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選ぶ側の席

柳端は、一睡もせず朝を迎えた。


会議室は、音が反響しないよう設計されている。

壁面の吸音材が、声の余韻まで遮断する。

残るのは、必要最小限の発話だけだった。



正面のスクリーンに、二つの世界指数が並んでいた。

World-A:安定度 63%

World-B:安定度 61%

統合予測成功率:72%

分離維持限界時間:残り18時間

柳端は数字を見ていた。

見慣れた値が、意思決定の対象として表示されている。


局長が口を開く。

「統合処理を実行する」

淡々とした声だった。

「責任者は君だ、柳端」

誰も反対しない。

誰も驚かない。


彼だけが両位相に干渉できる。

彼だけが第三位相との接触履歴を持つ。

それが、彼を責任者にした。

「君は観測者ではない」

局長は言う。

「選ぶ側だ」

選ぶ側。

その言葉だけが、吸音材に吸われず残った。


「統合は破壊じゃない。

重複を処理し、損失を最小化するだけだ」

柳端は一瞬だけ、目を閉じる。

「異論は?」

ない。

柳端は頷いた。

それが承認として記録される。


夜。

川沿いの道を、彼女と歩く。

まだ決定は告げていない。

だが、黙っていることがすでに裏切りのように感じられた。

「統合が決まった」

言葉にした瞬間。

彼女は足を止めなかった。

「あなたがやるの?」

「ああ」

短い肯定。

彼女はしばらく何も言わない。

やがて、静かに問う。

「あなたが、選ぶの?」

「消えるわけじゃない。統合だ。二つを一つにするだけだ」

「一つにできなかった部分は?」

柳端は答えなかった。

彼女は立ち止まり、振り向く。

「統合って、消失を別の名前で呼んでるだけでしょ」

川面に、二つの街の灯りが揺れていた。


同じ橋、同じ信号、同じ帰宅の人波。

だがどちらかは、もうすぐ存在しなくなる。

彼女はその光を指さした。

その目に怒りはない。

ただ、確信がある。


「あなたは守りたいの?それとも、責任から逃げたいの?」

責任。

その言葉は正しかった。

選ばなければ崩壊する。

選べば、何かが消える。

彼は言う。

「崩壊よりはましだ」

「本当に?」

彼女の声が、わずかに震える。

「崩れない世界なんて、あなたが信じてるだけじゃないの?」

柳端は応答できない。


彼女は続ける。

「あなたは、また選ぶの?」

その問いは、責めるためではなかった。

ただ、彼の中に残っている“人間”に向けられていた。

“また”。

その語が胸に刺さる。


彼は選んだことがある。

あの事故の日。

効率優先の判断。

救命対象一名。

最適化。


彼女は目を逸らす。

「私は、あなたの観測対象じゃない」

それだけ言って、歩き出す。

柳端は追わなかった。


統合端末室。

白い光が床に反射している。

中央の操作卓に手を置く。

個体認証完了。

ディスプレイに父の記録ログが呼び出される。

なぜそれを開いたのか、自分でもわからない。


交差点の映像。

ブレーキ音。

赤色灯。

自動最適化プロセス。


救急車の中で、父は何かを言おうとしていた。

だが、その声は記録に残っていない。

《救命効率最大化のため、対象を一名に限定》

その一名は、父ではなかった。

“最適”ではなかったからだ。

そのとき柳端は知った。

世界は、人を選ぶ。


柳端は思い出す。

泣き叫ぶ自分と、説明する医師。

「仕方がなかった」という結論。

最適化。

あのときも、誰かが選んだ。

構造が選んだ。

誰かが座っていた。

選ぶ側の席に。


今、その席に座るのは自分だ。

端末が起動する。

《統合プロセス、準備完了》

《カウントダウンを開始しますか?》

柳端は、はいを押した。

5

二つの地図が重なり始める。

4

都市の輪郭が揺らぐ。

3

片側の空が、薄くなる。

これは統合ではない。

優先順位の固定処理だ。

2

身体が操作を拒否する。

モニターにノイズ。

《判断は管理局が行います》

機械音声が、静かに宣言する。

それは命令ではない。

世界の前提だ。

同時に別系統の信号が重なる。

《観測不能》

第三位相の干渉ログ。

1

指先が、確定ボタンの上で止まる。

選べば、守れる。

選ばなければ、崩れるかもしれない。


だが――

守るとは、排除することか?

父は守られなかった。

効率の外に置かれた。

彼女は言った。

「また選ぶの?」

柳端は、手を離す。

カウントダウン停止。


警告音が鳴る。

統合処理中断。

指数急落。

通信が入る。

「何をしている、柳端!」

局長の声。

「続行しろ。今なら間に合う!」

間に合う。

何に?

柳端は通信を遮断する。

端末の電源を落とす。

静寂。


二つの世界指数が、不規則に揺れ始める。

だが崩壊はしない。

ただ、指標化できなくなる。

観測不能。

それだけが表示される。

管理局中央制御室。

「データ取得不能!」

「基準世界、特定不能!」

「第三位相、識別喪失!」

局長は画面を見つめる。


白転。

境界線消失。

操作主体が存在せず、決定処理が実行不能となる。


初めて、選ぶ側の席が空席になる。

柳端は、夜の街に出る。

世界はまだ揺れている。

崩れてはいない。

ただ、管理可能な対象から外れただけだ。


彼は理解する。

拒否は、破壊ではない。

構造から降りることだ。

彼は、選ばなかった。

ただ、選ぶ側の席を離れた。


その瞬間。

系の挙動が変化する。


第三位相の気配が、静かに溶けていく。

未観測領域への遷移が、始まった。



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