第九十七話 慌ただしい旅立ち
思い描いていたような、十分な準備期間はなかった。
いつものような大掛かりな出発の儀式もない。
冒険者として活動するために必要だと聞いていた、記録や登録、そのほかいくつもの手続きも――まだ何一つ終わっていなかった。
なぜなら。
話が決まってから、たった一日。
私はその翌日には、ドワインによって半ば押し込まれるように馬車へ乗せられていたからだ。
ドワインは片手で馬車の幕を持ち上げ、もう片方の手を扉の枠へ添えながら、旅の途中で気をつけるべきことを、次から次へと言い聞かせてきた。
道標をきちんと確認すること。
危険な生物の巣へ近づかないこと。
二人の騎士から離れすぎないこと。
騎士の指示には必ず従うこと。
街を出た後は、もう自分を坊ちゃまだと思わず、冒険の最中に騎士たちへあれこれ命令しないこと。
……などなど。
どうやらドワインの中では、私はまだ完全に子供らしい。
こんなことくらい。
私だって、ちゃんと考えればわかるのに。
「スレーとハンク、二人の騎士も一緒に来てくれるのですか?」
「はい。旦那様のご命令です」
「でも、家の方は大丈夫なのですか?」
「相手が狙っているのは坊ちゃまでございます。ですから、こちらのことはどうかご心配なさらず」
「そうですか……わかりました」
ほどなくして。
ドワインは誰かに呼ばれたらしく、慌ただしくその場を離れていった。
持ち上げられていた幕が下ろされる。
けれど。
その幕は、すぐにまた勢いよく開かれた。
今度、身体を覗かせたのはユーナだった。
顔には涙と汗が入り混じり、胸元の服まで濡れている。
「坊ちゃま、これ……今朝焼いたばかりのクッキーです。道中で召し上がってください。馬車の籠の中へ入れてあります。一か月くらいなら保存できますから、大丈夫です」
ユーナは続けて、もう一つ何かを差し出した。
「それから、これも……急いで作ったものですが、きっと坊ちゃまに幸運を運んでくれると思います。はあ……もっと早くわかっていれば、もう少し綺麗に作れたのですけれど……どうか、出来が悪いとは思わないでくださいね」
私は彼女から、それを受け取った。
赤い糸を通した、小さな木製の首飾りだった。
指で触れると、ところどころ少しざらついている。
おそらく、丁寧に磨き上げるだけの時間がなかったのだろう。
表には、大きな星が一つ。
その左上と右下には、向かい合うように二枚の翼が彫られている。
裏返すと。
そこには、ヴィスカルロ城の紋章が刻まれていた。
上部に開けられた小さな穴へ赤い糸を通し、最後に結んであるだけの、素朴な作りだった。
昨日になって、ようやく私を外へ出すことが決まったばかりなのに。
それなのにユーナは。
たった一晩で、これを作ってくれたのか。
私は顔を上げた。
そこでようやく。
彼女の表情に浮かぶ、隠しきれない不安へ気づいた。
「とても気に入りました。ありがとうございます」
その瞬間。
ユーナの身体が、びくりと震えた。
そして次の瞬間には。
さっきまで以上に涙を流しながら、私を強く抱きしめていた。
しばらくして、ようやく腕を緩める。
それから私の額へ、軽く口づけた。
その後。
ユーナは、何も言わなかった。
ただ身体を翻し、そのまま立ち去っていく。
私は反射的に手を伸ばした。
まだ、ちゃんと別れの言葉も言っていないのに。
どうして、もう行ってしまうのだろう。
私は慌てて幕を持ち上げた。
けれど、そこに見えたのは。
どんどん遠ざかっていくユーナの背中。
そしてこちらへ向かって歩いてくる、完全武装したスレーとハンク、それにドワインだった。
さらにその奥。
屋敷の入口には、杖をついた父上が立っていた。
「坊ちゃま。そろそろ出発いたします」
スレーは、私が持ち上げていた幕を代わりに受け取った。
そして後ろにいる父上へ一礼してから、馬車へ乗り込んでくる。
同じ頃。
ハンクも父上へ礼をすると、馬車の前方へ向かった。
その場に残ったのは。
どこか落ち着かない様子で立っている、ドワインだけだった。
けれど彼はすぐに、自分の衣服を整え始めた。
もっとも。
もともとドワインの服装はいつだって寸分の乱れもなく、直すところなど何一つないように見えたけれど。
やがて。
彼は私へ向き直り、深々と一礼した。
私も、それに礼を返す。
「坊ちゃま。この先、しばらく外で過ごしていただくことになるかと存じます。我々から危険が去ったとご連絡するまで、あるいは、さらに安全な場所を確保できるまで。その時になりましたら、改めてこちらから坊ちゃまと合流いたします」
ドワインは、いつも以上に慎重な口調で続けた。
「どうか、何よりもご自身の安全を第一になさってください。名目上は冒険ではございますが、できる限り人の多い場所は避けるようお願いいたします。その点については、二人の騎士の判断に従ってくださいませ」
