蛇足過去2(魔王、銀、薄紅)
向けられる優しさを無条件で信じることはやめた。
~それいけ魔王さま!~
ざあざあと降りしきっていた雨もようやく止んだと思ったそんな時。
「今日はここまでにしましょう」
まだこの世界に来て日も浅い彼女に銀は羊皮紙を丸めながらそう言った。
「その軟弱な頭にきちんと叩き込んで下さいね。そうでもしないと無為な時間の無駄にしかなりません」
丸めた羊皮紙を棚にしまうと、壁にかけられた古めかしい時計がかちりと秒針を進める。
「次は剣術の指南ですが、私は執務がありますので本日は薄紅が担当致します」
「え?」
その時ようやく銀の言葉に弾けるように顔をあげた彼女の黒い髪が揺れる。銀色の瞳から逃げるように俯いていたその瞳もまた見事な黒だ。
「何か問題でも?人払いはいつものようにしてありますし、稚拙な貴方の演技を見破る能力くらいは備えていますから襤褸を出してもよろしいのですよ」
滅多にお目にかかれないー否、長い記憶を遡っても、黒を生まれ持って得ていたのは一人しかいないほどー類をみない稀な闇色の瞳に浮かぶ色は混乱に猜疑、恐怖に嫌悪そして、ちらちらと垣間見れるほんの少しの、敵意。
いつもの庭の奥。嫌がる体を引きずった先に薄紅色を見た。
「お待ちしておりました魔王さま。自分は刑部、紅尚書の先導警士を拝命している薄紅と申しまする。本日より幾日か不束ながら自分がご教鞭をとらせて頂きまする」
ぬかるんだ地面に膝をつきながら、そのまま頭を垂れていた薄紅を私はきっと冷めた目で見ていただろう。そんな薄紅との邂逅だったけれど、実際問題、薄紅とは仲良くやってこれた。
最初は勿論話しかけもしないし、目を合わせることもしなかった。だけどやっぱりあれだ、ボロも出してよかったし、付かず離れずちょうどいい距離を保ってくれる彼の個性というか性格が日本人に似ていたせいというのもあるけど。
「そして、ここをこうするのでございます」
「ここを、こう?」
「はい。御上手です」
にこりと決して大きくはない瞳を細めて褒めてくれる薄紅に私もほんのりと口元を緩めた。互いに警戒していた初期の頃が逆に不思議でならない。薄紅くらいが、厳しいこの世界で唯一私に優しさらしきものをみせてくれたというのに。
嗅覚が思い出したようにふいに赤いバラが放つ甘くて濃厚な匂いが鼻をついた。バラに埋め尽くされたこの庭の色は、赤だ。汗が頬をつたう。
「薄紅の色は梅の色だね」
「…うめ、でございまするか?」
私の発言にきょとんとした薄紅に小さく笑って模擬刀を放り投げると、彼は困ったように模擬刀へと視線を向けて、次いで自分の手の中の木刀を見下ろしたかと思ったらそのまま私と同じように地面に腰を下ろした。大理石が多少濡れはしているけれど体力的にもしんどくて気にしないことにした。こうした我侭に付き合ってくれるのも薄紅だけだ。
もう一度、バラ園を見渡す。赤い世界で薄紅が纏う色はそれらに似通っているにも関わらず、異様に私の瞳には浮いて見えた。だって、薄紅色は家族と毎年一緒に見ていた色だから。
『にいちゃんは桜より梅派だなあ、ーーはどっちが好きだ?』
「そう。松竹梅の梅。梅ってここにはないの?」
「そのようなものは内界にはございませぬが、中界か外界には存在するやもしれませぬ」
「そうなんだ。梅の花って良い香りするし凛としてるし凄い綺麗なんだよー」
膝の上にのせていた顔をこてりと薄紅に向けて、そのままへにゃりと笑いかけた。(桜もね、綺麗なんだよ)そう言いかけてそっと唇を閉じた。
だって言ったってどうせ知らないんだから言う意味なんて、ない。(息が苦しいな)
そんな私を不信に思ったのだろう、薄紅は言を返すことなく先を促すように黙っていたけれど、もう一度誤魔化すようにへにゃりと笑ってみせた。先ほどと同様の笑みを浮かべたつもりだったんだけど、どうしてか薄紅には気にかかったようだ。だって、ほら、みてよ。顔が歪んでる。
「ーなぜ」
次いで零れ落ちそうになった言葉に薄紅は慌てて閉口した。くしくも彼女に声は届かなかったのだろう、視線は下に向けられ擦り傷や青痣の浮いた膝をそっと撫でていた。
「今まで生きてきた中でこんなに痣を作ることになるなんて思わなかった」
「……お怪我の治療を致しましょう」
「うん」
薄紅は優しいね。
そう言いたかったけど、口を噤んで空を見た。あいも変わらずそこには大きな丸い月。注がれる月光が眩しくて、ただただ瞳を閉じた。