第五十話 タイムスリップ
パーリセウスは白門の中へ足を踏み入れた。背後で門が静かに閉じ、彼の前には、どこまでも白く続く通路が広がる。まるで宇宙に存在した過去のすべてが、一条の終わりなき白い回廊へと圧縮されたかのようだった。
パーリセウスは、その通路の中を漂いながら進んでいく。上下左右には、整然と並んだ無数の額縁が浮かんでいた。ひとつひとつの絵の中には、それぞれ一つの過去が封じ込められている。その過去は、ほとんど一秒ごとに切り分けられているかのように細密で、幾重にも連なりながら、果ての見えぬ奥へと広がっていた。
パーリセウスは一目で理解した。そこに映っているのは、すべて“過去”だ。トリヤ・スペースが自らの腕の中で倒れた瞬間。イレーナが滅びた場面。アロデロスが衆神に討たれた光景。虹神と逆世の悪魔たちが幾度も激突した戦い。そして、自分とソロムネスが剣心境界で繰り広げた決戦。
どの絵も静止しているはずなのに、異様なまでに生々しかった。まるで、凝固した過去そのものが、そのまま並べられているかのようだった。
パーリセウスは、その白い通路の中をゆっくりと漂いながら、次第に速度を上げていく。時空の通路の中では、時間そのものが凍りついているように感じられた。だが、それでも彼の胸には、塵世を救いたい、トリヤ・スペースを救いたいという焦りが、ほとんど本能のように燃え上がっていた。少しでも遅れれば、このまま塵世そのものが虚無へと沈み、トリヤ・スペースが倒れたあの姿も、永遠に時間の裂け目に固定されてしまう――そんな感覚が、彼を急き立てていた。
前へ進みながらも、彼は絵の一枚一枚を注意深く見渡した。時間の神が開いたこの通路に入るのは、これが初めてだった。だが彼には分かる。ガリシュ・タイムから授かった時間の力が、自分にこれらの絵の中へ入り込み、その時の自分と入れ替わる権能を与えているのだと。
神力は、まるで見えない糸のように、今の自分と無数の「過去の自分」とを結びつけていた。
その感覚によって、パーリセウスは初めて痛感する。時間とは、決して一本の直線ではない。幾重にも織り重なった巨大な織物なのだと。そして今、自分にはその織物に触れ、編み直す権利と義務が与えられているのだと。
彼は心の中で誓った。必ずこの世界から災厄を取り除き、真の安寧を取り戻すと。
だが、そのまま進み続けるうちに、彼は異変に気づく。
自分の飛行速度が、いつの間にかさらに加速しているのだ。
最初は焦りのあまり自分で加速しているのかと思った。だが、試しに魔力による飛行を止めてみても、速度は落ちるどころか、かえって増していく。もはやこれは前進ではなかった。進むというより、何かに引っ張られている。いや、もっと正確に言えば、“落ちている”感覚に近い。
しかも、その落下感は下方向から来るものではなかった。むしろ、通路全体そのものが傾き、本来到達すべき過去から彼を押し流し、別の、予測不能な深みへと突き落としているようだった。
だが、時空の通路に重力や方向の狂いなどあるはずがない。
それとも、自分は何かを誤ったのか。
もしこのまま制御を失えば、絵に正確に触れて過去の自分と入れ替わることなど到底できない。まして、その後に過去の自分を元の時空へ留めるなど不可能だ。
――止まらなければならない。
そう判断したパーリセウスは、剣心の螺旋剣へ力を注ぎ込んだ。剣に魔力を集中し、それを壁へ突き立てて減速しようとする。だが、剣身が通路の壁へ触れた瞬間、紫色のエネルギーが火花のように弾けた。まるで見えない屏障が、壁一面を覆っていたかのようだった。
何だ、これは。
パーリセウスは直感する。これは守護神の力ではない。かといって、悪魔たちの邪悪な毀滅の力とも違う。
神聖でもなく、穢れてもいない。温かくもなく、冷たくもない。ただ、あらゆる定義の上位に無感情に浮かび、この通路の中で本来成立するはずの秩序そのものを書き換えている――そんな異質さだった。
まさか、時間の神が開いた時空通路にまで干渉できる存在がいるというのか。
駄目だ。何としてでも止まらなければならない。
