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第八十八話 主教様

 部下からの報告を聞き終えた瞬間、男の顔は大きく歪んだ。


 肥えた頬の肉まで、怒りに合わせるように小刻みに震えている。


 突然、男は両腕を伸ばし、左右に寄り添っていた若い女たちの首をつかんだ。


 二人は助けを求める声すら上げられなかった。


 ただ恐怖に目を見開き、涙を頬へ流しながら、声もなく男へ許しを乞う。


 男は冷たい目で二人を一瞥した。


 けれど、その手に込められた力は弱まるどころか、ますます強くなっていった。


 まるで、先ほどまで溜め込んでいた怒りのすべてを、その細い首へぶつけようとしているかのようだった。


 やがて、二人は動かなくなった。


 その直後、男は勢いよく脚を振り上げ、足元に跪いていた衛兵を蹴り飛ばした。


 報告のため床へ跪いていた女の使者は、全身を震わせたまま、顔を上げることすらできない。


 次に災難が降りかかるのは、自分ではないか。


 そんな恐怖だけが、頭の中を埋め尽くしていた。


 男は卓上の酒杯を乱暴につかみ、そのまま女の使者へ投げつけた。


 酒杯は彼女の額へ直撃し、砕け散った。


 流れ出した血と酒が混ざり合い、白く整った女の顔を伝っていく。


「役立たずどもが!」


 男は怒りに任せ、咆哮した。


「これは光明教への裏切りだ!」


「失敗した無能どもは、一人たりとも逃がすな! 全員捕らえて処刑しろ!死体は、私の飼っている獣にでも喰わせておけ!」


 女の使者は一言も発することができなかった。


 たださらに深く頭を伏せ、震えながら主教の命令を聞き続ける。


 一通り怒りを撒き散らしたあと、男はようやく少し疲れたらしい。


 再び豪奢な長椅子へ腰を下ろし、何度か荒い息を吐いた。


 それから、陰鬱な声で尋ねる。


「それと、我が光の領域で最強と呼ばれた、あの暗殺者はどうなっている」


 男の顔色は、さらに険しくなった。


「何年も前、あの黒髪の女封印師に、魔力も身体機能もまとめて封じられたせいで、今まで使い物にならなかった。ちょうど今、カルロ家を始末する必要がある。ならばさっさと封印を解き、奴を解放しろ!」


