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彼女の視点

第三位相には、朝も夜も存在しない。

光も闇も、こちら側の世界ほどはっきりとは分かれない。

彼女は、ずっと見ていた。

正確には、見続けるしかなかった。

観測されない世界では、時間は進まず、ただ積み重なるだけだった。


だから彼女は、同じ瞬間を何度も観測する。

同じ街。

同じ空。

同じ人々。

だが、その中でただ一つだけ、少しずつ違うものがあった。

それは――柳端だった。


最初に気づいたのは、ずっと前だった。

彼がまだ管理局に入る前。

もっと小さかった頃だ。

第三位相から見える彼は、いつも誰かの隣を歩いていた。

背の高い男だった。

帰り道に立ち止まり、壊れた自転車を直し、空を見上げる癖があった。

その姿を、彼女は覚えている。

だが名前は思い出せない。

第三位相では、古い記憶ほど輪郭から失われていく。

その男は、時々こちらを見ていた。

見えているはずがないのに。

まるで境界の向こうに誰かいることを、知っているかのように。

それでも不思議と、その男がいなくなった日のことだけは覚えていた。

その日を境に、柳端は空を見る回数が増えた。

彼は、他の人間と違っていた。


世界の「ズレ」を、完全には見逃さない。

普通の人間は気づかない。

気づいたとしても、すぐに忘れる。

この世界は、そういう仕組みだからだ。


観測されなかった違和感は、記録されない。

記録されなかった出来事は、存在しない。

だが柳端は違った。

気づく。

そして、忘れきらない。

完全に覚えているわけではない。

だが、小さな引っかかりとして残る。

それが、彼女には分かった。


最初は偶然だと思った。

だが違った。

何度も観測して、確信した。

一度だけ。

柳端が立ち止まったことがある。

誰も気づかなかった。

風も。

信号も。

通り過ぎる人々も。

だが彼だけが、 何もない場所を振り返っていた。

その瞬間を、 彼女は今でも覚えている。

その性質は、この世界にとって異物に近い。

それは才能ではない。

むしろ、この世界で生きるには不向きな欠陥に近い。

だからこそ、管理局は彼を選んだ。

それは保護ではない。

監視だった。


世界の安定を守り、境界を管理する組織。

だが彼女は知っている。

管理局は、いつも境界を守ると言っていた。

だが彼女は知っている。

あの組織は、 何かを守っている人間たちの顔ではなかった。

何かを忘れ続けている人間たちの顔だった。

その事実は、公式記録には残っていない。


彼女のいる場所。

第三位相。

そこは、切り捨てられた世界だった。

最初の分離のとき、選ばれなかった側。

管理局の記録では「消失地域」と呼ばれている。

だが実際には、消えていない。

ただ、観測されないだけだ。


管理局の記録では「消失地域」と呼ばれている。

だが実際には、消えていない。

ただ、観測されないだけだ。

彼女は覚えている。

もう名前も思い出せない人々を。

声だけが残っている。

笑い方だけが残っている。

だが顔は消えた。

第三位相では、記憶だけが先に摩耗していく。

人は生きている。

街も残っている。

季節も巡る。

それでも、観測されないものから順番に輪郭を失っていく。

昨日まで覚えていたはずの誰かが、

今日になると曖昧になる。

大切だったはずの言葉が、音だけを残して意味を失う。

忘れたくないのに、忘れてしまう。

だから彼女は観測を続けていた。

忘れないために。

自分がここにいたことを、

誰かがここで生きていたことを、世界から消さないために。


観測されない世界は、存在していても干渉できない。

声は届かない。

姿も見えない。

触れることもできない。

それでも彼女は、ずっと待っていた。

誰かが、こちらを見る瞬間を。


彼女は覚えている。

もう名前も思い出せない人々を。

声だけが残っている。

笑い方だけが残っている。

だが顔は消えた。

第三位相では、 記憶だけが先に摩耗していく。

だから彼女は、 忘れないために観測を続けていた。


境界は、一方通行ではない。

見ることができれば、見返すこともできる。


だから彼女は、忘れないために観測を続けていた。

そして今、柳端の名前だけは、まだ消えていなかった。


その条件を満たす人間は、ほとんどいない。

だが柳端は違った。

彼は、観測をやめない。

違和感を完全には無視できない。

それが、彼女にとっての希望だった。

そして昨夜。

初めて、信号が届いた。

未分類信号。


管理局の観測網を、わずかにすり抜けた波形。

それは彼女が送ったものではない。

第三位相そのものが、揺れたのだ。

世界の境界が、ほんの一瞬だけ重なった。

その瞬間。

柳端が、こちらを見た。

直接ではない。

だが確かに、観測した。

それだけで十分だった。


境界は、完全ではない。

観測は、世界を固定する。

だが同時に、繋げてもしまう。

柳端は、もう一度ここへ来る。

彼女はそれを確信していた。

未来を見ているわけではない。

ただ、流れが分かる。

観測を続ける人間は、必ず境界に辿り着く。

それが、この世界の構造だからだ。


そして今日。

ついに彼は、非公開区画に入った。

彼女は、静かに息を吐いた。

長い時間だった。

こちら側では、時間の長さを測る意味はない。

それでも、この瞬間だけは分かる。

待っていた時間が、終わる。

柳端が、記録装置に触れる。

その瞬間、第三位相がわずかに揺れた。


世界の向こう側で、誰かが初めて扉に触れたような感覚。

彼女は目を閉じた。

そして、ゆっくりと呟く。

「やっと来ましたね」

声は届かない。

それでも、構わなかった。

柳端はもう、こちら側を観測している。

観測された世界は、完全には消えない。

それが、この世界の法則だった。


そして今。

境界の向こうで、彼が振り返る。

彼女は微笑んだ。

柳端は、もう戻れない場所まで来ている。

境界は、完全ではない。


彼女は微笑んだ。

嬉しいのか。

怖いのか。

自分でも分からなかった。

境界は、 人を繋ぐためにあるのではない。

時に、 取り返しのつかない形で重なる。

それでも。

彼は来る。

そして今度は、 自分が彼を観測する番だった。

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