彼の身体は、なおも際限なく加速を続けていた。いかなる力をもってしても、その流れを止めることができない。まるで時間の濁流に呑まれた一枚の枯れ葉のように、通路の中で翻弄され、姿勢すら満足に保てない。
パーリセウスは必死に体勢を立て直し、幻想の剣を抜いた。そしてそれを再び創造の剣へと変化させ、そのまま壁へ深々と突き立てる。
今度は確かな手応えがあった。
彼の身体は、通路の中央でようやく停止した。まるで断崖から転落しかけた者が、かろうじて岩肌の細枝を掴んで踏み止まったような、あまりにも危うい停止だった。
今のうちに絵へ触れ、入れ替わらなければならない――そう思った、その時だった。
パーリセウスは、背後から紫色のエネルギー体が巨龍のように回り込み、こちらへ迫ってくるのを見た。同時に、通路そのものが半透明に変わり、その外側には果てしない暗黒が広がっていた。
その紫の存在は、一直線にこちらへ向かってくる。
あれは何だ。
まさか、この通路そのものを破壊するつもりなのか。
だが、そうでもないらしい。それは通路には直接触れず、その外側を這うように移動している。ただし、もしあれに追いつかれたら何が起きるかは分からない。
パーリセウスは焦り、手を伸ばして一枚の絵に触れようとした。だが、再びあの紫の屏障が行く手を阻む。触れた感触は異様だった。冷たく、しかも粘りつくようで、ただのエネルギーではないと直感させる。言葉にできぬ不快さが、背筋を走った。
彼はすぐさま別の絵へ手を伸ばす。だが駄目だ。また別の絵へ移る。そこも駄目だ。何度試しても、結果は同じだった。
ここまで来れば、もう選択肢はない。
あの紫の屏障を攻撃して、破壊するしかない。
そう判断し、力を集めて斬りかかろうとした、その瞬間だった。
激痛が、何の前触れもなく彼を襲った。
いつの間にか、あの紫のエネルギー体はさらに接近し、手を伸ばしても届かない半透明通路の外側にまで来ていた。その痛みは、まるで誰かに内臓を生きたまま引きずり出されるような感覚だった。
その苦痛の中で、パーリセウスは再び自分が落下し始めていることに気づく。
馬鹿な――
幻想の剣を壁に突き立てたまま、確かに固定していたはずだ。なのに身体は制御を失い、再び下へ、いや“深み”へ沈み始めている。
彼は慌てて後ろを振り返った。
そこで見たものに、息を呑む。
自分自身が、無数にいる。
まるで残像のように、数え切れぬほどの「自分」が後方に現れていた。パーリセウス自身はなお幻想の剣を握りしめながら落下している。だが、その重なり合った自分たちの顔は、少しずつ若返っていた。
青年。
少年。
幼子。
それは単なる残像ではない。
自分がかつて存在したあらゆる段階が、「今」という存在から一枚ずつ剥がされ、後方へ置き去りにされているかのようだった。
その時、あの紫色のエネルギー体も、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
では、あの紫の屏障はどうなったのか。まだ絵を遮っているのか。
だが、もはやそれを確かめる意味すら薄れつつあった。
パーリセウスは、自分の魔力が完全に枯渇していることに気づく。飛ぶための力は残っていない。幻想の剣も消えていた。剣心のエネルギーも、同時に尽きている。
そして、それ以上に恐ろしいのは、力とともに、何か別のものまで失われていることだった。
それは、名前かもしれない。
ある眼差しかもしれない。
あるいは、どうしても果たさねばならなかった誓いかもしれない。
だが、それを掴もうとすればするほど、それらは意識の奥からさらに滑り落ちていく。
彼はもう抗うことができなかった。
まるで深海へ沈みながら溺れていくように、ただ上方に浮かぶ無数の自分の残影を見上げることしかできない。その姿は絶えず増え続けているのに、同時に、ますます見知らぬものになっていった。
その頃、時空通路の外では、ガリシュ・タイムが通路内部で起きている異変を察知していた。
その表情は冷静だったが、そこには隠しようのない驚愕があった。