そこで、少し言葉を止めた。
「それでは……ご武運をお祈りしております。どうか、お気をつけて。坊ちゃま」
言い終えると。
彼はもう一度、恭しく頭を下げた。
私は呆然と、その姿を見つめていた。
ほんの少し眉を寄せている。
それなのに、無理に笑おうとしている。
何とも不思議な表情だった。
けれど。
私は、どうしても笑えなかった。
「はい。どうかご安心ください、カルロ・ドワイン様」
そう答えてから。
私は、少し離れた場所に立つ父上へ目を向けた。
父上は今も。
背筋を伸ばし、まっすぐにそこへ立っていた。
昨日。
私に外へ出て冒険するよう言ってから。
今、この瞬間まで。
父上は、もう一言も私へ話しかけていない。
しかも、こんなに離れた場所に立ったままだ。
どうやら、わざわざこちらへ来て何かを言うつもりもないらしい。
礼をするべきだろうか。
私は少し考えた。
けれど。
ハンクが操る馬車は、すでにゆっくりと動き始めていた。
今から改めて立ち上がって礼をするのも。
もう少し遅い気がした。
だから私は。
ただ片手を上げた。
そして。
父上へ向かって、軽く手を振った。
父上は。
一瞬、驚いたように見えた。
けれど、しばらくすると。
父上も片手を上げ、こちらへ手を振り返した。
いつも落ち着いている父上が、そんな仕草をするとは。
少し意外だった。
私は幕を下ろした。
こうして。
慌ただしいまま。
私の旅は始まった。
最初の揺れが落ち着く頃には、馬車はすでに空へ上がり、私が今まで一度も足を踏み入れたことのない方角へ飛んでいた。
胸の中にあるのは、緊張だけではなかった。
家族から離れたことで生まれた、ぽっかりと穴が開いたような寂しさもあった。
私はずっと窓の外を眺めていた。
そんな私を見ていた向かい側のスレーおじさんが、懐から一通の手紙を取り出した。
そして、こちらへ差し出してくる。
封筒には、カルロ分家の紋章が押されていた。
宗家の、ひと目でそれとわかる大きな金色の六芒星とは違う。
こちらは、小さな金色の六芒星を、さらにいくつもの星が円を描くように囲んでいる。
どこか可愛らしくさえ見える紋章だった。
私は待ちきれず、すぐに封を開いた。
中には。
美しく、それでいて力強い筆跡で。
レシュオン閣下。
リリロット夫人。
そしてマリエル夫人からの祝福の言葉が書かれていた。
整然と並んだ三つの言葉を最後まで読み終え。
私は便箋を閉じた。
その時。
ふと顔を上げると、向かいに座るスレーおじさんが、どこか満足そうな笑みを浮かべながら私を見ていた。
何だか居心地が悪い。
私は視線を少し逸らし、適当に話題を探した。
「これは、レシュオン閣下の直筆なのですか?」
もう一度便箋へ目を落とす。
「三人とも自分の言葉で書いているように見えますけど……字は全部、同じですよね」
「ああ。今朝届いたばかりだ」
スレーおじさんは笑った。
「この手紙を届けるためだけに、レシュオン邸から執事が一人、天馬に乗ってわざわざこちらまで来たんだ」
「それは……本当にありがたいです」
「本当なら、出発前にもう一度レシュオン閣下のところへ挨拶に行く予定だったんだがな」
スレーおじさんは、少し残念そうに息を吐いた。
「だが、それでヴィスカルロ城の衛兵や光明教派の連中に動きを悟られては意味がない。だから、今回は諦めることになった」
「そうですか……」
私も、少し残念だった。
けれど。
仕方のないことなのだろう。
結局のところ。
今回の旅は、本当の意味での冒険というより。
逃げるために始まったものなのだから。
何をするにも、慎重でなければならない。
しばらく沈黙が続いたあと。
私は、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「では……私たちは今、どこへ向かっているのですか?」
「冒険者の登録手続きを申請したのは、昨日だ」
スレーおじさんは答えた。
「レシュオン閣下から、できる限り急いで処理してほしいという特別な依頼も出してもらっている。だが、それでも今日中にすべて終わるわけじゃない」
「では、その間は?」
「今日はまず、ソルヴィア城に属する村の外で野営する」
「その後、俺とハンクで冒険者組合の方を確認して、登録が済んでいるかどうかを調べるつもりだ」
私は頷いた。
少なくとも今は。
私がすべきなのは、二人の王剣騎士の判断に従うことだ。
いつものように、自分を貴族の坊ちゃまだと思って振る舞うことではない。
私は卓上に置かれていた、まだ少し温かい茶を手に取った。
一口飲む。
そして。
ようやく少しだけ。
胸の奥に渦巻いていた気持ちを、落ち着かせることができた。




