第四十九話 少女の涙
パーリセウスは、宇宙に漂うトリヤ・スペースの身体を、そっと両腕で受け止めた。
――ああ、と彼は思わず胸の内で嘆息した。腕の中の少女は、なんと軽いのだろう。まるで一筋の光を、この手に抱き留めているかのようだった。あるいは、今にも指の間から零れ落ちそうな、淡い影そのもののようでもある。確かに触れているはずなのに、その感触はあまりにも儚い。だが、その頼りなさの奥からなお、言葉にし難いほど巨大な力の名残だけは、確かに感じ取れた。そして今、その力が凄まじい勢いで失われていくこともまた、パーリセウスにははっきりと分かった。
しかも、彼女の美しい瞳には、もはや自分の姿が映っていなかった。自分という存在がそこから消えてしまったのか。それとも、いかなる光すら、もはやその眼差しの奥へ届かなくなっているのか。
いまさら不敬かどうかなど、気にしている場合ではなかった。塵世において最も強大で、最も美しい存在――トリヤ・スペースという名の少女が、今はこれほどまでに弱り、これほどまでに無防備になっているのだ。
せめて、自分の少しでも厚みのある胸で、この敬愛する女神に本来あるべき威厳を取り戻させてやりたい。そう思いながらも、パーリセウスの心には無数の思いが去来していた。強く抱き留めたい。だが、ほんの少しでも力を込めれば、この白い肌に傷ひとつ、痕ひとつ残してしまうのではないか――そう思うと、指先にさえ力を込められなかった。
トリヤ・スペースの意識は、まだ失われてはいなかった。ただ、あまりにも急速に弱っているだけだった。細く白い手が、彼のいる方角を探るように、そっと数度、パーリセウスの頬へ触れる。それは慰めだったのかもしれない、もしくは慈しみだったのかもしれない。最も強き自らの衛士を前にしてなお、彼女は端正さを失わず、静かな善意を保っていた。
自分が塵世を守ると誓って戦い始めてから、どれほど多くの仲間が目の前で倒れていっただろう。どれほど多くの、自分が愛した命が、この胸の前で最後の息を吐いたことだろう。
すべては悪魔のせいだった。
ソロムネスのせいだった。
逆世という存在そのもののせいだった。
友、愛する人達、彼らは死ねば終わりではない。本来なら塵世の循環の中で別の命へ還るはずの魂すら、悪魔と逆世の干渉によって断たれ、二度と蘇ることも、他の生へ転じることもできなくなる。命も、魂も、永遠に失われるのだ。
そこまで思い至った時、パーリセウスの胸には悲しみと憤りが一度に押し寄せた。
だが、トリヤ・スペースの少し冷たくなったようにも感じられる小さな手が頬に触れたその瞬間、彼はようやく気づいた。自分の悔恨の涙が、すでにこの静かで暗い宇宙の中へ散っていたことに。
もし、自らの命を差し出すことでトリヤ・スペースを、そして塵世を取り戻せるのなら、彼はむろん一片の躊躇もなくそうしただろう。
だが、実際にトリヤ・スペースへ触れたことで、彼は理解してしまった。自分が今まで授かってきたもののすべてを返還したとしても、それでもなお、塵世のあらゆる力を超越する“宇宙の意志”たる空間神の前では、それらはほとんど意味をなさないのだと。
宇宙の力とは、何と巨大なのか。
そして、自分という存在は、何と小さいのか。
自らの命も、生涯をかけて積み上げてきた膨大な魔力も、世界の化身を前にすれば、海へ落ちた一粒の砂にも等しい。その現実が、彼に自分の無力と狼狽を、これ以上ないほど惨めに突きつけていた。
アルボルシューと、他の四柱の虹神たちは、その時パーリセウスの背後に静かに立っていた。彼らにとって十二守護神とは、父母にも等しく、また創造主そのものである。事態がここまで至るなど、誰ひとり予想していなかった。心の内にはなお多くの疑問が渦巻いていたが、それでも今の彼らにできるのは、最後の護り手のように、創世帝の背後で厳かに立つことだけだった。
その時、ガリシュ・タイムの少年めいた顔には、わずかに憂いの色が差していた。だが、その声音は依然として冷静で、秩序立っていた。
「パーリセウス。逆世の衝突を受けた時点で、塵世を支える定則はすでに完全に損壊している。私たちの力は、今も加速度的に失われ続けているのだ。そしてその中でも、トリヤ・スペースの空間の力は、私を除く他のすべての権能の総和に等しい。ゆえに、他の守護神の力が削がれれば、最も大きな影響を受けるのは、トリヤ・スペース自身だ」
「はい、ガリシュ大神……。かつて悪魔を一匹残らず滅ぼせなかったこと、今になって深く悔いております。すべては私の責任です……」
パーリセウスは恥じ入るように頭を垂れた。
するとトリヤ・スペースが、かすかな声で彼を慰める。
「そんなふうに、自分を責めないで……」
その声は弱々しかったが、それでもなお優しかった。
ガリシュ・タイムは続けた。
「私たちは、ほどなく守護神としての権能を失う。この世界はすでに、ここまで崩れてしまった。今の私では、時間と空間の崩落を抑え続けることすら、もう限界に近い」
そこで彼は、ほんのわずかに言葉を切った。
その沈黙の間に、他の守護神たちも彼の周囲へ集まり、パーリセウスの前に大きく立ち並ぶ。だが、そこにあったのは責めるような気配ではない。彼らの視線にあるのは、ただ痛ましさと憐れみだった。
やがてガリシュ・タイムは、静かに手を差し出した。
まるで、パーリセウスの手を取ろうとするかのように。
