ニューヨーク 1992年 ④
「本当にいいの?」
と言いながらも、ナタリーは明らかにうれしそうだった。
「助かるよ」
とダレンもほっとしたように言った。
「夕方には戻るようにするから。何かあったら連絡してくれる?」
と電話番号を書き残し、リアムの額に手をあててから、砂糖菓子のような淡いピンクのドレス(この季節には寒そうだがとてもかわいらしかった)にうもれたヘイリーの手を引いて、夫婦はあわただしく出ていった。
残された3人はリビングで《バックトゥーザフューチャー》のビデオを見た。
ソファーに横になっているリアムは機嫌よく笑い声を立て、こう見えてこの俳優はもう二十何歳で、とか、続編の録画も探せばどっかにあるはず、とか、いやないかも、などと楽しそうに話している。
結婚式に参列できなかったことも、体調が悪い自分を置いて家族が出かけてしまったことも、気に病んでいるようすはない。
映画を見た後ノエルと眞子はキッチンで、昼に何を食べようかと相談する。
今朝ナタリーに、
「ターキーがあるからサンドイッチでも作って食べてくれる?病人のリアムにはキャンベルのチキンスープあるから」
と言われていた。
「ターキーってつまり感謝祭の残りだよね」
「他に何がある?」
「冷凍庫にこれ、パンプキンパイ?」
「それも感謝祭のだよね」
「たぶん。や、もしかするとハロウィーンかも」
「じゃ、さらに古いよ」
と言って、ふたり同時に笑い声をあげた。
「何か買ってくる?」
「何がある?」
「もっとも家から近いのは中華かタコベルかバーガー系かな」
と話し合った結果、タコベルに決めた。
ノエルが買い出しにいき、眞子がリアムのためにチキンスープを缶からボウルに入れてレンジで温め、りんごをむいた。
昼を食べてから再び《バックトゥーザフューチャー》の続編(探すまでもなく同じビデオテープに入っていた)を見た。
朝は平気そうだったリアムが体をくの字に曲げてお腹を押さえだしたので、眞子は電子レンジで温めたタオルをビニール袋に入れ、リアムの腹部にそっとあてた。
なんとなくそのようなことをしてみてからそれは、小さなころお腹が痛くなると母親がしてくれたことではなかったかという気がしたけど、もうはっきりとは思い出せない。
「雨になるのからしら?」
ナタリーがどんよりと曇った空を見上げる。
「今日は本当にありがとう。次に会うのはクリスマスコンサートかな」
と、ダレンが言う。
眞子とノエルは《海賊》のパ・ド・ドゥを踊ることになっている。
「マコはプリンセスでしょっ」
とのヘイリーの問いかけに、わたしの踊るメドゥーラはプリンセスじゃないけど、ノエルの踊りがすごくカッコイイんだよ、と眞子は言い、眠っているリアムによろしく、とノエルが言って、いつも通り手を振った。
ナタリーの家を出たときにはまだ夕闇だった空が、バスを待っている間にとっぷりと暮れていく。
マンハッタンに戻るバスは空いていて、ふたり並んで後部座席に落ち着くと、ほどよくきいた暖房が眠気を誘った。
降りだした雨が、ぽつり、ぽつりとバスの窓ガラスを濡らしていた。
人さし指でなぞるとひんやりとした冷気が指先から伝わり、眞子はぶるんと小さく身震いをした。
Are you cold?と耳元をくすぐるノエルの声を聞いたのが、眠りに落ちる前の、最後の記憶だった。
強い衝撃におそわれた。
頭が割れるように痛んで意識が遠のく。
すぐに意識はもどったけれど、周囲の混乱と動揺がおそろしかった。
何より、血まみれのノエルがおそろしかった。
見てはいけない。
忘れられなくなるから。
今すぐに目を閉じて、脳裏に焼きつく前に、なかったことにしなければ。
このあと救急車で病院に運ばれて処置室にでも吸い込まれたら最後、もうこれまでのノエルも幸せも消えてしまう…
ちがう?
それは別の記憶?
激しく痛む頭が混乱している。
これ以上考えられないし考えたくもない。
ぜんぶ悪い夢だと信じたい。
強く信じて悪夢が終わるまで目を閉じていれば、今度は元の世界に戻れるかもしれない…
気がつくと眞子は、病院のベッドでノエルに手を握られていた。
そのノエルの目の周りにきつく巻かれた包帯を見て息をのむ。
ノエルの頬に手をあててから、
足!
