参・影の刻印 前
眼を覚ましてから、一体どれだけの時間が経っただろうか。
一間半四方の石造りの小部屋には窓が無く、今が昼なのか夜なのかすらわからない。
湿った空間はどこか黴臭く、部屋の角には粗末な厠と思しき物がある。
反対側の壁には鉄で補強された木戸。錠により硬く閉ざされており、耳を澄ませても外からの音は一切聞こえない。
持っていたはずの小曲刀は、部屋のどこにも見当たらなかった。
室内の様子がわかるのは、床の中央に置かれた携帯用の燭台があったからだ。目覚めたばかりの時と比べると、蝋燭の長さは半分くらいにまで減っている。
芯が時折燻る音を発すると、橙色の炎が揺れる。その様子を見るともなしに見つめながら、秋良は扉を正面に見据える壁を背に膝を抱えてうずくまっていた。
火の点いた蝋燭を置いてくれた人がいる。少なくとも一、二時間前には。
だからと言って、これから人が訪れてくれるとは限らない。
このままこの火が消えてしまった後。誰も訪れることもなく、そのまま捨て置かれてし
まうかもしれないのだ。
それでも、今のところ気持ちは落ち着いている。今は、まだ……おそらく、明かりのあるうちは。
もう、命はないものと思っていた。
秋良を助けてくれた行商の家族は、襲ってきた賊にたやすく命を奪われた。
その賊を一瞬にして仕留めた、小太刀の男。
賊を討ったのは事実だが、きっとあの男達もまともな仕事を生業にしているのではないだろう。直感的にそう感じていた。
自分をこの場所に閉じ込めたのも、あの男達なのだろうか。それとも――。
考えても答えは出るはずもない。
それでも同じ事ばかり考えていたのは、それ以前に起きた事件を思い出すのを無意識に避けていたからなのだろう。
秋良の思考を遮った音が、同時に疑問の答えをもたらした。
錠が解かれる音に次いで、戸の軋みが石壁に反響する。開いた戸から中へ入って来たのは、顎鬚を生やした頑強な体躯。四十前後の――あの小太刀の男だ。確か、焔と呼ばれていた。
後ろ手に戸を閉め、無言のままに秋良を見下ろす。鋭い眼光が生む威圧感に、秋良は追い詰められた兎のごとく身を縮めた。
その様子を無感情に見つめたまま、焔は言葉を投げる。
「生きたいか……?」
震えを押さえ込もうと腕を掴んだ手に力を込めていた秋良は、耳に届いた音の塊をすぐに認識することができなかった。
答えを待たず、焔は更に問いを重ねる。
「なにがあっても、どんな目に遭っても、生き延びる覚悟はあるか?」
いきる――かくご。
秋良の命を奪おうとし、目前の男の小太刀に首筋を裂かれた賊の青年。
腕に抱いた我が子もろとも貫かれた母。肩から胴へ切り裂かれ、妻子の遺体に重なるように倒れた行商人。
秋良の中に、ほんの数日の間に目の当りにした無数の死が過ぎる。
死を選ぶと選ばざるとに関わらず、奪われていく命。
真紅の海に転がる、斬り刻まれ切り離された村人たち。
つい数時間前まで同じ時を過ごし共に笑い合っていたはずの人が、もたらされた死により感覚も感情も持たない肉塊と化す。
村に死を振りまいた男の姿が嫌が応にも蘇る。
その凍るような双眸に心臓を握りつぶされた。
錯覚に息を呑み、意識は現実へと引き戻される。
噴出した汗がこめかみを伝う。それを冷たいと感じる肌が、存在を誇示するべく激しく脈打つ心臓が、今生きている自分を認識させた。
生きる意志を失うということは、すなわち死を選ぶという事だ。
命がこれほどまでにあえなく失われていくものならば、生きる意志を失った命はどれだけはかないものだろう。
「……き……」
緊張に張り付いた喉をこじ開け、秋良は声を絞り出す。
「いき、る……生きたい……っ」
決して、手放してはならない。
なんとしても自分自身の手で守る。
何故、あんなことになったのか。
兄は生きているのか。
会って確かめたい。
死んでしまえばそれも叶わないのだ。
いつしか身体を支配する恐怖は消え、震えも収まっていた。
焔は秋良の答えを、なにより鳶色の瞳に宿った雄弁な答えを得て言った。
「ならばここで、そのための強さを手に入れてみせろ」
その時から、それまでの生活からは想像もつかないような日々が始まったのだ。
そこは、今は使われていない古い砦だった。山奥にあると推測できるだけで、どこにあるのかも定かではない。
砦には秋良と同じ、いや、それ以上に幼い子供もたくさんいた。女児もいたが数えるほどしかいない。
秋良のように焔に会ったという子供はおらず。そのほとんどが、非合法な手段でこの場に連れてこられた。
そしてひとりの例外もなく、日々過酷な訓練を強いられる。
時折、新入りの子供達が数人、砦へと放り込まれる。中には、なんとかこの地を逃れようと画策する者も少なくない。
元来要塞として建てられたのであろうこの砦は岩山を背にし、砦から伸びる環状の回廊を兼ねた城壁に護られている。窓は無く、外壁の各所に矢狭間があるばかり。
脱するには常時見張りが立つ城門を抜けるしかない。しかも子供達が押し込まれている区画は最奥部にある。城門に至るまでは四つの区画を抜けなくてはならないのだ。
実行に移そうとも、子供の力で抜けられるものではない。見張りに囚われた者が眼前で処刑され、他の者達は脱出しようとする気も失せる。
脱出が叶わぬとなれば、言われるままに訓練に従事するしかない。それでも、見込みがないとみなされれば始末される。
誰もが生き残るために、文字通り必死で『仕事』をこなすための技術を身体に叩き込むのだ。
そうして作り上げた人材を利用して、ありとあらゆる犯罪を金で請け負う。それが『火影』という組織だった。
【火影】風翔国の民は各国に散ったが、復興を目指す王族や諸侯はまだ存在する。王権を巡った水面下の攻防に、焔が暗躍している。焔自身が、王族の末席に名を連ねる者であるという噂もあるが、定かではない。




