんです」


 そして、少しだけ真面目な声で付け加えた。


「それは勝つためだけではありません。自分が生き残るためでもあります」


 私は、その言葉を真剣に聞いた。


 それから次の仕事へ取りかかり、今度は横倒しにした数本の丸太を、腰掛けやすい形へ切り整えていった。




 そうして忙しくしているうちに、空はいつの間にか暗くなり始めていた。


 私とハンクが焚き火のそばへ腰を下ろし、話をしていた頃。


 ようやく、遠くから聞き慣れた声が聞こえてきた。


 森の向こう側から、光翼天馬に騎乗したスレーが、ゆっくりと降りてきたのだ。


 ハンクはすぐに手を振った。


「おう、思ったより早かったな」


 けれど、馬を降りたスレーの浮かない表情を見た瞬間、私は何となく結果を察してしまった。


 どうやら、冒険者の登録申請については、あまり良い返事をもらえなかったらしい。


 スレーは私たちへ頷いてから、焚き火のそばまで歩いてきて腰を下ろした。


「ヴィスカルロの冒険者ギルドで登録を担当しているのは、どうにも頭の固い老人ばかりだった」


 そう言って、ため息をついた。


「九歳の子供が正式な冒険者として登録するなど、前例がないから認められないそうだ。ヴィスカルロの領主から特別に許可をいただいていると説明しても、どうしても最初の一例を作りたくないらしい」


 確かに残念な知らせだった。


 けれど正直なところ、私もハンクも、それほど表情は変わらなかった。


 レシュオン閣下がヴィスカルロ城の領主だからといって、冒険者ギルドに対して、私へ正式な冒険者資格を与えるよう直接命令できるわけではない。


 そんなことは不合理だし、法的にも認められていないはずだ。


 ハンクは眉をひそめた。


「それで、ちゃんと説明したのか? 坊ちゃまが一人で行動するわけじゃない。俺たち二人が、常に同行するってことも。それでも登録できないのか?」


「当然、説明した」


 スレーはすぐに答えた。


「ただ、向こうがどうしても譲らなかった条件がある。坊ちゃまには、初級冒険者の範囲を超える戦闘依頼を一切受けさせない、ということだ」


「強光束をはじめ、中級学徒に相当する戦闘能力も、すでにいくつか身につけていると説明したんだがな。それでも、危険度の高い戦闘に参加させることは認められないそうだ」


 スレーは、少し呆れたように続けた。


「今のところ許可されるのは、簡単な初級魔物の討伐か、清掃や採集といった一般的な依頼くらいだな」


 ハンクは首を振った。


「冗談だろう。魔法を使わなくたって、今の坊ちゃまの剣技なら、初級の戦闘依頼くらい一人で簡単にこなせるものも多いぞ」


「それに、今の防御能力なら、普通の初級から中級程度の戦闘依頼だって、単独で――」


「まあ、待て」


 スレーが再び彼の言葉を遮った。


「だからこそ、別の方法を取ろうと思っているんだ」


 ハンクは彼を見た。


「どういうことだ?」


「とにかく、資格については、まず坊ちゃまを見習い冒険者として登録する。ギルド側が認めている初級依頼をこなしていけばいい」


 スレーは焚き火の中へ、薪を一本追加した。


「それ以外の時間については、別に考えがある。商人を一人見つけて、ヴィスカルロ城の外にある魔物の巣について、位置や地図を提供してもらえるよう頼んでおいた」


「たとえ初級や中級の魔物であっても、数が十分にいれば、坊ちゃまにとっては良い訓練相手になるはずだ」


 そこまで言うと、スレーは私へ視線を向けた。


「今回、俺たちがここを離れた最大の目的が、危険を避け、ヴィスカルロ城から距離を取ることなのは確かです」


「ですが、その間も坊ちゃまの修行だけは、決して疎かにしてはいけません。ただ逃げ続けることしか知らなければ、いつまで経っても状況を覆す日は来ませんから」


 そして、改めて真剣な表情をした。


「ですから、坊ちゃま。これからは、今まで以上に努力していただくことになりますよ」


「もちろんです。問題ありません」


 私は、迷わず答えた。


 それを聞いて、スレーはようやく少し表情を緩めた。


 それから自分の夕食の入った箱を手に取り、よほど腹が減っていたのか、勢いよく食べ始めた。


 ハンクも笑いながら、軽く手を振った。


「まあ、細かいことは明日からゆっくり相談すればいいだろう。今夜くらいは、せっかくの野営を楽しもうじゃないか」


 ハンクは焚き火へ目を向けた。


「こうして外で一晩過ごすのも、本当に久しぶりだな。最後にやったのは……確か、俺が新兵になったばかりの頃だったか」


 そこからハンクは、若い頃に騎士として訓練を受けていた時の話を、次から次へと語り始めた。


 そばではスレーが夕食を食べながら、時折口を挟んでいる。


 しかもそのほとんどが、ハンクの話の中でも、明らかに大袈裟になっている部分をわざわざ指摘するためだった。


 私は二人の間に座り、静かにその話を聞いていた。


 目の前では、焚き火の炎が絶えず揺れている。


 温かな火の光が、私たち三人の顔を柔らかく照らしていた。


 いつの間にか。


 私は、自分がどうして家を離れなければならなかったのか、しばらく忘れていた。


 出発してからずっと胸の奥に居座っていた、あの不安さえも。


 ただ、今ここに灯っている炎を見つめていると、ふと思った。


 今は、たった三人しかいないけれど。


 私たちは、きっと失敗しない。

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