ニューヨーク 1991年 19th Birthday
日本では1年でもっとも孤独を感じていた正月が、アメリカでは呆気なく過ぎてくれることが、眞子にはありがたい。
休暇を家族と過ごすルームメイトのボニーと一緒に、年末年始をカンザス(想像以上の田舎だった!)ですごしたが、1月2日の午後には寮に戻り、3日からはすでに新学期が始まっている。
「リハーサル室で新作の振り付けだって」
「え、今から?」
来週だと聞いていたのに、と思いながらも、眞子はレッスン着の上にパーカーを羽織り、ノエルに促されるままリハーサル室に急いだ。
重い防音扉を開けたとたん、眞子は音の洪水にのみこまれる。
ゴージャスにアレンジされたバースデーソングをピアノで奏でる龍の隣で、どこまでもどこまでも伸びていくボニーの歌声が部屋中に響く。
目を見開いて驚く眞子の表情が笑顔に変わるのを、クラスメイトたちがわくわくした顔で見つめている。
眞子の胸にチクリとよぎった小4のときのお誕生日会ごっこ―――りっくんのエレクトーンや買い出しに行ったスーパーヒカリヤや祝ってもらえなかった自分の誕生日―――の色褪せた記憶が、より鮮やかな記憶で塗り替えられていく。
演奏が終わると、皆が口々に
「ハッピーバースデー!」
と叫び、キャンドルの炎をゆらしながらケーキが運ばれてくる。
こんなふうに誰かに誕生日を祝ってもらうのは何年ぶりだろう。
切り分けられたケーキは毒キノコのごとく色鮮やかだが、おそるおそる口へ運ぶとそれなりにおいしいケーキの味がする。
ステレオからは音楽(眞子の知らない騒々しい曲)が流れ、リハーサル室はパーティー会場と化している。
「日本からの小包みが届いてたから勝手に持ってきちゃった。きっとプレゼントだと思って」
ルームメイトのボニーから手渡された包みは、バレエ雑誌《コッペリア》の編集室からだ。
「ずいぶん丁寧に開けるんだね」
「アメリカではビリビリにやぶくものなのに」
そんなことを口走るクラスメイトたちが見守るなか、ピシッピシッと包装紙のテープを外して開けた包みの中には、最新刊のコッペリアと、町田や笹本先生やモデル仲間が寄せ書きした誕生日カード、そしてレオタードに重ねるニットの上下とレッグウォーマーが入っていた。
「かわいい!マコ、いっぱいおしゃれなウェア持ってるよね」
オーストリアからの留学生シモーンが、白地の上に空色が重なったデザインのショートパンツを手に取って眺める。
たしかに、洋服は数少ないなかから着まわしているけれど、レッスン着は日本でモデルをやっていた頃のものも含め、フェミニン系、エレガント系、スポーティー系、清楚な雰囲気のものから大胆なデザインまで、たくさん持っている。
なにしろ、レッスン着でいる時間のほうが洋服を着ている時間よりもはるかに長い。
「あ、載ってる」
雑誌を見ていたブラッドが、クラッセンの外観やスタジオ、カフェテリアや寮の写真を見つける。
学校の許可をもらって眞子自らが写真を撮り、町田に送ったものだ。
留学生活をレポートするこのコーナーのタイトルは「世界に羽ばたくスワンたち」におさまり、十分恥かしいタイトルだが、「眞子のとことん~」よりはマシだ。
眞子の名前がついていない分、このコーナーでは眞子以外のダンサーの卵が取り上げられることもある。
「逆方向にページめくるんじゃないの?こっちが表紙だよね」
リタが雑誌を取り上げ、アメリカとは逆側に開く雑誌をものめずらしそうにめくる。
「何これ?」
と尋ねられたページに載っていたのは、「恋愛するならどのタイプ?」というタイトルの占いだ。
イエス・ノーで質問に答えると、バレエに出てくる男性登場人物の中からおすすめ(?)の恋愛相手が選べるという適当なやつだが、
「やるやる」
と女子たちが言うので、眞子は英語に訳しながら読み上げる。
「あなたの理想の相手はジークフリート…て、白鳥と黒鳥の見分けもつかない男」
「私はソロルだって。彼だって裏切り者だし」
「でもソロルの踊りはかっこいい! ボーイフレンドがバレエダンサーだったら踊ってほしい」
「私はバジルだな」