通路は単に制御を失っているのではない。まるで何者かが、自らの権能の内側へ、さらに別の高位法則を書き込んできたかのようだった。
時間の流れが停止したはずの通路の中で、なぜパーリセウスだけが絵の中と同じように時間を遡行しているのか。
ガリシュ・タイムには、通路内で何が起きているのか完全には読み取れなかった。だが一つだけは明白だった。たとえ自分に残された神力がわずかであろうとも、パーリセウスの落下を止められなければ、すべてが終わる。この世界は完全な破滅へ向かう。
その異質な力と対峙しながら、ガリシュ・タイムは残された最後の神力を全て注ぎ込んだ。
彼は最後の時間権能を用い、この本来なら無限に過去へ続くはずの通路を、ある一つの時間片へ強引に固定した。まるで壁を築いて、パーリセウスの下方への落下経路そのものを封じるように。
たとえパーリセウスの時間が、すでに制御不能なほど巻き戻されていたとしても、通路そのものが崩壊すること、そして彼自身が失われることに比べれば、これは唯一残された手段だった。
だが、その高位の干渉と正面から拮抗し続けた代償は大きかった。
ガリシュ・タイムは、ついに最後の一滴の神力まで使い果たす。
神聖な気配を放っていた少年神は、それでもなお祈るような姿勢を崩さぬまま、ゆっくりと一筋の光へ変わり、宇宙の中へ消えていった。
遺言はなかった。
振り返ることもなかった。
時間の守護神にとって、最後の希望を自らの手で過去へ送り出すことこそ、存在そのものよりも重い意味を持っていたのだろう。
そしてその瞬間、時間の神を失ったこの宇宙は、再び大きく均衡を崩した。まるで泡のように弾け、ほどけ、消えてしまいそうな危うさが世界全体を満たしていく。
空間の振動は、宇宙の根幹そのものが低く呻いているかのようだった。断裂の軋みが重なり合い、不協和音の交響を成す。その魔力の流れを見通せる者であれば、とても正気では耐えられないほどだった。
その時だった。
虹神たちの身体が、それぞれの元素を象徴する光へと変わり始めた。七色の輝きは静かに、だが確実に、トリヤ・スペースの身体へ戻っていく。
それは単なる回帰ではない。
彼らは自ら独立した存在である資格を放棄し、最後に残った命と元素権能のすべてを、トリヤ・スペースへ捧げたのだ。
それは、明確な犠牲だった。
虹神たちに属していた意識も、名前も、それぞれの元素色の光とともに、彼らがかつて生まれた時と同じように、再びトリヤ・スペースの内側へ沈んでいった。
その瞬間、宇宙は何かを失った。
ついさっきまで確かに並び立っていた存在感が、完全な沈黙へと変わったのだ。その沈黙はあまりにも徹底していて、宇宙そのものさえ一瞬、呼吸を止めたように感じられた。
かつて塵世を守っていた七色の元素神は、ここに本源へ帰った。だが、もはやトリヤ・スペースには彼らへ再び力を与える余力はない。
虹神たちを受け入れたことで、トリヤ・スペースの身には、再びかすかな光が戻った。局面はわずかに持ち直したようにも見えた。
だが、その光はかつてのように純粋でも、安定してもいなかった。今にも消えてしまいそうなほど弱いのに、それでもなお意地のように、この崩れ落ちつつある宇宙をもう一度だけ照らそうとしていた。
彼女は再び立ち上がる。両手を合わせ、神力によって砕けた宇宙を無理やり繕い始めた。
だがそれは、もはや修復とは呼べない。
むしろ、今にも完全に砕け散ろうとする水晶球の裂け目を、細く頼りない両手で必死に押さえているようなものだった。彼女が繋ぎ止めているのは、完全な塵世ではない。ただ、まだ完全崩壊には至っていない、その輪郭だけだった。
それでもなお、世界がここまで壊れた後ですら、彼女は神としての意志でこの宇宙へ命をつなぎ止めようとしていた。
それは自分の生のためではない。
塵世に、まだわずかでも息づく命が残っている限り、それは神の宝であり、神の子である。だからトリヤ・スペースは決して見捨てない、決して諦めない。
だが、それでもなお、時間の神を失ったこの空間では、時間そのものが暴走を続けていた。