 女の使者の身体が、大きく震えた。


「大変申し訳ございません、主教様……」


 声を押し殺すようにして、慎重に答える。


「まだ、完全には解除できておりません」


 その言葉を口にした途端、彼女の震えはさらに激しくなった。


 まるで、次に何が起こるのかを、すでに理解しているかのようだった。


「いったい、いつまで手間取っている!」


 男は再び勢いよく立ち上がった。


 そして、そばに置かれていた長剣をつかむ。


 何の前触れもなく、その刃を女の使者へ突き出した。


 女は避けなかった。


 いや、避けることができなかった。


 ここで逃れようとすれば、その後に待っているものは、死よりさらに恐ろしいかもしれない。


 剣先は、そのまま彼女の胸を貫いた。


 女の身体が一度大きく揺れ、そのまま床へ崩れ落ちる。


 鮮血はたちまち床へ広がった。


 先ほど蹴り飛ばされた衛兵は、怯え切った目でその光景を見ていた。


 息をする音さえ聞かれることを恐れるように、身体を固くしている。


 男は床に倒れた者たちを、まるで不要なごみでも見るように一瞥した。


「いつまでそこにいる」


 衛兵は、びくりと身体を震わせた。


「このごみを全部運び出せ」


「それから、封印の解除を担当している者たちに伝えろ。もっと急げとな」


「これ以上遅れるようなら、次はあいつらがこうなる」


「は、はい! 主教様!」


「さっさと消えろ」


 衛兵は慌てて立ち上がり、部屋を出ようとした。


 男は再び長椅子へ身体を預けた。


 先ほどまでの激怒が嘘のように、すぐにまた何もかもに飽きたような表情へ戻っている。


 衛兵が扉の外へ出ようとした、その時だった。


「そうだ」


 衛兵は即座に足を止めた。


「新しい女を何人か連れてこさせろ」


「……はい」


 ――――




 ソル星、ヴィスカルロ城、レシュオン邸。


 私は自室の扉から、そっと顔を覗かせた。


 今日は、レシュオン閣下の屋敷を離れ、自分の家へ戻る日だった。


 とはいえ、私を見送りに来られる者は、ほとんどいない。


 父上の指示によって、屋敷の使用人の大半はすでに解雇されている。


 もともと人手が足りないうえ、残った者たちのほとんども、リリロット夫人と生まれたばかりの子供の世話に追われていた。


 レシュオン閣下でさえ、しばらく公務を脇へ置き、この数日間は夫人と子供の部屋を何度も往復している。


 あの子供には、ジックという名がつけられたらしい。


 昔、強大な魔獣を討ち倒した英雄の名なのだという。


 ジック。


 短い名前なのに、なぜかとても力強く感じる。


 私は、その名前が気に入った。


 廊下を進み、子供のいる部屋へ向かうと、ちょうどユーナと数人の女中たちが、ジックを包んでいた柔らかな布を取り替えているところだった。


 私は本当に驚いている。


 生まれてからまだほとんど日も経っていないというのに、ジックの身体から放たれる光は、すでに私よりも明るい。


 しかも頭には、まだほんのわずかな髪しか生えていないのに、その色が羨ましくなるほど美しい金色だとはっきりわかる。


 なんて綺麗な髪だろう。


 リリロット夫人によく似た色だった。


 もしかすると、夫人の本来の髪よりもさらに明るいかもしれない。


 綺麗だな。


 私も、あんな髪を持っていたかった。


 私は少し離れた場所から、しばらく子供を眺めていた。


 それからこっそりユーナへ目を向け、こちらに気づいているか確かめてみる。


 けれど彼女は、明らかに手が離せない状態だった。


 一瞬たりともジックから目を離すつもりがないらしい。


 なんだか、自分だけ勝手に会いに来てしまったような気がして、少し居心地が悪くなった。


 まあ、いいか。


 あれほど忙しいのなら、邪魔をしない方がいい。


 私はそっと子供の部屋を後にした。


 リリロット夫人の部屋は、そこからそれほど離れていない。


 まだ近くまで辿り着かないうちに扉が開き、見覚えのある人影が足早に出てきた。


 そのまま廊下の先にある別の部屋へ向かっていく。


 あ、ドワインだ。


 今では、夫人の日常の世話は主に彼が取り仕切っている。


 以前、私を魔法学院まで送り迎えしてくれていた執事でさえ、今はドワインの指示に従わなければならないらしい。


 ドワインは、ずいぶん偉い立場になったんだな。




 私は扉の前まで進み、そっと中を覗いた。


 レシュオン閣下が寝台のそばに腰を下ろし、リリロット夫人の手を握っていた。


 ずっと何かを話しているようだったが、声があまりにも小さく、私にはまったく聞き取れない。


 夫人は、もう目を覚ましていた。


 そしてすぐに、扉の前に立っている私へ気づいた。


 けれど、何も言わなかった。


 レシュオン閣下も妻の視線を追い、私の存在に気づく。