足は大丈夫だろうか
と、自分の足を確認する。
バスはマンハッタンに入り、ふたりの降りる停留所まであとわずかな距離だったところで追突事故に遭ったのだった。
事故を起こしたのは眞子たちと同年代の若い男で「D.U.I」だったと、後日知らされた。
「D.U.I?」
「Driving under the influence―――飲酒運転とか。このドライバーはドラッグやってたって」
命に関わるようなけがを負った乗客はおらず、事故はニュースにさえならなかった。
眠っていた状態で頭をぶつけた眞子はそのまま意識を失ったようで、危険な目にあった記憶すらなかった。
割れて飛び散った窓ガラスで瞼をざっくり切ったノエルも、体は負傷しなかった。
心配された視力の低下も見られず、傷跡はまだ生々しかったが、抜糸がすむとすぐに《海賊》のパ・ド・ドゥのリハーサルを再開することができた。
《海賊》は、クラスメイトが祝ってくれた19歳の誕生日に、ノエルが眞子のために踊ってくれたバレエだ。
あの日から、いつか一緒に踊る日がくるかもしれないと楽しみにしていたので、決まったときはふたりで顔を見合わせて喜んだ。
ノエルのアリにふさわしい、完璧なメドゥーラを踊りたい。
クラッセンで一般公開されるダンスパフォーマンスは年に15回あるが、なかでもこのクリスマスコンサートは学年末のパフォーマンスと同様、学校が所有する5つの劇場のなかでももっとも大きな劇場で開催され、900余りを数える座席はびっしりと埋まる。
ダンスカンパニーやメディアが足を運び、生徒の家族もそれぞれ自慢の息子や娘を観にくる。
自分の家族は来ないのだからよけいに、誰かの印象に残りたい。
ノエルの家族には、眞子がノエルのパートナーに値すると思ってもらいたい。
ギビンズ先生にも業界の人たちにも認められたい。
完璧を目指して眞子は自分を追い込み続ける。
一日が終わり、シャワーを浴びていても食べていてもベッドに入っても、頭の中では常に《海賊》のメロディーが流れていた。
閉じた目の裏で踊りをなぞっていると、神経が冴えて眠れなくなる。
考えないようにしても旋律は、いつの間にかどこからか、追い払えない蚊の羽音のように舞い戻ってくる。
アメリカに来るときに涼子が贈ってくれたウォークマンで、踊りとは関係のない曲を聴きながら眠ろうとしても、気づけば音に合う動きを想いうかべている。
眠りに落ちる直前の夢の入り口で、大きく前に振り上げた右足が着地に失敗して激痛が走る。
我にかえり、ここは舞台でもスタジオでもなくアパートの部屋だと、けがをすることなく今日も無事に一日が終わったのだと自分に言い聞かせる。
それなのに右足が痛い気がするのはもしかすると、あのバス事故で何かしらダメージを受けたのだろうか。
それとも、中学生のときにコンクールでけがをしたときの古傷だろうか。
今回、《海賊》で踊る眞子のソロは、あのコンクールで踊ったガムザッティのヴァリエーションと同じ踊りがベースになっている。
右脛をさすっていると、コンクールに来てくれなかった父と姉だけでなく、とうに死んでしまっていた母親にまで、あの日には気づいていなかった恨みや怒りに似た感情が、なぜかこみ上げる。
このまま負の土壷にはまってはいけない。
息をゆっくりと吐いて、吸って吐いて…
そう思うのだがうまくいかず、逆に呼吸が乱れてくる。
ノエルーーー
ノエルはぐっすりと眠っている。
体はここにあるけど意識はない。
孤独が眞子にからみつこうと触手を伸ばす。
ふりはらうようにベッドから抜け出し、外の空気を吸うためにそっと窓を開けると一瞬で、涙でにじむ夜空を見上げていた京都の自宅のベランダに迷い込む。
出口を探すが出口は夜の闇にふさがれている。
いま眞子は、あの頃と同じことを考えている。
お母さんのかわりにさっさと死んでいたら、こんなに苦しむことなどなかったのに。
睡眠をとって翌日に備えるべきなのに、夜の迷路から抜け出せない。




