東京 2015年 3月 ①
「まこ」
こんなふうに名前を呼ばれるのはいつ以来だろう?
「ノエル...」
辛いときや不安なときに心の中で何度も何度も呼んでいた愛しい名前がいま、声になって彼の耳に届く。
ホームには次の電車に乗る人たちがぽつりぽつりと並び始めている。
到着した電車が出発し、しばらくするとまた人が列を作って次の電車に乗りこむ。
夢を見ているようで、動いたり喋ったりすれば夢は覚めてしまいそうで、ふたり静かに息をひそめる。
また新たに到着して扉が開いた電車に眞子は、成田空港に向かうノエルと一緒に乗りこむ。
お互いの存在を確かめ合うように、髪や額や唇や首筋や背中をぬすみ見るだけで、瞳の奥は覗きこめない。
何を言っていいのかもわからないまま「どうしてここに…」と呟いていた眞子にノエルが答えて、ふたりはぽつりぽつりと話し始める。
ノエルは、日本で開催されたクラッセンのワークショップのために10日ほど東京に滞在していたのだが、今日ニューヨークへ帰るということだった。
ノエルがクラッセンの教師として日本で教えたと想像しただけで、眞子の胸はいっぱいになる。
ノエルに教わることのできる生徒はなんて幸せなのだろう。
母校で教えるノエルを―――自分は中退したぶんざいなのだが―――眞子はまじりけのない純粋さで誇らしく、そして彼の生徒たちを心の底から羨ましく感じる。
今回ノエルが東京で担当したクラスの対象年齢は15歳以上だったということで、眞子が中学生のときに受けた特別レッスンとは別のプログラムなのだが、雑誌の企画でオーディションを受けたあのレッスンがすべての始まりだった、いや終わりだったのだろうかと、眞子はその後の禍福を思い返さずにはいられない。
スーツ姿の眞子にノエルは、
「どこかに行く途中じゃなかったの?」
と尋ねる。
「ああ…きょう娘の中学校の卒業式で。もう終わって帰るところだったから…」
眞子の言葉にノエルは、
「もうそんな大きな子供がいるんだ」
と呟く。
その刹那、眞子が今朝家を出る前にはめた指輪に視線がすべり落ち、ノエルは目をふせた。
呟いたノエルの声が眞子の耳の奥で、「言えることもできることも、もう何もないんだね」と言って切れた20年以上も前の電話の記憶と重なる。
You’re…と、指輪のないノエルの薬指に視線を向ける眞子に、ノエルは首を横に振り、結婚していないことを伝える。
空いた席にふたりは並んで座るが、そのまましばらく、なにも喋れない。
いま、眞子とノエルは空港のコーヒーショップで向かい合って座っている。
少しクセのあるやわらかい髪にも、長い指にも、うっすらと残るまぶたの傷跡にも、手を伸ばせばふれられるのに、視線がぶつかるたびに眞子はマグカップをきつく握っていなければならず、手のひらが痛いほど熱い。
「コーヒー飲むんだ」
と少し驚いたように言うノエルに、
「うん、ああ…今も紅茶のほうがよく飲むけど…」
と答えながら、眞子が以前はコーヒーが苦手だったことをノエルが覚えているというだけで、頬がほてる。
家では、眞子が何を飲もうが飲むまいが、食欲があろうがなかろうが、酒を飲んでいようがいまいが、誰も反応を示さない。
「ノエルの出たテレビ番組観たよ。夢中で観たよ。かっこよかった…」
と言う眞子にノエルが、
「ぼくもまこがリアムと踊った映像観たよ」
と返し、日本でリアムとすごした遠い時間の破片が、眞子の中に舞い戻る。
「まことリアムが組んで踊る日がくるなんて想像したこともなかったから… けっこう衝撃で… しかも《海賊》なんて… ぼくも眞子と踊れなかったのに…」
言葉を選び選び押し出すように、それでも努めて明るい口調で話していたノエルが、店内に流れ出した音楽に耳をとられ、その先の言葉を失う。
かかっているのは、ふたりが初めて一緒に振り付けて踊った曲だった。




