第八十九話 父との勝負
馬車を降りると、私は使用人の後について庭へ入った。
正門の前には、すでにスレーとハンクの二人が待っていた。
私の姿を見るなり、ハンクは嬉しそうに大きく手を振った。
けれど私は、まるで何か悪いことをして帰ってきた子供のように、思わず顔を伏せてしまった。
いや。
実際、私は悪いことをしてしまったのだと思っている。
「ハンクおじさん、スレーおじさん。ただいま戻りました」
「どうしたんです、坊ちゃま。急によそよそしくなって」
ハンクは笑いながら、こちらへ歩いてきた。
「せっかく帰ってきたんです。もう少し嬉しそうな顔をしてくださいよ。落ち着いたら、また一緒に訓練しましょう」
「うん……」
私は少し上の空で答え、それから屋敷の中へ目を向けた。
父上の姿はない。
なぜだろう。
それだけで、ほんの少しだけ胸の緊張が緩んだ。
スレーは、そんな私の様子に気づいたらしい。
「旦那様をお探しでしたら、まだ書斎にいらっしゃいますよ」
「先に顔を出して、帰宅の挨拶をしてくるとよいでしょう」
「わかりました」
私は二人について、屋敷の中へ入った。
ドワインとユーナが、まだレシュオン閣下の屋敷に残っているせいだろうか。
たった二人いないだけなのに、屋敷全体が以前よりずっと広く、静かになったように感じられた。
前ほど賑やかではない。
「学院での生活は楽しかったですか?」
不意に、ハンクが尋ねてきた。
「まあ……それなりには」
私は曖昧に答えた。
二人は、学院で起きたことをまだ知らないのだろうか。
父上は、もう知っているはずなのに。
ハンクは私の様子がおかしいことにまるで気づいていないらしく、さらに楽しそうに続けた。
「それで、新しい友達はできました? 気になる女の子なんかもいましたか?」
「おい」
スレーが片手を伸ばし、ハンクの頭を軽く叩いた。
「少しは真面目に話せ」
「いやいや、坊ちゃまの将来を考えてあげているんですよ」
ハンクは悪戯っぽく笑った。
それからわざと背筋を伸ばし、急にひどく真面目そうな顔を作る。
「ですが、坊ちゃま。将来、本当に好きな女性ができた時には、よく考えた方がいいですぞ」
「坊ちゃまはカルロ家の方なんですから。カルロ家の名にふさわしくない相手を選ぶわけにもいかないでしょう?」
あまりにも堂々と言うものだから、一瞬、ハンク自身がカルロ家の人間なのではないかと思ってしまうほどだった。
私はまだ少し意味を理解しきれないまま、彼の顔を見つめた。
スレーは呆れているようだったが、それでも振り返ると、今度は少しだけ真面目な表情をした。
「冗談はともかく、坊ちゃま」
「自分がカルロ家の一員であることには、いつでも誇りを持っていてください」
「はい。肝に銘じます」
私は、礼儀作法の教えを復唱するように答えた。
けれど頭の中で考えていたのは、まったく別のことだった。
どうすれば父上に、冒険へ出たいと話せるのだろう。
やがて、父上の書斎の前へ辿り着いた。
私は姿勢を正し、扉へ向かって声を上げた。
「父上、ただいま戻りました」
「入りなさい」
いつも通り、静かで落ち着いた声が返ってきた。
スレーが扉を開けてくれる。
二人もそのまま中へ入り、それぞれ部屋の両側へ立った。
私は書斎机の前まで進んだ。
父上は椅子へ腰掛けたまま、こちらを見ている。
何も言わない。
どうやら、私自身の口から話し始めるのを待っているようだった。
それなら、まずは一番話しやすいところからにしよう。
「まず……学院で体験学習をすることを許してくださり、ありがとうございました」
「この間、本当にたくさんの、今まで知らなかったことを学ぶことができました」
父上は軽く手を振った。
「その機会を用意したのはレシュオン閣下だ。私に礼を言う必要はない」
「はい……」
ここから先が、本当に言いにくい。
私は深く息を吸った。
「ですが……学院のほかの学徒と練習戦をした際、学院側が規則に反すると判断する方法を使って勝ってしまいました」
「そのことで学院の方々を怒らせ、体験学習は予定より早く終了しました」