パーリセウスもまた手を伸ばしかける。だが、自分の身分と、目の前にいるのが神であるという事実が、その動きをためらわせた。触れてよいのか。握ってよいのか。そう思ったまま、彼の手は宙で止まる。
その躊躇も、自らを卑下する気持ちも、ガリシュ・タイムは見抜いていた。
だからこそ彼は、自分よりもずっと大きく、甲冑に覆われたパーリセウスの手を、逆に両手で包み込んだ。
その瞬間、パーリセウスは、時間神の側から流れ込んでくる律動ある神力を感じ取った。それは熱を持った炎のようでありながら、静かに、しかし確かに、彼の胸の奥へ吹き込んでくる。
「あなたは、塵世で最も忠実な衛士だ。そして、この世界の命を救う責を背負うに足る王でもある。私は、塵世の時間の守護神として、あなたにこの世界を託したい。どうか決して諦めるな。決して挫けるな」
少年神のその言葉は、まるで鋼を打ち固める最後の一撃のように、パーリセウスの胸の内で“決意”という名の鎧を完成させた。それを身にまとったならば、どれほど険しい前途であろうと、必ず踏み越えていける――そう思わせるほどの力が、その言葉にはあった。
パーリセウスは何も言わなかった。
だが、その揺るがぬ眼差しと、深く身を折る礼こそが、すでに彼の意志のすべてを示していた。
ガリシュ・タイムは微笑んだ。
その笑みはまるで、一筋の温かな陽光のようだった。暗い夜をまっすぐ照らし、パーリセウスはただその光を仰ぐだけで、すでに救われたような気持ちになった。
「私たちは、あなたを創世帝として選び直したことを、心から喜んでいる。そして、その選択を悔いることは永遠にない」
「これより私は、あなたを大戦が始まる前の塵世へ送り返す。あなたが過去へ辿り着き、その時代のあなたと入れ替わりを果たしたなら、このすでに崩壊した塵世は、時間の長流における一つの失敗した可能性として、完全に消去されるだろう」
「そして、あなただけは、このすべての記憶を保持したまま残る。そうでなければ、あらゆる禍根を根本から断ち切ることはできない」
時間神の言葉に、パーリセウスは深く驚かされた。時間神が時間そのものを絶対に掌握していることは、もちろん知っている。だが、過去の自分と立場を入れ替えるなどという事態は、彼自身、一度たりとも経験したことがない。
とはいえ、ここまで至った今、時間を越えられぬ他の守護神には不可能であり、この役目を果たせる者は、自分しか残っていなかった。
パーリセウスは再び視線を落とし、腕の中の少女を見つめた。喉の奥は、何かに強く塞がれたように苦しかった。伝えたい言葉は、数え切れぬほどある。だが、この局面においては、そのどれもがもはや枝葉にすぎない。ためらう余地はない。今すぐ出発しなければならないのだ。
彼は、ガリシュ・タイムの双眸を真っ直ぐに見返し、はっきりと告げた。
「この使命、必ずや汚すことなく果たしてみせます」
それから彼は、トリヤ・スペースをそっと横たえ、静かにガリシュ・タイムの方へ歩み寄った。
背後では、アルボルシューと他の虹神たちがトリヤ・スペースの身体を支え、深い敬意を込めた眼差しでパーリセウスを見送っていた。
その一方で、ガリシュ・タイムの澄んだ青金色の輝きの奥には、かすかな悲しみと喪失の色が差していた。彼の言葉には、どこか謝罪にも似た響きが混じっている。
「今の私には、これ以上多くの存在を逆行させ続ける余力はない。無理に二人以上を送り返せば、過去そのものの定則が、その場で崩壊するだろう」
そう言い終えると、ガリシュ・タイムはゆっくりと双眼を閉じ、両腕を十字架のように大きく広げた。神々しい光が四方へ溢れていく。
「行くがよい、パーリセウス。塵世のために」
少年神の前方に、白い大門が現れた。それはかつて塵世守護神たちが姿を現した時の白門に酷似していた。門扉一面には輝く銘文が刻まれ、そのひとつひとつから、烈風のような勢いを帯びた神力が立ち上っている。
この門をくぐれば、自分はこの世界と本当に別れることになるのだろうか。
たしかに、過去の塵世へ戻れば、そこにいる神々にも再び会うことはできる。だが、この今の世界は消えてしまうのか。
いや――本質的には違う。
もし自分が過去において、この破滅の発生そのものを阻止できたなら、塵世の意志である守護神たちが消滅するわけではない。消えるのは、時間の長流の中に生じた一つの可能性にすぎない。悪夢のような未来の泡影、その一つだけだ。
その代わり、過去の自分とは必ず入れ替わらなければならない。そうしなければ、過去の定則が破綻してしまう。
そこまで理屈では理解していた。
それでも、パーリセウスは振り返った。
名残を断ち切れないように。執着を捨てきれないように。
この宇宙を、この星空を、そして何より、あの変わらず美しい少女を、もう一度だけ見つめた。
まるで、心の底から別れを告げるように。
そして彼は前を向く。
迷いなく、その白き門を押し開き、あの満ちた光の中へと踏み込んでいった。
その時だった。
トリヤ・スペース――空間の女神は、すでに光を失った双眸から、透き通る涙を零した。その涙は宇宙の中を一筋の流星のように滑り、静寂の中へ溶けるように消えていく。
「どうか、成功して……パーリセウス……」
かすかで、だが限りなく優しいその言葉は、果たして白光の中へ踏み入ったパーリセウスのもとへ届いていたのだろうか。




