大阪 2003年 ②
毎年、会社が閉まるお盆の数日間しか夏休みをとらない健一が、9月の連休の前後になら有給を取りやすいと突然言い出し、ガイドブック片手に会社の書類を作成するような集中力と勢いでパソコンを乱れ打ちして、立派な旅程を完成させた。
「ふ~う、できたぁ」
一仕事終えた充足感をにじませた健一が目頭をもみながらプリントアウトした東北への旅程は、二泊三日でびっしりとスケジュールがつまっていた。
葵には重篤な症状を引き起こす食物アレルギーがあるため、一泊するだけでも事前に宿泊施設にアレルギーの説明と対応依頼が必要なのだが、
「うちはアレルギー対応してないので」
とあっさり断られることもあれば、逆に調子よく受け入れてくれた宿泊施設がいい加減に対応した結果、旅先で病院行きになったこともある。
事前に交渉しておいた宿泊施設で無事すごせても、旅の道中に食事をとろうと思えばそこでも入店を断られたり、大丈夫だと言われて注文したメニューに実はアレルゲンが入っていて大変な目にあったりで、眞子は旅や外食のつど人間不信におちいりそうだというのに、二泊も…
9月の連休の直後には幼稚園の運動会もある。
「もも組さんで一番かけっこがはやい男の子と女の子だけ出られるやつがあるって!」
と、葵が話していたのはリレーのことだろう。
かけっこが得意な葵は選ばれる気満々だ。
しかしその時期は、まだ暑いなか夏休みが終わって再び幼稚園に通いだし、疲れがたまって熱でも出すころではないかとそもそも心配していたのに、慣れない旅行で体調を崩して楽しみにしている運動会を欠席することにならなければよいが…
「二日も大丈夫かなぁ。授乳してた頃やレトルトの離乳食もっていけた頃はまだよかったけど、大人と同じもの食べるようになってからは、ほら、軽井沢の保養所いったときもアレルギー対応お願いしてたのに大変なめにあったし…」
と眞子が言い終わらないうちに、健一は眉毛をぴくんと動かし、
「え?行きたくないの?」
と苛立った声音で言う。
そんなこと、と否定しかけて、眞子は返答に迷う。
自分が行きたいのか行きたくないのか、わからない。
家族旅行、というものには、あんなにあこがれていたのに...
「葵、この連休の後すぐに幼稚園の運動会もあるし。また熱出したりしたら…」
「熱出したら休めばいいじゃない」
健一にとっては万事単純明快だ。
何をどう伝えていいのかわからず眞子が口ごもっていると、
「え、なに、行きたくないなら早く言ってよ」
と、健一は被害者のような顔で印刷した旅程を眞子の手からひったくるが、「早く言って」も何も、幼稚園の行事日程は4月に配布されてすぐにカレンダーに書き込んであるし、第一、入園してから頻繁に体調を崩している葵の体調やアレルギーのことが、夫は心配ではないのだろうか?
基本的には温厚な夫だが、一度ヘソを曲げたら最後、眞子がよほど下手に出ない限り、この旅行計画は頓挫するだろう。
そしてどこへも行かないまま年老いて、あるいは突然病気で、死ぬのだ。母親のように。
本当はあの時パリにも行く予定だったのに、と眞子は思い出しても仕方のないことを思い出している。
「ごめんね。パリにつれていけなくて」
パチパチと燃える暖炉の火ーーー
「次にヨーロッパに来たときはぜったいパリにも行こう。あと、父親の気がすむように…」
イギリスにも。行くはずだった。
「まこはまずどこに行きたい?」
そうだ!プリンスエドワード島…
アメリカの西海岸にも行こうと話していた。
「いろんなとこに行こうね」
二度と選びなおせない、別の人生で…




