碌・遠き日の残響 前
右手をつつみこむ両手から、ほのかな温かさが伝わってくる。
日頃は、はるかの方が体温が低い。玉織人の特性なのか、斎一民の秋良が触れるとひやりとするほどに。
今はそれだけ、自分の体温が低いということなのか。
視界が安定しない秋良は、霞かかった頭でそんなことを思いめぐらせる。
無言のままの時間を不安に思ったのか、はるかは突然早口でまくし立てた。
「あっ、あの、今まで話してたのって聞こえて……いやや、それは秋良ちゃんが起きたなら直接……言うのも恥ずかしっじゃなくて! と、とりあえず雀蓮さんを呼んでくるねっ」
立ち上がりざま扉へ向かい、半開きのそこへぶつかりながら廊下へ消えた。
忙しない足音、階段を降りる音が遠ざかっていく。
慌ただしい奴……。
口端に意図せぬ笑みが浮かんでいたことに、秋良は気づいた。
この騒がしさを懐かしく感じるのも当然といえば当然か。夢の中で八年の時を過ごしていたのだ。
戸惑いと同時に胸の奥に芽生えた温かさが、手の温もりとあわせて全身に広がっていく。
ややして、階段を上がる足音が聞こえた。ふたり。はるかのすぐ後ろに続く、男の足音。
喉のあたりにしびれるような、ひりつくような感覚が起こる。緊張しているのだ。
「失礼するよ」
記憶の奥に残されているものと同じ、柔らかな声色。
開け放たれたままの扉から歩み寄る姿。うっすらとぼやけて見えていた視界が、明瞭になってくる。
ほんの一瞬でわかった。明るい榛色の束ねた髪、優しげな面立ちは幼き日に焼きついた先生の姿と変わりない。ただあの日、春時に奪われたのであろう瞳だけは、深い紅色をしている。
秋良の中に、血濡れの直刀を提げた兄の姿が浮かぶ。その刃が、先生から青藍の瞳を奪ったのだ。
視線を反らした秋良のかたわらに、雀蓮が身を屈める。
「こちらを見て」
うながされ、やむなく視線を動かす。瞳の紅い色が、横たわった秋良の鳶色の瞳を見下ろした。
実際にはさほど長い時間ではなかったのかもしれない。秋良が視線を外したい衝動に耐えられなくなる直前、雀蓮は身を起こす。
「状態は極めて良好だ。明日には共に出発できるだろう」
「ほんとう!? よかったぁ」
はるかが安堵の声をあげたその終わりにかぶせて、腹の虫も鳴きだした。
両手で腹を押さえて赤面するはるかに、雀蓮がほほえむ。
「もうすぐ里夢が夕食の支度を終える時間だね。君は食事を済ませておいで」
「えへへ、あんまりいい匂いがしてるから……じゃあ秋良ちゃん、またあとでね」
はるかが笑顔で手を振り、階下へ向かう。
その背中が部屋から消える頃、ようやく秋良の鼻にも野菜を香草で煮ているであろう香りが感じられた。
「少しずつ感覚が戻ってきているようだね」
「せ、先生……あた、し……」
かすれ声も切れ切れに起き上がろうとする秋良を、雀蓮は制した。
「まだ話すのは辛いだろう。無理はしないように」
枕を秋良の背に入れ座らせる。寝台横の棚に置かれた水差しから一杯注ぎ、秋良の口元に運ぶ。
驚いた秋良は首を横に振った。
「い、いい……自分で、飲め、ます」
「そう。急がず、少しずつ飲むんだよ」
重い腕を動かして器を受け取る。言われた通り、わずかな水を含んでは飲みこんだ。
雀蓮こそ、最後に会ったのは十歳の時。しかもあのような事件が起き、それから仇と思いこみ八年を過ごしてきた。どのような顔をしてどう接したらよいのか……。
すると雀蓮が思案顔で首をかしげた。
「目覚めたからには、やはり一番聞きたいのはあの日のことだろうね」
突然の核心をついた言葉に、秋良は水を誤嚥しかける。
こちらの心が読めているのではないかという疑惑を持つ秋良をよそに、雀蓮は先程まではるかが座っていた椅子に腰かけた。
