ニューヨーク 1990年 8月~ ④
ノエルと眞子が課題の曲選びに夢中になっていると、ヘイリーが、
「そろそろ夕ご飯の時間じゃない?わたしは時計も読めるのよ」
と言うので、ステレオのボリュームを上げて、リビングからキッチンへ移動する。
「日本のごはん食べてみたいな。作れる?」
と眞子はリアムに話しかけられるが、巨大なラザニアを両手で運ぶノエルのために熱々のオーブンを開け閉めするのに気を取られていて、生返事になってしまう。
ヘイリーの陽気なおしゃべりとは対照的に、リビングのステレオでは憂鬱な曲が流れ、ノエルが
「この曲どう?」
と眞子に尋ねる。
歯みがきをすませた子供たちは、取り決めどおり8時ちょうどに寝室へと引き上げていく。
読書好きのリアムは、毎晩眠くなるまで部屋で本を読むのが楽しみなのだと言う。
「踊りたいのあったら振付け考えてて」
ノエルはそう言い残してから、子供たちをつれて階段をのぼっていった。
家の中が急に静まりかえり、眞子はぽつんと取り残された気分になる。
そしてカセットテープのケースを開ける、カパッという音で一瞬にして、姉がデートから帰ってくるのを心細く待ちわびていた小学生の自分にもどる。
さびしくてさびしくて長い長い週末の夜。
お姉ちゃんはデートからまだ帰ってこない。
共同で使っている部屋の片隅、お姉ちゃんのものが置いてあるカラーボックスを覗きこむ。
ごちゃごちゃと積んであるカセットテープの中から、知っているアイドルの名前が書いてあるものを選び、ケースからそっと取り出し、隣の部屋で酔っぱらって寝ているお父さんを起こさないように、音をしぼって歌を聴く。
時計の針はまだ8時を過ぎたところ。
お姉ちゃんはまだまだ帰ってこない。
たまにはちょっとぐらい早めに帰ってきてくれる、なんてことは決してない。
今夜も夜10時にキーンコーンカーンコーンと鳴り響く総合庁舎の鐘とカツカツと団地の廊下を急ぐヒールのかたい音を滑稽なほどシンクロさせて、お姉ちゃんはお父さんとの取り決めである門限ぎりぎりに家にすべりこむのだろう。
大好きな人とすごした時間の余韻をひきずった顔で。
毎週毎週。
土曜日も日曜日も祝日も。
いいなぁ大人は、と小さな眞子は思っていた。
聖子ちゃんの歌にも、好きな人と海に行ったり、映画を観たり、プレゼントをもらったり、と楽しいことがいっぱいつまっていた。
大人になれば、こんな楽しい世界にいけるのだろうか?
歌詞に耳を澄ませながら、ハートの形をしたピンクの缶をこっそり開けて、お姉ちゃんのピアスを眺める。
金色のや赤いのや、大きいのや小さいのが、宝物みたいに輝いて見える。
キラキラした華奢なやつを指でつまんで耳に当ててみる。
お姉ちゃんの手鏡を覗き込んでにっこりしてみる。
大人になりたい。
死ぬことも他の人になることもできないのなら、せめて早く大人になりたい、と眞子は思っていた。
「おまたせ。気に入った曲あった?」
はっとして眞子は、手にしていたカセットテープがカーペットの上にすべり落ちるのを目で追いながら、必死で自分に言い聞かせる。
大丈夫、自分はもう子供ではない、と。
あの部屋にいた小学生ではない、と。
大人になった自分は、誰の邪魔にも迷惑にもならずに生きていけるのだと。
すきなところで、すきなことをして。
すきな人と。
「ごめん、びっくりさせちゃった?」
テープを拾ってくれたノエルの手が一瞬、眞子の指に触れる。
踊るときにはいつも握っているノエルの、力強く、優しい手。
この手を、いつでも、すきなときに握れたらーーー




