東京 2001年 ②
かつてないほど早く、と言っても8時前だろうか、帰宅してくれた夫に葵を任せてふとんに入った眞子は、割れるような頭の痛みで夜中に目が覚めた。
熱を測ると40度ちょっとだった。
朝になっても熱は下がらず、夫は病院へいくよう勧めたが、自力ではトイレより遠くへはたどり着ける自信がなく、かと言って夫につれていってもらえば、平日以上に病人で込み合う待合室の空気を幼い娘に長時間吸わせることになるのだと思うと、このままベッドで耐えていればいつか熱が下がるのなら、がまんしようではないかと覚悟が決まる。
夫は呆れたように、ホントにいいのね、と眞子の眠る和室の襖を閉め、隣の居間で葵を遊ばせている。
サーティーワンのチラシを見つけたらしい葵が、
「ああい(と葵は自分を呼ぶ)アイックイームこれとこれ! ママどれにしゅるか聞いてくるっ」
と元気な声を上げているのが襖のむこうから漏れ聞こえる。
健一は週末ぐらいしか娘とゆっくり話すこともないからか、あるいは他人の話を聞いているようで実際はあまり聞いていないからか、葵の小さな手が襖にかかるのを見てようやく意図を理解したらしく、
「ああ~ああ、聞いてこない聞いてこない」
と止めに入る。
眞子の具合が悪くなってからもずっと機嫌よくすごしていた葵が初めて、
「うぅわ~~~んっ」
と大きな泣き声をあげた。
眞子の熱は土曜の夜になってもまったく下がらず、脇下にほんのしばらく挟んだだけで体温計は40度を超えた。
実際には何度あるのか知るのもおそろしいし、きちんと計測する気力も体力もない。
健一に水を持ってきてくれるように頼み、ついでに熱が下がらないこと、頭がひどく痛むことを報告したが、さっさと病院に行かなかった眞子に苛立っているのか、それとも自分にうつるのをおそれてか、思いやる言葉もかけなければ額に触れるでもなく、水だけ置いて襖を閉めた。
具合の悪い時ぐらい、もう少し優しくしてくれてもいいのではないか?
過去にそう訴えたこともあったが、
「じゃあどうしてほしいの?『大丈夫~?』とか言って心配そうな顔すればいいの? ナンセンスだね。そんな偽善的なこと、ぼくにはできない」
と言い返されてからは、実際に思いやる気持ちがあれば「偽善的」ではないはずだが、と思いつつも、これ以上よけいに不快な思いをしたり傷つかないためには、死んでも夫に優しさを求めてはいけないと心に誓っている。
翌朝の日曜日、ついに健一の運転する車で休日診療所にいくことになったのは、葵までもが発熱したからだった。
発熱後は葵を健一と同室で寝かせ、自分は別室で休んでいたのだが、娘に自分の病気、それがなんであれ、を移してしまったことに、眞子は落ち込む。
よく太った中年の女医は、大人でこんな高熱が続くなんてインフルエンザぐらいしか考えられませんと言い、その場合、今から薬を飲んでも手遅れなので、と説明して、葵にだけ、ぐいぐいと棒を鼻の穴につっこむ検査をした。
葵はぶるんっと大きく身震いしただけで、涙ひとつこぼさなかった。
検査結果は陽性で、ということはお母さんの高熱もまちがいなくインフルエンザですよ!と女医が声を大にして断言し、すぐに薬を飲み始めればお子さんの熱は明日か明後日には下がりますけど、お母さんは自力で熱が下がるまで安静にするぐらいしかありません、「手遅れです」ともう一度くり返した。
もう3月も終わりだということもあったし、大人になってからインフルエンザなどとは無縁だったこともあり、驚いた眞子は、
「インフルエンザの流行は長いんですね」
と思考の鈍った頭で感想を述べて、女医に呆れた顔をされる。
診療所から戻った葵は、
「あちゅいっ!あちゅすぎるっ」
と言って泣き出したが、ごめんね、と言う眞子に額を撫でられているうちに眠りにおちた。
2人ともインフルエンザと判明した今、感染を恐れる健一は、
「ギョエー」
と、すっとんきょうな叫び声をあげて自らを別室に隔離し、月曜の朝になると何事もなかったように出勤した。
しかしその夜、
「寒気がする」
と言って金曜よりも早く帰宅し、検温したところ36.7℃しかなかったが、
「ぜったいインフルエンザだ」
と忌々しそうに呟き、夜間救急病院にすっとんでいった。
検査結果は陰性だったが、
「まあインフルエンザだったとしても、ある程度増えるまでウィルスって検出されないんですよねー」
と呑気に話す若い医者に健一は、妻も娘もインフルエンザなのだと力説し、なかば強引にタミフルをもぎとって帰宅した。
迅速な薬の服用が功を奏し、健一は一日も欠勤しなかった。
立派な企業戦士だ。
「お母さんはウィルスがもう体中で増えるだけ増えちゃってますから熱が下がるまでに1週間、やっと下がったと思っても更にもう1週間ぐらいはだるいままで、元気になるまでに2週間くらいはかかると思っててください」
と告げられたときには、
ソ、ソンナオオゲサナ…
と、そもそも意地の悪そうな女医の言葉を話半分に聞いていた眞子だったが、女医の言うとおり、その後、眞子の体調はなかなか回復しなかった。
体も気持ちも弱った状態で、誰にも看病もされなければ優しくもされないまま横になっていると、このまま孤独死でもしそうな心境になった。
せめて死ぬ瞬間だけでも、生きていてよかったと、もう死んでもかまわないと、幸せな場所に帰れるような気持ちで永遠の眠りにつきたい… そんなことをふと考えた。