「僕が話しているあいだに、少しでも辛いと思ったり、身体に異変を感じたらすぐに言うんだよ。いいね」
念を押す彼に秋良がうなずく。それを確認し、雀蓮は過去の記憶をたどった。
以前の雀蓮は定住する地を持たず、医師としての役目を果たすべく双月界各地をめぐっていた。
魔竜の乱で守護石が破壊された影響は早くも出始めていた。各種族の民のみならず、動植物も不調をきたしつつあるのだ。
そんな中、風翔国の山地で妖魔化した獣に襲われている兄妹を助けた。それが春時と秋良だった。
春時に強く懇願され、村に留まることを決めた。それまでどの場所でも長期の滞在を断り続けてきたにも関わらず。
妹を守るために剣を教えてほしい。そう強く願う春時の言葉に、なぜか懐かしい気持ちを覚えたのだ。
自分には家族もなく、ただひとり。医師としての役割を果たすために存在する。そんな記憶しかないはずなのに。
ほんの少しの間なら、そう自分に言い聞かせ。
風和の村で彼らの剣の師として、医師として、気づけば二年もの時を過ごしていた。
その日雀蓮は、病に倒れた夫人の治療のため村長宅を訪ねていた。春時は村の男たちと狩りに出掛け、置いて行かれた秋良は雀蓮の手伝いをしている。
「村長! 大変だ」
突然飛び込んできた若者を雀蓮がそっとたしなめる。
「奥様が奥でおやすみ中ですよ」
「あ、先生……すみません。その、街に向かう途中の橋で妖魔を見たって行商人が」
「なんだと?」
壮年の村長が、若者の後ろに控えている薄毛に眼鏡の行商人を見やる。商人の青ざめた顔に村長は拳を固めた。
「男連中が出払っている時に……私とお前で見に行こう」
「えぇっ、俺っすか」
若者は包帯を巻いた左腕を首から吊っている。腕を負傷したために今日の狩りに参加していなかったのだ。
「片腕でも鉈刀くらい持てるだろう。私が先に行くから心配するな。私になにかあったときに村に知らせる者が必要だ」
「僕が行きましょう。村長は奥さまのそばに」
雀蓮は秋良を連れて村長宅を出た。少し進んで、背後の秋良を振りかえる。
「秋良はここに」
「あたしも行く!」
予想していた返答だった。兄の春時もそうだが、一度言い出すと聞かない頑固なところがあるのも充分承知している。
「わかった。じゃあ、村長の言っていたとおり秋良は僕の後ろに。僕になにかあったときは、村に報せに走るんだよ」
「だいじょうぶ、先生は強いもん。それに、あたしだって先生の援護くらいできるよ」
「ははっ、心強いな。決して油断はしないこと。いいね」
雀蓮は膝をつき秋良に視線を合わせる。真剣な表情で念を押すと、秋良は幼い笑顔を緊張に引き締めてうなずいた。
もちろん妖魔が出たとしても問題なく退ける心づもりではある。秋良を危険にさらすことは決してしない。もし春時と離れているときに秋良になにかあれば、合わせる顔がなくなってしまう。
師として引き受けた以上、ふたりのことはこの手で守るのだ。
このとき、雀蓮をもってしても予測することはできなかった。
村を挟んで反対側、男たちが向かった森の中で春時が災厄に襲われるということを。
【玉織人の体温】玉織人は結晶石と呼ばれる様々な宝石の原石から玉織の儀により産み出される。その心臓には結晶石が核として備わっており、平常時の鼓動は多種族にくらべ緩やか。ぱっと見、斎一民と変わらない外見だが、体温はずっと低い。
【村長】現在の風和の村にいる七夕と七生の父。妻が病にかかったため、子供たちは街の親戚宅に預けられた。
【行商人】陽昇国、沙里の町にいる商人・吉満の従兄弟・行満。この後すぐ村を発ったため事なきを得る。後に秋良から受けとった金を、吉満が差出人不明のものとして行満に渡し、行満が七夕たちに届けていた。




