第二章 第五十一話 夢
私は空を飛んでいた。けれど、四方はただ真っ黒だった。
翼はない。だが、胸の内には光がある。その光が教えてくれる。ひたすら前へ飛び続けさえすれば、自分の行きたい場所へたどり着けるのだと。
もっとも、その行き先がどこなのか、私はまだ知らない。
周囲の空気は薄く、私はずっと深く息を吸い続けなければならなかった。十分な空気を吸い込んでこそ、もっと遠くへ、もっと先へと飛んでいける。
大小さまざまな白い点や黄色い点が、私の後ろで絶えず舞っていた。大きいものもあれば、小さいものもある。どれも不思議と愛らしい。それらは私を追いかけてくるようでもあり、あるいは私の身体から剥がれ落ちた欠片のようでもあった。
遠くから、かすかな声のようなものが聞こえる。それはまるで、闇の中からの導きのようだった。
何を言っているのかは聞き取れない。けれど、どの声も少しも騒がしくはない。きっと私は飛ぶことに夢中で、耳を澄ませる気になれなかったのだろう。
あるものは細かな雨音に似ていた。あるものは、風に揺れる葉擦れの音のようでもあった。それらは右へ左へと揺れながら、姿なき精霊の群れのように私のまわりを舞い続けていた。
飛ぶことは心地よかった。飛翔は私の心を軽くし、本来なら嫌うはずの闇さえ忘れさせた。今この時ばかりは、その闇を抱きしめ、一緒に踊り、一緒に遊んでいるような気さえした。
だが、飛ぶ速さは少しずつ鈍くなっていった。やがて、途切れ途切れに止まりそうになる。
私はそれが嫌だった。速さは自分で握っていたい。行く先も、速度も、思うままに操りたかった。
けれど、それはどうやら無駄な抵抗らしい。私はもがくのをやめ、せめて穏やかに飛び続けようとした。
気づけば私は、青々とした草原の上に腹ばいになっていた。私は獅子の姿となり、のどかな昼寝を楽しんでいた。
次の瞬間、身体が大きくなった。顔を上げると、いつの間にか翼が生えている。私は今度は巨竜となり、眼下のすべてを見下ろしていた。
伏せているのに飽きて、少し身体を動かそうと思った。立ち上がって足元を見下ろすと、そこにあったのはもう竜の鉤爪ではない。私はまた別の獣――山猫のような姿になっていた。辺りはいつの間にか荒野へと変わり、いるはずのない獲物たちがそのあたりをうろついていた。
私は当てもなく駆けた。温かくて安心する空気の匂いと、乾いた草木の香りを嗅ぎながら。
足元の大地はところどころひび割れていて、踏みしめるには少し不安定だった。けれど私は驚くほど身軽で、それすら遊びのように楽しみながら、跳ねるように進んだ。
しかし、進めば進むほど、私はひどく疲れていった。あるいは、腹が減っていたのかもしれない。気づけば私はその場に伏せ、もう動けなくなっていた。
必死にもがいた。だが、筋肉はすでに力を失っていて、その動きはもはや足掻きというより、何かにすがるような仕草に近かった。
私はゆっくりと目を開けた。
……今のは夢だったのか。
いくつもの違う夢を続けて見ていた気がする。だが、そのどれもはっきりとは思い出せない。
ただひとつ、起き上がって食べ物を探そうと必死にもがいていた場面だけは、妙にはっきりと残っていた。
ああ、やっぱり少し腹が減っているらしい。
そう思って、私は周囲を見回した。空腹を紛らわせてくれそうなものがないか確かめるためだ。
そこは灰色の石板を大量に積み上げて造られた部屋だった。私の寝台の真正面には小さな火炉があり、じいじいと音を立てて燃えている。大きくはないが、火勢はかなり強い。私は慌てて布団をはねのけ、身体にこもった熱を逃がした。
石の床には薄い赤い絨毯が敷かれていた。かなり擦り切れてはいるが、きちんと繕われていて、古びてはいても悪くない。
少し離れたところには、丸い木の机と椅子が置かれていた。だが残念なことに、その上には私の求めるものは何ひとつない。水さえもなかった。
私はひどく落胆した。けれど、すぐに寝台を離れて部屋の外まで探しに行く気にもなれず、ただ灰白色の天井を見上げてぼんやりした。
もし神様というものがいるなら、空から水と食べ物を落としてくれないだろうか。頭に当たっても、別に痛くて構わない。
もちろん、そんなことが起こるはずもないと私は知っている。