ある惑星の破片は一瞬で風化して塵となったかと思えば、次の瞬間には崩壊寸前の形のまま不自然に静止する。ある光はすでに消えたはずなのに、なお遅れて輝き続けている。
時間はもはや前進も後退もしていなかった。
それは、制御を失った野獣のように、この宇宙に残された最後の秩序へ噛みついていた。
その牙が届く場所では、因果さえも引き裂かれていく。過去と未来が同一の瞬間に重なり合い、次の瞬間には互いを喰らい合う。こうして宇宙全体は、永遠にも見え、同時に今にも壊れそうな、奇怪で脆い混沌へ沈みつつあった。
各領域は先ほどの宇宙規模の大衝撃を受け、砕けた惑星の断片は天の川のように宇宙へ撒き散らされていた。
無論、そのような衝撃の中で無傷でいられるものなど存在しない。だが、それでもなお幾つかの惑星片が原形を留めているのは、王たちが最後まで必死に守ろうとした結果だった。
崩れた城。
ひっくり返った宮殿。
砕けた神像。
丸ごと剥がれ飛んだ山脈。
そして飛沫のように散った海。
そうした文明の残骸は、無数の星体破片と混じり合いながら宇宙へ漂っていた。まるで、一つの文明そのものが粉砕され、そのまま虚空へ撒き散らされたようだった。
それらの破片は、音もなく回転し続ける。
それは、あまりにも巨大な葬列だった。
かつて繁栄していた文明も、信仰も、歴史も、すべてが冷たい欠片と化し、この宇宙級災害を見つめる最も沈黙した証人となっていた。
かつて光域主星であったソル星の大聖堂もまた、今は宇宙の中を漂っている。その内にも外にも、もはや人影はない。教会そのものも、宇宙空間を激しく流される中で崩れ始めていた。かつて無数の祈り、聖歌、鐘の音で満たされていた回廊には、今や完全な静寂しか残っていない。
砕けた彩窓は宇宙の冷たい光の中で回転し、破損した聖像は、すでに本来の威厳ある顔立ちを失っていた。まるで神聖そのものさえ、この敗北によって揺らぎ始めているかのようだった。
だが、その聖堂が崩れ落ちる、その瞬間だった。
積み上げられていた石材が突如として砕け、そのすべてが死の気配に満ちた黒霧へと変わっていく。それは宇宙の流れに乗り、この空間へさらに広がり始めた。
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白い光が走った。
――何だ?
眩しい。あまりにも眩しすぎて、目を開けていられない。
その光は、ただ目へ差し込んでいるのではなかった。まるで世界そのものが、一度に押し寄せてきたようだった。
周囲はやけに騒がしい。
どうしてこんなにうるさいんだ。
音も、匂いも、温度も、すべてが同時に身体へ流れ込んでくる。目覚めたのか、それともまた別の夢へ堕ちたのか、自分でも分からなかった。
……何だ、この匂い。湿っている。
頭が痛い。
立っていられない。
待て、ここに低い壁がある。
とりあえず、これに掴まって休もう。
しばらくしても、まだ目はうまく開かない。だが、さっきまで何かに耳を塞がれていたようだった周囲の音は、逆にどんどん鮮明になっていった。
これは……鐘の音だ。
こっちは水の音。
鳥の声。
それから足音。
足が地面を擦るたび、さらさらとした音がする。
不安だ。
ここはどこだ。
……というより、私は誰なんだ。
頭がひどく痛む。何も思い出せない。どうして自分がここにいるのかも分からない。記憶は、強すぎる光に散らされた影のようだった。掴もうと手を伸ばしても、触れる前に砕けて消えてしまう。
「少年、おい。君だよ、君。大丈夫かね?」
――誰だ。
ひどく年老いた声だった。
後ろからか?
声そのものに険しさはない。だが、あまりに知らない響きで、本能的に緊張が走る。
私は振り返った。なんとか目を開こうとしたが、光があまりにも強く、結局は細く眇めることしかできない。その狭い視界の中に、ただ、高い人影だけが映った。
「あなたは……どなたですか?」
「ほう、若いのに礼儀正しい口のきき方をする。少年、ここで家族とはぐれたのかね?」
……少年?
