第九十二話 潜む脅威
リリロット夫人は顔を横へ向け、しばらく私を見つめていた。
私の挨拶に反応していないようにも見えたし、ただじっと私の顔を確かめているようにも見えた。
長い間そうしてから、ようやくゆっくりと口を開いた。
「学院での体験は……もう終わったの? どうだった?」
「まだご報告できていませんでしたが、体験学習はもう終わりました」
私はすぐに答えた。
「学院では、本当にいろいろなことを学びました。夫人のおかげで、正式に初級学徒にもなれましたし、強光束の使い方も覚えました。それから明光術も――」
けれど、私が言い終えるより先に、リリロット夫人は小さく首を横に振った。
「そうじゃなくて……」
そこで一度、言葉が途切れた。
こんな短い言葉を口にするだけでも、今の夫人にはかなりの力が必要なのだろう。
「楽しかった?」
私は言葉を失った。
そんなことを聞かれるとは、まったく思っていなかった。
すぐには、どう答えればよいのかわからなかった。
学院を追い出されたことまで、話すべきなのだろうか。
リリロット夫人は少し前まで、まともに話すことすらできなかった。
レシュオン閣下も、学院で起きたことをまだ詳しく伝えていないのかもしれない。
それに、今の夫人はこれほど弱っている。
こんな時に、余計な心配や悲しみを与えるような話などしたくなかった。
そばに立っていたレシュオン閣下も、私が迷っていることに気づいたらしい。
靴先で、私の靴へそっと触れた。
私は少し考えた。
そして最後には、夫人を見つめながら答えた。
「いろいろと……つらいこともありました。でも、私は満足しています」
私は頭を下げ、改めて丁寧に言った。
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございました」
リリロット夫人は、もう何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと目を閉じた。
それを見たドワインが、私へ静かに声をかける。
「坊ちゃま、もうよろしいでしょう。夫人はまだ、長くお話しできる状態ではありません。そろそろお休みいただきましょう」
私は頷いた。
そしてレシュオン閣下と一緒に部屋を出ようとした。
けれど、その前にどうしてももう一度だけ、寝台の上のリリロット夫人を見てしまった。
本当に、痩せている。以前はふっくらとしていた頬が、今では深く落ち込んでいた。頬の皮膚は骨に張りついたように見え、まるで一気に十歳ほど年を取ってしまったかのようだった。
もともと白く、艶のあった肌も、今なお完全には戻っていない。
青白く、どこか光を失って見える。
それでも、目を閉じ、静かに寝台へ身を預けている姿からは、今も貴族夫人らしい端正さと威厳が感じられた。
もし夫人がいなければ、私はきっと、一生のうちに一度も、本当の魔法学院で学徒として過ごすことなどできなかったかもしれない。
学院では、たくさん悲しいこともあった。
けれど、レオン導師と出会うことができた。
家の外にある世界を見ることができた。
初めて、大勢の同年代の者たちと一緒に学んだ。
ほかの学徒たちが、どのように魔法を学び、使っているのかも知ることができた。
そのすべては、あの時、リリロット夫人が私を助けてくれたからだ。
「ありがとうございます……」
私は寝台のそばに立ったまま、小さな声でもう一度言った。
「リリロット夫人。本当に、ありがとうございました」
また涙が、勝手に目から溢れてきた。
夫人は目を開かなかった。
聞こえていたのかもしれない。
あるいは、聞こえていなかったのかもしれない。
レシュオン閣下が、そっと私の肩を叩いた。
そして、そのまま私を連れて部屋を出た。
本当に、一日でも早く、以前の元気な姿へ戻ってほしい。
