東京 2015年 3月 ②
あれはクラッセンに入学してまだ間もない頃だった。
ペアでリリカルを振り付けて踊るという課題の曲選びをしようと約束していた放課後、ノエルに誘われて初めて訪れたナタリーの家で、眞子の手からすべり落ちたカセットテープをノエルが拾い、再生したのがこの《Wicked Game》だった。
「明るくてノリのいい曲の方が、まだ日の浅いパートナーとはやりやすいと思うんだ」
あのとき、この曲を聴きながらノエルが言った。
「だから逆に、こういうのに挑戦するのもいいと思うんだ」
なんだか陰気な歌だな、というのが、眞子が抱いたこの曲の印象だった。
それでも、
「裏の音までていねいに拾って緩急をつけて…」
と話すノエルの声をききながら眞子の心はもう、《Wicked Game》をふたりで踊っているところをうっとりと想いうかべていた。
一人で踊るよりも、他の誰と踊るよりも、ノエルと踊っているときにだけ殊更に音楽が、驚くほど細かい音まで自分のなかに入ってくることに、音と一体になれることに、そして確かで自由な自分になれることに、眞子はあの頃すでに気づいていた。
だからなおさら、
「マコはノエルに踊らせてもらってるようにしか見えないわ。自分でちゃんと踊りなさい」
などという教師の批判に、敏感に反応した。
足手まといや負担にはなりたくなかった。
眞子は誰の負担にも邪魔にもなりたくない。
お母さんが入院したあの時だって、お父さんやお姉ちゃんの邪魔にならないように、小さかった眞子はお母さんが元気になるまでずっと親戚の家で待っているつもりだった。
お母さんが死ぬくらいだったら、かわりに自分が死んでもよかった。
お母さんが死んでしまってから週末がくるたびに、「一人で留守番するからデートにいっていいよ」と朱美に言っていれば、幸雄を口汚くののしっては手当たり次第に電話で妹の預け先を探す、憎しみのこもった表情の姉を見ずに済んでいたかもしれない…
迷惑な存在になる前に、自分から離れるべきなのだ。
ノエルからも。
学生ビザしか持っていない眞子のことなど気にせずに、ノエルはどんどんブロードウェイやミュージックビデオのオーディションを受けてくれればいいのに…
あるいは自分もアメリカ人だったらよかったのに…
せめて英語が自分の母国語だったら…
わからないことや困ったことがあるたびに、安易にノエルにたよって鬱陶しく思われないよう気をつけた。
ノエルの叔母さん一家を訪ねるたびに、うちにも来てもらえたら、と夢想していた。
自分が例えばアメリカ人で、カンザスのようなとんでもない田舎でもいいから、自分を待っていてくれる、そしてノエルを連れて帰れる家があったら、と。
現実には日本にさえ、お正月にもお産の時にも帰る家などないのに。
あの頃、自分の奥底にくすぶっていたこのような思いは、何かの折に頭をよぎることがあっただけで言葉にしたことはなかった。
それなのになぜに今、20年以上ぶりに再会したノエルと自分に与えられた奇跡の束の間に、こんなにも辛気臭い考えを思い出してしまったのかとうんざりしながら眞子は、
「そろそろゲートに行かないと」
と告げるノエルに続いて、重い腰を上げる。
ふたりは言葉少なに、ゲートへと並んで歩いている。
話したいことがないわけではなく、ありすぎて順序よく出てこない。
そもそも、再びの別れに向かって歩くこのわずかな時間に深い話など無理だし、たわいのない話でも、と思ってみても、たわいない話すらまとまらない。
たわいない話―――たとえば眞子は
「らりるれろにはやっぱりDの音が入っているようだ」
