彼女の観測
視界に映ったものが、わずかに遅れて形を持った。
足元に意識を向けた瞬間、地面が確定する。
踏み出す直前まで、そこには何もない。
見て初めて、存在が成立する。
彼女は足を止めた。
地面が消えた。
いや、消えたように見えた。
さっきまで確かにあった場所だ。
なのに思い出そうとすると曖昧になる。
背筋が冷えた。
彼女は周囲を見渡す。
空を見上げると、遅れて夜空が形成された。
視線を外した場所は、維持されない。
振り返ると、さきほどまであった地面が消えている。
消えたのではない。
最初から確定していなかっただけだ。
彼女は小さく息を吐いた。
呼吸の音も、わずかに遅れて耳に届く。
時間が遅れているというより、順序そのものが安定していない。
原因は分からないが、少なくとも通常の物理法則は成立していなかった。
それでも、彼女自身は存在している。
自分の身体は崩れない。
それは、自分が自分を認識し続けているからだと直感した。
視界の端で、何かが揺れた。
粒子のようなノイズが、断続的に現れては消える。
一瞬だけ人の形に見えるが、すぐに崩れてしまう。
彼女は目を凝らした。
見えてはいる。
しかし、形として確定していない。
「……そこにいるの?」
声に出してみる。
返答はない。
だが、その言葉に反応するように、揺らぎがわずかに安定した。
彼女は気付く。
この領域では、単に見るだけでは不十分だ。
対象を認識し、意味を与えなければ、存在は維持されない。
「いる」
誰に向けた言葉かは分からない。
それでも口にする。
「いる」
その瞬間、 揺らぎが少しだけ形を持った。
肩や腕のような形が現れるが、完全にはならない。
維持できない。
観測が足りていない。
彼女は理解した。
この世界は、一人の観測では支えきれない。
そのとき、意識の奥に別の観測の存在を感じた。
距離は分からない。
だが確かに、強い観測点がある。
柳端。
彼がどこかで観測を続けている。
だから、この領域はまだ完全には崩壊していない。
「……柳端」
初めて名前を呼んだ。
返事はない。
それでも少しだけ安心した。
この世界には、自分以外もいる。
たったそれだけの事実が、 今は何より大きかった。
観測同士が干渉している。
未来が固定されていない証拠だった。
彼女はゆっくりと目を閉じ、もう一度開く。
今度は意識的に、周囲を認識する。
足元の地面。
周囲の空間。
揺らぐ輪郭。
それらを一つずつ確認し、存在を確定させる。
すると、足場は崩れなくなった。
空間もすぐには消えない。
ノイズも、先ほどより長く形を保っている。
「……維持できる」
小さく呟く。
消えたくない。
それよりも、
柳端を見失いたくなかった。
だから前を向く。
足元が消えるなら、 見続ければいい。
選ぶためではない。
残すために。
彼女は静かに言った。
「私も観測する」
誰かが見続ける限り、存在は消えない。
それが、この世界の性質だ。
彼女は一歩踏み出す。
足場が遅れて確定する。
その先へ進む。
まだ決まっていない未来へ。
そして同時に。
別の観測点で、柳端は選択を拒否していた。
二つの観測が干渉し、世界は確定を保留する。
どちらにも決まらない状態。
それは不安定であると同時に、可能性が残されている状態でもあった。
彼女はもう一度歩き出した。
足場は遅れて生まれる。
空も遅れて形になる。
それでも進む。
まだ、彼を見失っていない。
それだけで十分だった。