 私は急に慌てた。


 もしかして、二人の邪魔をしてしまったのだろうか。


 しかしレシュオン閣下は、ただこちらへ軽く手を振り、入ってくるよう促した。


 私はようやく、慎重な足取りで部屋へ入った。


 そして、リリロット夫人の寝台のそばまで進む。


 夫人は、本当にひどくやつれていた。


 今の痩せ細った姿は、以前とはまるで別人のようだ。


 明るかった顔色は今なお青白く、身体にもほとんど力が残っていないように見える。


 私が近づくと、夫人の唇がかすかに動いた。


 何かを言ってくれたようだった。


 けれど、私には聞こえなかった。


 夫人は、もう以前のような大きな声を出せないのだろうか。


 そんなことを考えた瞬間、私は突然、昔の夫人の声が懐かしくなった。


 隣の階にまで届いてしまいそうなほど、よく通る大きな声。


 鼻の奥が、少しつんとした。


 けれど、夫人の前で悲しそうな顔をしたくはなかった。


 私は必死に、その感情を押し戻した。


 レシュオン閣下は、そんな私の気持ちに気づいたらしい。


 静かな声で言った。


「リリロットは、本当によくやった」


 彼は、妻へ目を落とした。


「カルロ家の子供を守り抜いた。その代わり、自分自身を守ることができなかった。毒そのものはすでに取り除かれたが、身体に受けた損傷はあまりにも大きい。これから長い間、誰かの助けを借りながら生活しなければならないだろう」


 私は、何と答えればよいのかわからなかった。


 ただ黙って、寝台のそばに立っていた。


 レシュオン閣下もしばらく沈黙したあと、今度は私へ顔を向けた。


「だが、これで君にも新しい親族が一人増えたことになった。ジックは、カルロ分家にとって新たな希望だ」


「あの名をつけたのも、かつての英雄のように、この世界を照らし、光の領域へ真の光明をもたらしてほしいと願ったからだ」


 レシュオン閣下の声には、先ほどまでとは違う、わずかな期待が込められていた。


「三年後、ジックが三歳の誕生日を迎えた時、正式に私の姓、ルミエルを継がせるつもりだ。その時から、あの子も家の責任を担う、一人の貴族となる」


 そして、私をじっくりと見ている。


「パーリセウス。これから先、若い世代となる君たち二人には、互いに支え合い、力を合わせてほしい。カルロ家を、もう一度盛り立てていくためにな」


 私は真剣に頷いた。


 レシュオン閣下が今言ったことを、一つ残らず頭の中へ刻み込もうとした。




 ドワインとユーナは、この先もしばらく屋敷に残ることになっている。


 それぞれ、リリロット夫人とジックの世話を続けるためだ。


 だから今日、本当に家へ帰るのは、私一人だった。


 もちろん、自宅にもほかの使用人たちはいる。


 それでも、ドワインもユーナも一緒に戻ってこないと思うと、どうしても落ち着かなかった。


 そして、それ以上に緊張する相手がいる。


 父上だ。


 学院で起きたことについて、私はまだ父上へきちんと説明していなかった。


 正式に謝罪もしていない。


 以前、ほんの少しだけ話したことはあった。


 けれど父上は、ほとんど気に留めていないようだった。


 あるいは、あの時はリリロット夫人と子供のことに意識を奪われ、それどころではなかっただけなのかもしれない。


 今は、ひとまず事態も落ち着いた。


 ならば、遅かれ早かれ、私は父上と向き合わなければならない。


 けれど、あの出来事を経験してから、私はもう学院へ戻りたいとは思えなくなっていた。


 それどころか、家へ帰ることさえ、あまり気が進まない。


 冒険へ出たい。


 城の外へ出て、冒険団へ加わる。


 人の住まない荒野へ向かい、魔獣と戦い、本当の危険の中で魔法と戦闘技術を磨く。


 もちろん、冒険には危険が伴う。


 けれど近年では、正規の冒険団に所属する者が魔獣との戦いで命を落とすことも、以前ほど多くはないと聞いている。


 毎日学院の中で大人しく授業を受け、魔法を学び、決められた練習場で決められた訓練をするよりも冒険の方が、ずっと面白そうに思えた。


 もちろん、その分だけ危険でもある。


 けれど、それは母上もかつて歩いた道だ。


 私も、自分の足で歩いてみたかった。


 母上が見た世界を、自分の目で見たい。


 母上が経験した冒険を、自分でも経験してみたい。


 もしかすると、その先に、私自身の別の道が見つかるかもしれない。


 けれど……


 このことを、どうやって父上へ切り出せばよいのだろう。


 いや。


 その前にまず、学院で起きたことを、どう説明するか考えなければならない。


 家へ戻る馬車の中。


 私は窓の外を流れていく街並みを眺めながら、深い物思いに沈んでいった。

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