それは私のことか。
それとも、それが私の名前なのか?
その人はやけに大きく見えた。
近くで響く水の音もうるさい。
「どうした。目が見えておらんのか? む……光の魔力で目を護っておらんのか。親御さんは何も教えていないのかね。まあ、このソル大聖堂の威光の下では、見えづらくなるのも無理はないが」
何を言っているんだ。
光の魔力?
親?
大聖堂?
「わ、分かりません……」
「よし、なら私が手を貸そう。ほら」
その大きな人影は手を伸ばし、私の目元にしばらく触れた。
すると、目の奥に温かい流れが広がっていくのを感じた。
「さあ、ちびちゃんよ。もう目を開けてもよいはずだ」
その言葉に従い、私はゆっくりと目を開く。
そこにいたのは、大柄な老人だった。髪は真っ白で、その一本一本が金色の光を帯びている。黄白の長衣をまとっていて、まるで修行者のような雰囲気だった。
その背後では、強い陽光が噴水の飛沫に当たり、無数の小さな金の粒となって砕けていた。さらにその奥には、見上げることすら難しいほど高大な大聖堂の輪郭が聳えている。
「ありがとうございます」
「ほっほ、やはり礼儀正しいな。しかし、なぜこんなところに一人でおるのだ?」
「……分かりません」
「それはいかんな、家の者を探さねばならぬ。さあ、こちらへ来なさい」
その穏やかな言葉に、私は不思議と安心した。だから、この人について行こうと決めた。
だが、その時だった。
さらに年老いた別の声が、私たちを呼び止めた。
「坊ちゃま! こんなところにいらっしゃいましたか! ……おお、主教様。誠に申し訳ございません。私の不手際で若君を見失っておりました。すぐにお連れいたします」
私と“主教”と呼ばれたその老人が振り返ると、古めかしい意匠ながら丁寧に仕立てられた礼服を着た老紳士が、足を少し引きずりながら慌ててこちらへ駆けてくるのが見えた。
この人もまた、やけに大きい。
かなり急いで来たのだろう。衣服の襟元は汗で濡れていた。
「ほう?この少年とは、どのようなご関係ですかな」
老紳士は息を切らせながら私の前で立ち止まり、どうにか礼を整えた。
「虹光の加護が我らにありますように。主教様、私はこのパーリセウス様の執事でございます。姓は持たず、名をカルロ・ドワインと申します」
彼は荒い息の合間にも、順序を乱さず、礼を尽くして名乗り、事情を述べた。
パーリセウス?
坊ちゃま?
それは私のことなのか。
頭はまだぼんやりしていて、足元も覚束ない。だが、その名前が耳へ落ちた瞬間だけ、心のどこかがかすかに震えた。けれど、その震えは何かを思い出させてはくれない。ただ、その名が本来は自分のものだったはずなのに、今の自分にはひどく遠く感じられる――そんな、いっそう深い茫然だけが残った。
「なるほど、カルロ家の者でしたか。この少年、どうやら少し光暈視の症状が出ているようですな。教育がまだ行き届いていないのではありませんか」
「は、はい……。すべて私の不行き届きにございます。すぐに坊ちゃまをお連れいたします」
「うむ。では、また縁があれば会おう、ちびちゃんよ」
私は、まどろみの中でうなずくように頭を動かした。けれど、身体はもう支えきれなかった。そのまま前へ倒れ込む。
だが、地面へぶつかる前に、温かく厚い手が私を受け止めた。
そのまま私は高く抱き上げられる。
老紳士の身体からは強い匂いがした。けれど、不思議と嫌ではなかった。むしろひどく安心した。
私はついに抗えなくなり、その少し薄い肩へ寄りかかったまま、深い眠りへ落ちていく。
完全に意識を失う直前まで耳に残っていたのは、噴水の水音、遠くで鳴る鐘の音、そして石畳の上を歩く足音の反響だった。
この場所は、陽光に満ちている。
そして、どういうわけか――ひどく懐かしかった。