もしまた、上の階にまで届きそうな大声で叱られたとしても。
今なら、以前ほど怖いとは思わない気がした。
レシュオン閣下に手を引かれ、私たちは階段へ向かった。
今日の宴も、もうすぐ本格的に始まる。
その頃。
屋敷の反対側にある廊下では、スレーとハンクの二人の王剣騎士が、宴の開かれる階を並んで巡回していた。
曲がり角へ差しかかったところで、スレーが突然足を止めた。左手を伸ばし、ハンクの腕へ軽く触れる。
「おい。感じたか?」
ハンクの顔からも、すぐに笑みが消えた。
「ああ。俺はそこまで感知が得意な方じゃないが、この空気に混じっている妙な魔力くらいはわかる。かなり薄いが……確かにあるな」
スレーは目を細めた。
「囮か。それとも罠か」
「さあな。ただ、魔力が流れてくる方向からすると、狙いは上の階じゃなさそうだ」
ハンクは少し考え、さらに尋ねた。
「どうする? このまま魔力を辿って、発生源を見つけて捕まえるか?」
「いや」
スレーは首を横に振った。
「相手の目的がわからないうちは、こちらから動かない方がいい。今日はレシュオン閣下が御子のために開いた祝いの日だ。客の中で戦いになれば、すぐに混乱が起きる」
「だからって、見逃すわけにもいかないだろう?」
「見張り役を一人捕まえたところで、大した意味はない」
スレーは宴会場の方へ視線を向けた。
「本当に警戒するべき相手は、もう客の中へ紛れ込んでいるかもしれない」
ハンクは少し黙った。
やがて、何かを思いついたように言った。
「なら、光の魔力を広げて、大規模な防御障壁を張るのはどうだ? 表向きには、今日の客人を守るためだと言えばいい。そのついでに、隠れてる連中にも教えてやれる」
ハンクは口元を上げた。
「――こっちはもう気づいている、とな」
スレーは横目で彼を見た。
「少し目立ちすぎないか?」
「今日は祝いの日だろ? 派手なくらいが、ちょうどいい」
スレーも、わずかに笑った。
「それもそうだな。では、そうしよう」
その頃、宴会場では。
レシュオン閣下が、集まった客人たちへ感謝の言葉を述べていた。
私は閣下から少し離れた位置に立ち、壇上の下へ集まっている人々を眺めていた。
華やかな衣服をまとった男たち、美しい礼装姿の女たち。ほとんどがヴィスカルロ城、あるいはソル星のほかの都市から訪れた貴族や名士なのだろう。
こういう場へ出た経験は、私にもこれまで二度しかなかった。
大勢に見られていると思うと、どうしても身体が落ち着かない。
ただ、今日は私が主役ではない。
ほとんどの視線は、生まれたばかりのジックへ集まっている。そのおかげで、私はずいぶん楽だった。
レシュオン閣下が感謝の言葉を言い終えた、その直後だった。
会場の両側に立っていたスレーとハンクが、突然同時に手を上げた。
二人の身体から、金色の光の魔力が上方へ流れ出す。
それは天井付近で広がり、急速に会場全体を覆っていった。
やがて、巨大な金色の防御障壁が完成した。
普通の護盾などとは、比べものにならないほど大きい。
そして、遥かに明るかった。
私は不思議に思った。
今日はただ、客人たちを招き、祝いの言葉を受けるための宴ではなかったのか。
ここまで大掛かりな防御魔法を使う必要があるのだろうか。
けれど、周囲の客人たちは、私とはまったく違う受け取り方をしたようだった。
金色の光が宴会場全体を覆った瞬間、人々の間から次々と驚きと感嘆の声が上がった。
広い会場が、眩い金色の輝きに包まれていく。
そしてドワインの腕の中に抱かれたジック自身も、明るい光を放っていた。
二つの輝きが互いに照らし合い、むしろこの光景そのものが、新たに生まれた子供のために用意された祝福の儀式のように見えた。
やがて、拍手と歓声が会場中から響き始めた。