といつの間にか話はそれて、自分のために踊ってほしいバレエの話でもりあがり始める。
「マコは?何踊ってほしい?」
こんな会話はバレエに無縁の人には退屈なのでは、と、ボニーと龍を気にしつつ、
「《海賊》かな」
と眞子は思いつきで答える。
ボニーは同じ中西部出身のジャックと、「帰省に安くて便利な航空会社はどこか」というようなことを話し込んでいるので問題ないが、龍は会話に入れず、青いクリームのべっとりついたケーキを黙々とつついている。
ふと眞子は思いついて、《ラ・カンパネラ》を弾いてほしいとお願いしてみる。
すると龍はあっさり、
「いいよ」
と、フォークを置いて立ち上がる。
手持ちぶたさから、あるいは着色料のかたまりのようなケーキから解放されてほっとしたのだろうか。
てきぱきと窓際に立てかけてあった折りたたみの椅子をピアノの横に広げて、眞子に勧める。
「なにが始まるの?」
とノエルに呼び止められた眞子は、
「龍にピアノ弾いてもらうの」
と答えてから、龍の用意した特等席に腰かけた。
鐘が響くような出だしの音で、リハーサル室が静まり返る。
繊細な指先が力強く複雑な旋律を紡ぐ。
ときおり微かに眉をひそめる以外ほとんど表情すら変えずに、軽々と鍵盤の上でステップを踏むような龍の指さばきから、眞子は一瞬も目が離せない。
演奏を終えた龍の指が鍵盤を離れたとたん、割れるような拍手が起こった。
しかし龍は、お母さんの機嫌を気にする子供のような瞳で眞子の反応を窺っている。
「魔法みたい」
眞子が思わず日本語でそう呟くと、龍はようやく安心したように、ふっと軽く息を吐いた。
「舞踏科も!なんかやらないと音楽科に負けてるぞ」
「誰か踊るしかないよ」
「誰が?」
「何を?」
「バースデーダンス」
「バースデーソングしか知らん」
「即興で作るんだよ、即興の授業受けてるんだから」
龍の演奏に沸いた延長で、次のパフォーマーを選ぼうと、場が賑わう。
「《海賊》の男性ソロがすきだって。ね、マコ」
先ほど、すきな踊りを眞子に尋ねたリタが言う。
「《海賊》踊ったらすきになってくれるって」
「じゃあ踊ろうかな」
と、人生で一度も《海賊》を踊ったことのないブラッドがふざけて言い、
「あるよ、海賊」
と、さっきからステレオをいじっていたジャックが、CDをセットする。
「じゃあノエル」
と誰かが言ったのを合図に、
「ノエル!ノエル!」
と手拍子が起きる。
そう言えば、と眞子は思い出す。
入学直後のオリエンテーションで、新入生がそれぞれ自由に作品を選んでソロの踊りを披露するというイニシエーションライブ(「洗礼ライブ」と、眞子の記憶には刻まれていた)があり、ノエルが踊ったのが《海賊》だった。
自分の出番を控えていた眞子はノエルのソロをじっくり見られなかったのだが、「踊ってほしい男性ソロ」を聞かれて真っ先に浮かんだのが《海賊》だったのは、あの時のイメージが残っていたのだろうか。
自分の名前をシュプレヒコールされたノエルはちょっと困ったような表情をうかべていたが、覚悟を決めたように眞子に歩み寄ると、踊りの中のマイムのようなしぐさで右手を差し出し、見やすい場所に眞子をエスコートして座らせた。
ヒューヒューと囃したてる声にまじって
「シャツ脱げよ」(*この踊りの衣装はたいてい上半身が露わになっているので…)
などと言う声が聞こえ、
「しっ、静かに」
とシモーンがしかめっ面で注意する。
訪れた静寂の中に流れたのは、しかし女性ソロの曲だ。
「ちょっと!」
「ちゃんとやってよ」
「ふざけてるでしょ」
「まじめにやってるよ」
と一悶着あった後、無事男性ソロの曲が流れだす。
その音楽がステレオからではなく、踊るノエルからあふれ出るかのように、眞子には感じられる。
胸がすくほど、音と一体になって舞うノエルを見ながら眞子は、彼と踊っているときは自分も音と、そしてノエルとひとつになれるのだと、うっとりと考える。
自信たっぷりに踊り終えたノエルが、まだ呼吸がおちつかないまま、自信なさげに眞子に問う。
“Do you like me, now?”と。
喚声にまぎれて、他の誰にも聞こえない声で。