そう思うと、ますます気が滅入った。
退屈しのぎに、自分の身体をつねってみる。よかった。たぶん、ぐっすり眠れたのだろう。身体にはちゃんと力が戻っていた。
そういえば昨日は、公園に遊びに行った気がする。そのあと、とても大きな教会を見つけて、あそこなら口うるさい執事にも見つからないだろう、などと考えたのだ。
だが、教会のまわりの通りだけでも十分に入り組んでいて、私はすっかり迷ってしまった。そのあとのことは、もう覚えていない。
口うるさい執事――ああ、そうだ。危うくあの男のことを忘れるところだった。とにかく、何か食べるものを探さなければ。
私はゆっくりと寝台から起き上がった。
それにしても、この寝台はどうしてこんなに高いのだろう。腰掛けたままでは、足が床に届かない。
仕方なく、私は思い切って飛び降りた。だが、うまく体勢を取れず、どすん、と床に落ちる。
幸い、頭がぶつかったのは平たい牛革の靴の上だったので痛くはなかった。だが、膝と手のひらはかなり痛い。
なんとか起き上がらなければ――そう思った、その時だった。
部屋の重たそうな石の扉が、ばん、と大きな音を立てて開いた。
「パーリセウス坊ちゃま!? ようやくお目覚めでございますか。丸一日と一晩も眠っておられたのですよ。医師もつい先ほど帰ったばかりで、私はちょうどお薬を飲ませようとしていたところでございました」
老執事は、驚きのあまり床に落としてしまった薬包を拾い上げると、そのまままっすぐ私のもとへ歩いてきた。
「まことに申し訳ございません。まずはきっと空腹でございましょう。すぐにお食事を用意いたします。――ああ、それから、旦那様にも急いでご報告しなければなりませんな。次にお目覚めになった時は、どうか寝台の脇の鈴を鳴らしてくださいませ。私がすぐに参ります。どうか、もうお転びになりませんよう」
彼は私の身体を手早く確かめ、怪我がないと見るや、私を抱き上げて再び寝台の上に戻した。そして、そのまま足早に石扉の外へと消えていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私はようやく我に返った。そして、いつの間にか寝台の上に置かれていた薬包へ目を向ける。表面には、複雑な文字がびっしりと書き込まれていた。
「……石、……鳥の卵、……草……」
文字の勉強はちゃんとしたはずなのに、その字はあまりにも複雑で、そのうえひどく走り書きだった。まるで小さな人影が紙の上でふざけ合っているみたいに見える。
私は薬包に鼻を近づけた。中から漂ってくるのは、何とも言いようのないひどい臭いだ。
こんなもの、本当に飲めるのだろうか。こんなに元気なのに、私は本当に薬など飲む必要があるのだろうか。
もし本当に光明神様がいるのなら、神力でさっと治してくれればいいのに。わざわざこんなものを飲まずに済むように。
そんな取り留めのないことを考えながら、私は薬包を抱えたままぼんやりしていた。
やがて、聞き慣れた足音が戻ってきた。
今度は彼は、きちんと扉を叩いてから声をかけてきた。
「坊ちゃま、申し訳ございません。すぐに旦那様へ事情をご報告いただく必要がございます。ご安心くださいませ。宴の支度はすでに始まっております。ご報告が済み次第、お食事へご案内いたします」
「はい、わかりました」
気は進まなかったが、先に父上のところへ行って事情を話すしかないらしい。
老執事は足早に私の前まで来ると、薬包を開き、豆ほどの大きさの丸薬をいくつか手渡してきた。そして靴も履かせてくれた。
私は苦労してその丸薬を飲み込んだ。すると老執事は、手の中で土の魔力と水の魔力を使い、一杯の水を生み出して差し出した。
幸い、薬は想像していたほど苦くはなかった。だが、やはり思った通り、決して美味しいものではなかった。
私は手を差し出し、老執事はその手を取って、部屋の外へと導いた。
扉を出る前、私は一度だけ振り返って部屋を見た。厚いカーテンは固く閉ざされ、外の光は一筋たりとも入ってこない。
老執事は扉を閉める直前に手を伸ばし、火炉の火を消した。さらに両手で石の扉そのものを封じるように閉ざした。その仕草は、まるで何か大切な秘密でも守るかのようだった。