「今後、学院へ通うことも認められていません」
話すほどに、声が小さくなっていく。
「申し訳ありません」
「この件で、カルロ家の名誉を傷つけてしまったことは間違いありません」
言い終えると、私は頭を下げた。
父上の目を見ることができなかった。
すると、横に立っていたスレーとハンクが、同時に驚きの声を漏らした。
やはり二人は、まだ何も知らなかったらしい。
一方、父上に驚いた様子はなかった。
おそらく、すでにレシュオン閣下から経緯を聞いているのだろう。
スレーが何があったのか尋ねようと口を開きかけたところで、父上が先に言った。
「最初から話してやりなさい」
仕方なく私は、この数か月の間に起きたことを一つずつ説明した。
オスワルドとの一件から始まり。
グリエンから挑戦を受けたこと。
そして最後には、クレメンティ教授から学院を追い出されたことまで。
すべて話した。
ところが、話を聞き終えた二人の顔に浮かんでいたのは、失望ではなかった。
怒りだった。
その表情には、私の方が驚いてしまった。
自分のことで二人がここまで怒っているところを、私は初めて見た。
「そんなもの、話が通らないでしょう!」
ハンクが思わず声を上げた。
「向こうから挑戦してきたうえ、事前に禁止事項も説明せず、負けた後になって坊ちゃまが規則違反だと言う?」
「その教授とやらも、あまりにも――」
そこまで言ったところで、ハンクは突然、私がそばにいることを思い出したらしい。
続きを無理やり飲み込んだ。
それでも、怒りを押し殺しているせいか、身体がわずかに震えている。
スレーも、ひどく険しい顔をしていた。
「本当に場内の物を使用してはいけない規則だったのなら、監督していた導師は、坊ちゃまが鉄板を拾った時点で止めるべきです」
「最後まで何も言わず、勝敗が決した後になって問題にするのは、どう考えても筋が通りません」
父上は片手を上げ、二人の話を止めた。
それから、私へ目を向けた。
「これも、私がお前を学院へ入れたくなかった理由の一つだ」
私は思わず顔を上げた。
父上は続けた。
「お前の目的が魔法を磨くことだけなら、学院へ行かなければならない理由などない」
「ですが……学院で学べたことも、確かにありました」
「そうだろうな」
父上は否定しなかった。
「だが、お前が失ったものは、得たものより多かったかもしれない」
私は、少し納得できない気持ちになった。
学院へ進む道は、確かにもう閉ざされたのかもしれない。
けれど、だからといって家へ戻り、毎日スレーとハンクと同じような訓練を続けているだけでは嫌だった。
もちろん、それでも私は強くなれる。
だが、どうしてだろう。
それだけでは、足りないように思えた。
私は顔を上げ、勇気を振り絞って父上へ言った。
「父上」
「学院へ行けなくなったのなら……もう一つ、お願いがあります」
「言ってみなさい」
「冒険団に加わって、旅に出たいです」
一瞬。
部屋の空気そのものが、止まったように感じた。
スレーとハンクが同時に私を見る。
父上の目にも、初めてはっきりとした驚きが浮かんだ。
そして次の瞬間。
父上は、ほんの少し笑った。
父上がこうして笑う姿を見たのがいつ以来なのか、もう思い出せないほど久しぶりだった。
「今、何と言った?」
「冒険へ出たいです」
私は真剣に、もう一度繰り返した。
「初級学徒が学ぶべき魔法は、もうほとんど身につけました」
「中級学徒とも、本格的な練習戦を経験しました」
「ですから、冒険団と一緒に外へ出て、実際の戦闘を経験しながら自分を鍛えることができれば、もっと実戦経験を積めると思います」
後ろにいたハンクが、思わず口を挟んだ。
「坊ちゃま、それは冗談にしても笑えませんよ」
「ハンクおじさん、冗談ではありません」
私はもう一度、父上を見た。
「父上。私は本気です」
父上の顔から、先ほどの笑みがゆっくりと消えた。
いつもの厳しい表情へ戻る。
しばらく無言で私を見つめたあと、父上は椅子から立ち上がった。
「ついてきなさい」
それから、部屋の両側に立つ二人の騎士へ視線を向けた。
