戻ろうとするもの
世界がまだ一つだった頃。
祖母だけが、その揺れを痛みとして感じていた。
数字に現れない誤差は、 いつも身体から始まる。
分離装置の起動音は静かだった。
祝福のように。
警報は鳴っていない。
祖父は数字を見ていた。
祖母は世界を見ていた。
空気が重い。
数値は安定を示している。
だが皮膚の裏側がざらつく。
耳鳴りが止まらない。
――まだ重なっている。
「止めて」
祖母は言った。
「今なら、まだ戻せる」
祖父は振り返らない。
「戻せば崩壊する」
「崩壊しない」
祖母は首を振った。
「崩壊させないために分けるんでしょう」
光が走る。
空間が折れる。
だが祖母が感じていたのは破壊ではなかった。
置いていかれる感覚だった。
世界が二つに裂けるのではない。
何かが、その隙間へ落ちていく。
記録されないもの。
数えられないもの。
名前を与えられないもの。
祖母には、それが分かった。
「分けたら、戻ろうとするものが生まれる」
祖父の指が一瞬だけ止まる。
だが装置は止まらない。
光が臨界へ達する。
視界の端で、何かが落ちた。
それは都市でもない。
国でもない。
未来ですらない。
二つに分かれるはずだった時間から零れ落ちた、わずかな余白だった。
「お願い、止めて」
今度は声が震えた。
祖父は目を閉じた。
そして分離は完了する。
数値は安定。
警報なし。
理論上は成功。
管理局は後に、この夜を成功例として記録した。
失われたものは存在しない。
誤差はゼロ。
そう定義された。
だが祖母は知っていた。
ゼロとは、見えなくなっただけだ。
消えたわけではない。
記録の外へ押し出されただけだ。
「いずれ、戻ろうとする」
祖母はそう言った。
祖父は答えなかった。
「その時は、止めないで」
それが最後の願いだった。
そして今。
あの夜に零れ落ちた余白は、まだ消えていない。
管理局はそれを逸脱と呼ぶ。
第三位相と呼ぶ。
だが祖母は別の名で呼んでいた。
――戻ろうとするもの。
あの夜、名前を持てなかったものが、今は歩いている。
選び始めている。
分離は終わった。
だから今度は、戻ろうとしている。




