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記録に残らなかった家

フェンスに触れた指先に、祖父の言葉が重なる。

それは、記録に残らなかった家の記憶だった。

柳端の祖父母の名は、管理局の年史にはない。

だが痕跡だけは、消えずに残っていた。


祖父は、若い頃、観測補助機構の立ち上げに関わっていた。

当時の観測とは、管理ではなかった。


異常は、すぐに処理される対象ではなく、「しばらく眺めるもの」だった。


一方、祖母は管理局とは無関係だった。

ただ、祖父の仕事を、隣で見ていた。


夜遅く帰宅する祖父の話を、祖母はよく黙って聞いていたという。


「今日は、世界が少し遠かった」

祖父は時々そう言い、祖母は否定しなかった。


分離の兆候が、最初に現れたのは、正式な異常報告よりもずっと前だった。

祖父はそれを、「観測誤差」とは記録しなかった。


祖母だけが、その変化を「気配」と呼んでいた。

「何かが、選ばれようとしてる」


「選ばれなかったものは、どこへ行くのかしら」

祖母の声は静かだった。

だがその問いだけが、部屋の空気を変えた。

「誰かが、ではないのよ」

祖母はそう言って、祖父を見た。

「世界が、よ」


やがて管理局は、観測を「安定化のための装置」へと変えていく。

測ることは、決めることになり、記録は、判断と処理を伴うようになった。

祖父は、その変化についていけなかった。


祖父は、最終的に第一線から外された。

処分ではない。

異動でもない。

ただ、記録に関われなくなった。


祖母は、その変化をはっきりと感じ取っていた。

「見ないふりを始めたのね」

祖父は否定しなかった。

否定できなかった。


ある夜、祖父は一つの個人記録を残した。

正式なログではない。

提出もされていない。

家庭用端末に保存された、短い断片。


《観測は、世界を確定させる行為だ》

《だが、世界は本来、確定を拒む》

《拒まれた側が、異常と呼ばれる》

《だが異常とは、別の可能性の名だ》

《もし再び重なりが始まるなら、観測するな》

《触れよ》

《触れた者だけが、分けられなかった側へ辿り着く》

《触れた者だけが、境界を越える》

その記録は、

管理局には渡らなかった。


だが、完全にも消えなかった。

祖母が、消さなかったからだ。

だが、消せなかった理由は、保存のためではない。

終わらせた瞬間、残された側が固定される。

だから祖母は、曖昧なままにしておいた。

触れられる可能性を、閉じなかった。

「これは、まだ使われる言葉じゃない」

祖父が亡くなったあとも、その端末は家に残された。


埃をかぶり、誰にも開かれないまま。

やがて、二人の息子――

柳端の父が、その存在を知ることになる。


彼がそれを読むのは、

世界が再び、“ずれ始めた”あとだった。

彼がそれを読むのは、 世界が再び、“ずれ始めた”あとだった。


父は祖父ほど理論を理解していたわけではない。

祖母のように違和感を言葉にできたわけでもない。

それでも、一つだけ受け継いでいた。

「見なかったことにするな」

祖父は世界を測ろうとした。

祖母は世界を感じ取ろうとした。

父は、そのどちらでもなかった。

ただ、そこにあるものを、 消えていないものとして扱おうとした。

境界付近の調査を志願したのも、 そのためだった。

事故報告書には残らない。

だが父は最後まで、 境界の向こう側に何かが存在すると信じていた。

そして、その信念だけが、 柳端へ受け継がれた。

だが、記録が残らない形で、拒否だけは残した。


そして今。

その余白に、再び座標が打たれた。


観測者ではなく、

触れてしまう者として。


その名は――柳端。

祖父が残し、 父が守り、 祖母が消さなかったもの。

記録されなかった家の、 最後の継承者。


フェンスの向こうで、灯りが揺れる。

それは過去ではない。

今だ。


柳端は、境界へ一歩踏み出す。

踏み出したのは足だけではない。


その瞬間、世界のどこかで、別の何かが一歩退いた。

重なりが、わずかにずれた。


世界は、まだ完全には分かれていない。

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