「スレー、ハンク。お前たちも来い」
これから何が起きるのかわからない。
私はただ、二人と一緒に父上の後を追った。
私たちはそのまま屋敷の裏手へ向かった。
そこは、普段私がスレーやハンクから訓練を受けている場所だった。
父上は私から少し離れた場所で足を止めた。
左手には短い魔法杖を持っている。
右手は、無造作に衣服のポケットへ入れたままだった。
その姿勢のまま、真正面から私を見ている。
なぜだろう。
ただ見られているだけなのに、妙な圧迫感があった。
グリエンは、私へ何本もの強烈な強光束を放った。
それでも私は、今ほど緊張してはいなかった。
父上は、まだ何一つしていない。
それなのに私は、簡単に攻撃を仕掛けることさえできなかった。
そういえば。
私は今まで、父上が本当に戦っているところを見たことがない。
もちろん、今のような実戦形式の訓練という意味でだ。
私の中での父上は、魔法を研究し、本を読み、家の仕事を処理する人という印象の方がずっと強い。
自ら戦う姿など、ほとんど見た記憶がなかった。
「準備しなさい」
父上が言った。
「ペラルド」
「魔法学院で中級学徒を一人倒したことで、自分には外へ冒険に出るだけの力があると思うのなら――」
「今、私に見せてみなさい」
私は一気に気を引き締めた。
それなら、父上にも見てもらおう。
この数か月で、自分がどれほど成長したのかを。
まずは、護盾をしっかり維持する。
そのあと明光術で父上の視界を奪い、強光束を撃ち込む。
父上が避けるなら、あらかじめ蓄えておいた魔力を使い、別の方向から続けて攻撃する。
もし強光束で父上の護盾を破れないのなら、今度はより速く、より密度の高い光弾を連続で撃ち込む。
スレーやハンクとの訓練で、高速移動する標的を壊し続けた時のように。
当て続けることができれば、どれほど強い護盾でも、少しずつ削れるはずだ。
私は左右の手へ同時に魔力を集め始めた。
けれど父上が、いったい何を準備しているのか。
私にはまったく感じ取れない。
それなのに、なぜか確信できた。
父上も、すでに魔力を動かしている。
最初に明光術を使うべきか。
それとも、まず回避に徹して、父上の攻撃方法を確かめるべきか。
そう迷っていた、その瞬間。
父上がずっと衣服のポケットへ入れていた右手を、突然外へ出した。
ただ一本。
指を一本、軽く上げた。
次の瞬間――
光が、もう私の目の前にあった。
速い。
あまりにも速すぎる。
詠唱はなかった。
目立った魔力の蓄積もない。
魔法が形になる瞬間さえ、私には見えなかった。
身体を覆っていた護盾が、一瞬で砕け散った。
さらに、その勢いのまま後方へしばらく滑っていった。
私の護盾を破壊した光は、それでも止まらなかった。
そのまま後方へ飛び続け、最後には私の背後にあった一本の木へ命中した。
私は呆然と、地面へ横たわっていた。
何が起きたのだろう。
私はまだ、何もできていない。
明光術も使っていない。
強光束も撃っていない。
これからどう動くのかすら、まだ決めきれていなかった。
たった一瞬。
それだけで父上は、私の護盾を砕いてしまった。
しかも今に至るまで、父上自身は護盾すら展開していない。
もしかすると父上にとっては、今の私を相手にする程度なら、防御など最初から必要ないのだろうか。
悔しいと思う暇さえなかった。
頭の中に残ったのは、ただ茫然とした感覚だけだった。
父上は、最初から一歩も動いていない。
表情にも、何の変化もなかった。
「本当に冒険の道を歩みたいのなら、その前に一つ覚えておきなさい」
父上は地面へ倒れた私を見ながら、静かに言った。
「他人を倒す方法を学ぶ前に、まず自分を守る方法を学びなさい」
庭の向こうから、微かな風が吹いてきた。
私の髪を揺らし、背後の木々から、さらさらと葉の擦れる音が聞こえる。
けれど父上の言葉だけは、その風に流されることなく、ずっと耳の奥へ残り続けた。
こうして。
父上と初めて行った実戦形式の訓練で。
私は一つの魔法すら放つことができないまま、敗北した。