その中で私は、まるで目立たない影のように、人々の視線から外れた場所へ静かに立っていた。
皆の目は、自ら輝くあの小さな子供へ向けられている。
その方が、私にはずっと楽だった。
ほどなくして、晩餐が始まった。
今日は客人があまりにも多い。
レシュオン閣下が、ずっと私のそばにいてくれるはずもなかった。
そのため屋敷側は、あらかじめ私が一人で食事を取れる部屋を用意してくれていた。
宴が終わりに近づいた頃、最後の儀式に合わせて戻ってくればよいらしい。
どうせ私は、この先二日ほどレシュオン邸へ泊まることになっている。
少し移動するくらいなら、何の問題もない。
ドワインの話では、リリロット夫人と子供の状態も、ようやく少しずつ安定してきたらしい。
あと一か月ほどすれば、ドワインとユーナも家へ戻ることができるだろうという。
二人がこれほど長く父上と私のそばを離れるのは、おそらく初めてのことだ。
本当は、スレーとハンクを見つけて少し話したかった。けれど今日の二人は、ずっと険しい顔をしていた。宴会場の両端へ立ち、ほとんどその場を動こうとしない。
なぜだろう。ただ客人たちを守っているだけには見えなかった。
むしろ客人たちを、一人ずつ観察しているように見えた。
私は邪魔をしない方がよいと思い、そのまま使用人について宴会場を離れた。用意されている部屋へ向かい、食事を取るつもりだった。
けれど、部屋へ入ろうとした、その時。
突然、背後から妙な感覚が走った。
誰かに見られている。
学院で練習戦をしていた時、遠くから対戦相手に狙われていた時と、よく似た感覚だった。
身体が、勝手に強張る。私は勢いよく振り返った。
廊下には、誰もいない。
今度はすぐそばの窓へ近づき、外を見た。
すでに夜になっていた。
窓の向こうにあるのは、静かな林だけだ。
夜風が吹くたび、暗い木々がわずかに揺れている。
何もない。
けれど、私は自分が感じ間違えたとは思えなかった、自分の感覚を信じたかった。
あの真っ暗な林の奥から、本当に、誰かの目がこちらを見ているような気がした。
「ペラルド坊ちゃま、お食事のご用意はできております。どうぞ、中へ」
後ろにいた使用人が、私へ声をかけた。
「あ……はい」
私はようやく部屋へ入った。
扉が背後で閉じられる。
それでもなぜか、もう一度だけ振り返ってしまった。
気味が悪い。
どうか、ただの気のせいであってほしい。
同じ頃。
レシュオン邸の別の一角。
薄暗い影の中から、一人の使用人が静かに人の群れを離れた。
女中服を着た女だった。
彼女は明かりの届かない屋敷の端まで進む。
そこで素早く女中服を脱ぎ、丁寧に折り畳んで、あらかじめ用意していた包みの中へ押し込んだ。
その下から現れたのは、動きやすそうな暗色の衣服だった。
女は迷うことなく屋敷の外壁へ向かった。
そして慣れた動きで、軽々と壁を越えていく。
レシュオン邸の周囲には、大量の警戒術式が配置されている。
それにもかかわらず、女の動きには、一切の迷いがなかった。
どこに術式があるのか、最初から知っているかのように。
魔法陣の位置を正確に避け、警戒の薄い箇所だけを選び、最後には、ほとんど誰にも気づかれない隙間から屋敷の外へ抜け出した。
音はなかった、本来なら作動するはずの魔力警報も、鳴らなかった。
ただ一瞬だけ、警戒術式の中を、極めて微弱な魔力の揺らぎが走った。ほとんど同じ時刻、屋敷のどこかにある一室で、一つの魔法陣がわずかに震えた。
そして、その異変は、何者かによって静かに押さえ込まれた。
何も起きなかったかのように、すべてが再び静けさを取り戻す。
けれど、誰の目にも映らない闇の中で。不穏な流れは、すでに静かに動き始めていた。
草むらに身を潜める毒蛇のように。
細い舌を伸ばしながら、音もなく這い進み、次に牙を突き立てる獲物を探していた。




