肆・真実の断罪 後
秋良は森の中を駆けていた。
追ってくるのは影だ。地面から立ちあがり、闇の身体で秋良を捕らえようとする。
「つーかまえた! 待ってらっしゃい、今そこまで行ってあげるわ」
幼女の姿をした妖魔……薫路という名だったか。
「そっちだけ触れるなんざ、反則だろうが」
そう毒づいて、影に掴まれた髪を小曲刀で切り落とした。
「もういいわ、つまんない。無月が追いついてきたから任せちゃう。あたしは稀石姫と遊んでくるわ」
薫路と入れ替わりに現れた、狐面の男。
尋常ならぬ殺気を放つ無月という痩身の男は、疲弊していたとはいえ翠を苦戦させた。
勝ち目がないなら逃げるしかない。
逃げ切れる可能性とて限りなく低くとも。それすらあきらめたなら、死ぬしかないのだ。
秋良は川を背に、追いついた無月を迎え撃つ形となった。
無月の、おそらく直刀による一撃が脇腹へ食い込む。
同時に、首筋から狙いが逸れた秋良の小曲刀が無月の面を割った音と手応え。
どちらも完全に入る前に、秋良は自ら後方へ跳んでいた。
身体は落下し、水面を打って水没する。
どれだけ流されただろう。自ら泳いで岸を目指す力はすでにない。
川が湾曲し流れが緩やかになった岸へ流れ着いた。
秋良は咳こんで水を少し吐く。力を振り絞って岸の泥土を、その先の草むらを、這い進む。
苔の群生地として開けた場所まで到達し、腕脚に力が入らなくなった。
眼はかすみ、低くこもった音の耳鳴りが止まない。
うつ伏せになったまま、失われそうな意識下で無理やり思考を回す。
川の中で、腹部の傷から大量に血が流れた。まずは、傷を塞がなくては。
その時、気配がすぐ近くにまで迫っていることに気がついた。
気づいたとして、身体を動かす力は残っていない。そのまま様子をうかがうしかなかった。
秋良の身体は、静かにうつ伏せから仰向けに転がされた。
霞む視界に、旅外套の頭巾を目深に被っている人の姿が映る。
頭巾が落とす影のため顔はよく見えないが、中肉中背の様相から男のようではある。
男はじっとこちらを見下ろしていたが、やがてしゃがれた小さな声が降ってきた。
「運び屋の秋良、か?」
なぜ、その名を知っている。
陽昇国では名を馳せたが、大陸で知っている者はいないはずだ。
男は小刻みに肩を揺らした。それは唇から漏れる笑いに変わる。
「くくくっ、ははは! まさかこんな所で出くわすとは、生きながらえてみるもんだな」
頭巾が外され、顔があらわになる。
左の腰から剣を抜くとき、左腕が肩の下から欠落しているのが見えた。
「思い出せねぇか? わかるぜ。俺も殺した奴らの顔をいちいち覚えちゃいねぇからな。俺ぁ沙流砂漠でお前に殺られた紅蠍三兄弟の生き残りさ」
紅蠍……記憶の糸を手繰る。
金目当てにわざわざ狩られにきた、腕に赤い蠍の刺青をした賞金首たちだ。
とどめを刺せなかったひとりは、逃す前に左腕を切り落としていた。
「兄貴と弟の仇を取らせてもらおうか……いや、その前に俺の腕を奪われた分からいただくぜ!」
右上腕に走った新たな痛みで、意識が明瞭になる。悲鳴はあげなかった。歯を食いしばり耐える。
「ちっ、つまらねぇな。どこまで耐えられるか……!」
剣が再び振りあげられた瞬間。
秋良は見えないよう隠していた小曲刀を手に立ち上がる。その勢いのままの刺突。
それが心臓を捉える直前の紅蠍による反撃は、避ける余力なく秋良の右眼を奪った。
返り血と、自らの血に濡れたまま。
秋良は重い足をどこへともなく、森の奥へ向けて引きずり進む。
――己の行動は必ず己に還ってくるもの。良かれ悪しかれ、な。
それは、暁城で泡雲が言った言葉だったか。
因果応報? 違う。あの時きっちり始末しなかったからだ。奪い奪われる世の中で、情けなんて枷にしかならない。
胸の奥がずきりと痛むと同時に、足がもつれる。
均衡を崩し横に倒れた身体は、坂を転げ落ちていく。
木の幹根にぶつかり、滑落が止まる。
もう、本当に動けなさそうだった。
あらゆる感覚がないのだ。
死を間際にしての幻覚なのか。長年探し求めていた姿が近づいてくるのが見えた。
記憶よりも長くなった、明るい榛色の髪。青藍の瞳は、何故か血赤の色に変わっている。
「秋良……」
だが、その顔立ちも声も。紛れもなく幼き日から記憶に焼きついた師のものだった。
掠れた息だけが漏れる自身の唇から声は出ない。が、呼ぼうとした形でわずかに動く。
雀蓮の手が、秋良の頬に触れる。
「よくがんばったね。しばらくの間、全て忘れて眠るといい。心と身体を休めるんだ」
変わらぬ声。
欲しかった言葉。
血ではない温かいものが秋良の頬を濡らした。
――いや、おかしい!
強烈な違和感に、秋良の意識はふたりだけの闇の世界に引き戻された。
「ずっと村の……兄の仇として憎んでいたはずなのに、この感情は……?」
村娘の秋良は、記憶の余韻で流れる涙を拭った。眼前にいる運び屋の秋良に訴える。
「もっと、なにか思い出せていないものがあるはず。この時、先生に会う前に!」
運び屋の秋良は双眸を鋭く細めた。
「いいのか? 思い出して。思い出せないものほど、心の瘡蓋をこじ開けるものなんだぜ」
そう言われて躊躇しないわけではない。
知ることへの恐怖が、知らずに過ごす世界への誘惑が。今も淀のごとく全身にまとわりつく。
「でも、あたしは知らなくては。そうしなければ、完全に夢から覚めることができない」
そう気づき始めていた。
ずっと誰かが、自分を呼んでいるのだ。
刹那、記憶が巻き戻った。
それは無月と一撃を打ちあった、川に落ちる直前。
秋良の一閃は、腹部への斬撃を受けて狙いが逸れた。無月の首筋から、狐面へ。
硬質な手応えと乾いた音。自身から吹き出した血で、無月の姿が隠れ――
違う。
見えていないと、そう思いこんだ。
割れた面の奥に隠されていた、素顔。
見逃すはずがない。
見る影なくやせ細っていても、そこに残された面影を。
たったひとり残された、秋良の肉親なのだから。
「そんな……っ」
村娘の秋良は口元を手でおおって、しゃがみこんだ。
瞬く間に、幼き日の記憶が塗り替えられる。
村で見た、最後の光景。
こちらを捉える、人とは思えぬほど冷たい眼。その手に血濡れの剣を握っていたのは、雀蓮ではない。
兄の春時だったのだ。
【薫路】妖魔六将側の人型妖魔。かつて深羅から、『煌樹の半身』という発言があった。
【無月】狐面を被り、幅広の直刀と細身の孤月刀を駆使する痩躯の妖魔……と思われていたが、秋良の兄・春時だった。その身から発する妖気は妖魔のもの。