とまだ伝えていなかったことを思いつき、言ってみようかと考えるが、その話を始めるにはまず、ノエルが20年以上も前に日本語のテキストを買った記憶があるかを確かめる必要があり、するとそのテキストであの後ノエルが日本語をどのくらい勉強したかも気になるがそんな質問はしにくい気もするし、とりあえずそんなことは省いて、自分が日本に帰国したときに「ロンドン」が「どんどん」に聞こえたエピソードを笑い話としてシェアすることもできるのだけど、あの帰国を境にふたりが離れ離れになったことを思えば、らりるれろの音がどうであれ、そんなことは死ぬほどどうでもいいのだった。
ついでに言えば、このまどろっこしい話のどの段階でノエルに、
「日本語のテキスト?買ったっけ?」とか
「らりるれろ?そんな話あったっけ?」
とか言われるかと思うとドキドキするし、さらには
「もう覚えてない。ごめん」
などと謝られたら、覚えてなくてもしかたないのに勝手に傷ついてしまいそうなので結局、らりるれろの件は声にならず、眞子の脳みそから蒸発して消えた。
ノエルと眞子は、時間差で次々に出発するアメリカ便の中からニューヨーク便のゲートを見つけ、飛行機を見渡せる冷たくてかたい椅子に並んで腰かける。
あと数分もすれば、搭乗案内のアナウンスが始まるだろう。
「あの日、まこと仲良くなりたくてナタリーの家に誘ったんだ」
ふいにこぼれたノエルの言葉で、先ほどコーヒーを飲んでいるときに耳にした《Wicked Game》が眞子の頭の中で流れだし、「あの日」からの記憶が押し寄せ、抑えていた感情がこみ上げてくる。
「踊ってる間は信頼して心を開いてくれるのに、ふだんのまこは、なんだろう… つかみどころがなかったと言うかとらえどころがなかったと言うか…」
そう言ってノエルが笑みをもらし、同時に眞子も笑っている。
笑っていないと泣きそうだった。
「一緒にすごすうちに、合うのは踊りだけじゃないんだって、こんなにも同じ言葉を話せて、こんなにも大切に思いあえる人が存在するんだって… ぼくたちはずっと、一緒にいるものだと…」
ノエルの言葉を遮るように搭乗アナウンスが響き渡り、急いた気持ちで眞子は言葉をさがす。
言いたいことはたくさんあるけど…
一番伝えなくてはならないことはなんだろう。
ノエルに謝らなくてはーーー
そう思うのだが、謝るべきことのイメージが走馬燈のように頭の中をうず巻くばかりで、言葉にうまく変換できない。
けがをして《海賊》を踊れなかったあのクリスマスコンサート。
その後も一度も一緒に舞台に立てなかったふたり。
自己管理ができず、破滅に向かい、ニューヨークに、ノエルの元に戻らなかった自分。
そして今までずっと…
「もう行かないと」
ノエルの声がのどの奥でかすれた。
立ち上がったノエルに、眞子は声をふりしぼるが、口から出たのは謝罪とはまったく別の言葉だった。
「ずっとすきだった」
ノエルがゆっくりと眞子を、眞子の瞳の奥を見つめる。
「19歳の誕生日に『すきになってくれた?』って聞かれるもっと前から、あの日リハーサル室で《海賊》を踊ってくれる前から、いつからか…ノエルと踊るのも、繋ぐ手も、顔も声も髪も、表情も話し方も、しぐさの一つひとつまで…ずっとノエルのことを…」
今も、という言葉を眞子はかろうじて呑みこむ。
「卒業式のあと打ち上げでもんじゃ焼き寄ってくるから夕飯いらないっ。30人とかすっごい人数で行くからお店探すの大変だったけど、やっっと予約できた!」
そう嬉しそうに話していた葵が帰宅するまでに、眞子は母親の顔をしてあのマンションに戻っていなければならない。
今日を最後に脱ぎ捨てる制服にしみこんだ、もんじゃのにおいをぷんぷん放ちながら勢いよく玄関のドアを開け、楽しかった!こんなの食べた、あんなのも食べた、おいしかった!といつもより高くて大きな声で、いつもより早口で機嫌よく喋りまくる娘の顔が、目に浮かぶようだ…
涙で視界がかすみ、近づいてくるノエルの表情が、眞子にはよく見えない。




