弐・微火 後
馬が高くいななき、不自然に馬車が揺れた。秋良の意識は夢と思考のはざまから浮上する。
「どうした!?」
「賊がっ……掴まっていてください!」
商人の問いに答える御者の声に焦燥がにじむ。
馬車の揺れと車輪の音が激しくなる。そこに混じる母子のおびえた悲鳴。
秋良は朦朧とする頭を起こす。揺れる帳の間から馬に乗った男が数人垣間見えた。同時に風が顔の横をすり抜ける。背後から『かっ』と乾いた音。振り向くと詰まれた木箱に矢が突き立っていた。
「顔を出しちゃだめ!」
身を伏せた母親が左腕で秋良を引き寄せた。右腕には声を殺して泣く娘を抱えている。
刹那、馬車を激しい揺れが襲う。母親の腕が離れ、秋良の身体は宙に投げ出された。
男達の声や馬のいななきが響き渡る中、秋良は背中から落下した。力ない身体は繁った草むらを転がる。落ちた場所が幸いしたが、今の秋良の身体には十分な痛手だった。胸の包帯に血がにじみ始めている。
秋良は荒い息を極力殺し、帯に差していた小曲刀が在るのを確認する。仰向けの身体を静かにうつ伏せた。
馬車は道の端で横転している。馬車を引いていた二頭の馬も同じように倒れ、ぴくりとも動かない。
男の悲鳴が木々の間に響く。
反射的に秋良の肩が跳ね、鳶色の瞳を音の元へ向ける。
馬車を取り巻き馬を降りているのは、人相風体からして野盗の類だとすぐにわかる男達が六人。
二人が抜き身の血刀を提げている。その前に深手を負い動けない商人が立っていた。
まるで無声劇のように、時の流れがそこだけ緩やかになったかのように。
商人の男の身体はゆっくりと地面へと傾いていく。
地面には、我が子を自らの身で守らんと抱きしめる母親が倒れている。その上に息のない父の身体が崩れ落ちた。その重みを受けてさえ。母子の身体は、かすかにも動かなかった。
早鐘を打つ胸の鼓動がさえぎっているのか。自身が拒絶しているのか。
周囲の音がよく聞こえない。
呼吸が苦しい。
それでも、震える手足はその場から離れるために草を分ける。
「――!」
眼前の地面に白刃が突き立てられた。声が頭上に降り注ぐ。
「どこへ行くのかなぁ。家族は一緒のほうがいいよなぁ?」
すぐさま起き上がる。行く手を塞ぐ男と街道、両方から逃れる方向へ走り出す。
男が草を踏み追いかけてくる気配を背中に感じながら、必死で駆ける。
「俺、ちょっとこの子と遊んでくるわ」
「ほどほどにしとけよ。置いてくぞ」
少し遠くから聞こえた男の言葉通りだった。
逃げるのは子供の足。その気になればすぐにでも追いつき始末できるのだろうに。距離を確認すべく、ちらと振り返り見た。離れた位置、下卑た嘲笑を浮かべる男の刀は鞘に収められている。
――そうだね……秋良は子供だから、それで油断をするような相手になら勝てるはずだよ。僕に教わった事を充分に発揮できればね。
ふと思い出されたのは、先生の言葉だ。
教えを受けてしばらく経った頃に、自分は強くなっているのかという秋良の問いかけに、彼はそう答えた。
――そんな事態には、ならない方がいいんだけど。
優しい声。柔らかな榛色の髪と、優しく笑む青藍の瞳が思い出される。視界を遮ろうとする涙を必死に振り切った。
兄の安否を知るためにも、理由を聞くためにも。探さなくてはならないのだ。
あの人に、先生に、会わなくてはならない。
そのために生き延びなくては。
ずいぶん駆けたように思うが、実際はそれほどの距離ではないのだろう。
しかし、心身ともに疲弊している秋良にとっては登る一歩一歩が重い。まばらな木々の合間を抜ける斜面は次第にきつく、秋良の速度を奪う。
獣が小さな獲物をいたぶるかのごとく後ろを追う男。距離は徐々に詰まっている。
「良く逃げたが、付き合えるのはこの辺までかな」
予想以上に近い距離から聞こえた声に心臓が跳ね上がる。
左手首を男の右手が掴んだ。
秋良の身体を引き寄せ、その腕の中に捕まえようとした刹那のできごとだった。
身をひるがえした秋良は、男が引く力に自らの脚力を乗せて強く地を踏み切った。
追手の視界から隠しつつ抜いてあった小曲刀を握った右手に、渾身の力を乗せて鋭く突き出す。
男に対し、こちらは山側。背の不足は地形が補ってくれる。
肋骨と肋骨の間、骨を避けるように。先生に教わったとおりに。
手に、肉を裂く手ごたえが伝わってくる。
男が振り払うように秋良の左腕を突き放し、秋良の身体は地面に投げ出された。
見上げると、男の胸には小曲刀が刺さっている。
秋良を突き飛ばすと同時に、男は腰の刀を抜き放っていた。
「こ、この……餓鬼がぁ!」
浅かった……片手では力不足だったのだろう。
もう、逃れるだけの力もない。
秋良は振り下ろされる刃から視線を外すこともできず、ただ愕然とその切っ先が流れるのを見つめた。
噴出した血が頬に降りかかる。
痛みはない。
男の刀は、秋良のすぐ脇の地面に力なく触れただけだった。身体も、それに続いて地面へと崩れ落ちる。男の首筋は、見事な太刀筋で斬り裂かれていた。
男が倒れた事で、いつの間にかその背後に忍び寄っていた人物の姿が見えた。
四十歳前後のその男には、まるで隙というものがない。確かに眼の前に立っているにもかかわらず、まるで影のように気配を感じさせない。それでいながら見る者を圧倒する威圧感を全身にまとっている。
鋭い眼光に、秋良は呼吸すら忘れその場に固まっていた。
彼の眼は秋良の足元に倒れる野盗の男に向けられており、屈強な体躯を持ちながら風のごとく軽やかな所作で小太刀を腰の鞘に収める。
「規を破ったばかりか野盗に身を落とすとは……恥知らずめ」
足で死体を転がした時、彼の表情に変化が生じた。
それまで彼自身とその手に掛けた男以外は存在しないかのように振舞っていた。が、その時初めて秋良を見たのだ。
感情の読めぬ黒い瞳で秋良を捉え、無表情のままに問う。
「この小曲刀はお前のものか」
答えようにも、全く声が出なかった。
馬車で目覚めた時からなのか。この男の存在への、自らに降りかかった事態への恐怖のためなのか。
ただ、帯の前に差してある小曲刀の鞘を両手で握り締め。眼の前の男を見つめ返すしかできなかった。
男は小曲刀を死体から抜き取った。
震える秋良にその手を伸ばし鞘を掴む。握ったままこわばった秋良の手ごと引き寄せ、小曲刀の刃を差し込む。鞘が小曲刀を綺麗に飲み込んだことで、男は疑問の答えを得た。
それまで張り詰めていた秋良の緊張の糸が、耐え切れずに途切れた。
湿った土と、ひやりとした草の感触が頬に触れる。
薄れゆく意識の中、若い男の声が聞こえてきた。
「焔様、こちらも全て片付きました。……その子供は?」
「連れて帰る。……撤収だ」
「はい」
誰かの手により身体が持ち上げられた感覚だけをわずかに残し、秋良の意識はまた深い闇の中に沈みこんでいった。




